広がる醜聞
イグナス家の坊ちゃんが城下の娘にご執心――という醜聞はたちまち近隣の街にも広がり、しばらくリュイナールの朝市は野次馬や冷やかす客で溢れた。
店番をしていると特に好奇の視線や「あれが噂の……」なんて囁く声が届いてくる。
遊びで城下の娘に手を出すくらいなら、多少品格は疑われるが珍しい話ではない。
問題は、あの宣言にあると思う。
生涯幸せであるように責任を持つ、という。
生涯傍に置いてくれるとも取れるその宣誓を思い出すと、心臓が不整に脈打って頬が染まりそうになる。
けれど。
けれども。
彼がなんと言おうと、将来ちゃんと身分のある人を妻に迎えなければならないはずだ。
3男とはいえ、ふたりの兄は遠方にある広大な妻の所有地を治めることに忙しく、この街の実権を託される可能性は高い。街娘なんか責任を取ると言っても妾、あるいは経済的に面倒を見るだけという可能性のほうがよほど現実的だ。
気を抜くとうっかり舞い上がりそうになる自分にそう言い聞かせて、地に足をつけている。
――ねぇ、あれがシオン様が心酔していらっしゃるっていうお相手?
――呼び捨てにするなんて随分思い上がった小娘だこと。
――それを許すなんて、シオン様も人がいい。
――恋は盲目というが、しかしいくらなんでも……。
――騙されてるんじゃないの?
――どちらにしろ愚かしい。
ひそひそと囁く声が喧噪の狭間から耳に届いて、飛び立ちそうな心の翼を切り裂いて地に落とす。
心臓が、凍り付く。
舞いあがったり落ちたりのきりもみ状態に心が引き裂かれそうな、そんな気がした。
私のことは、構わない。
どこにでもある雑草のようなものなのだから。
けれど、彼は違う。
彼の醜聞が流れるのは、この街のためにもいいことではないのに。
「……雰囲気が悪い」
シオン様は簡易テントの奥でその様子を眺めてぽそりと呟いた。今にも文句を言いに行きたそうな顔をしている。
「客商売ですから。噂はともかく売り上げは伸びて嬉しいくらいですよ」
笑顔を添えてみたけれども、彼は納得いかないと不機嫌な顔をしたままだ。
人は噂を好む。
さらに言えば醜聞をより好む。
イグナス家御用達の箔がついた時も客足は伸びたけれど、今はそれ以上だった。
「人目が気になるなら、畑仕事の方にいらっしゃればいいのでは?」
「嫌だ」
と、言いながらやおら立ち上がったかと思うと唐突に私の肩を抱き寄せるから、心臓が飛び出しそうになった。
何事かと顔色を伺えば、不機嫌な表情で睨んでいる先にニヤニヤした笑いを浮かべた若い貴公子がいた。その貴公子が行ってしまうと、するりと手が離れた。
それを名残惜しく思ってしまう自分を叱咤する。
「……あるいは、もう目が醒めたと言ってここに来ないとか」
「絶対に嫌だ」
胸の痛みを堪え笑って提案してみると、彼は苛立たしそうに拒否した。
彼は本当に、敢えて見せつけようとする時を除くと手をつなぐことすらしないままだ。
彼は対等でありたいと言った。
だけど、この状態は果たして対等だろうか?
一方的に守られて、私はそれに甘えているだけ。あんな嘲笑を甘んじて受けている彼に、なにもしてあげられないのに。
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