第6章 謎多き一騎当千の仮面公、最大の危機
6-1 老人と雨と
その日は朝から重苦しい雲の垂れ込める、どうにもすっきりしない一日だったが、いよいよ天の水嵩が限界に達したのか、日が落ちる段になって遠慮がちに雨が降り出し、それは次第に激しさを増していった。
とはいうものの、この程度の雨量なら中止も順延もしないというのは、仲間うちでの暗黙の了解事項だった。暴風雨で道路が封鎖されたとか、それに類する非常時でなければ。
でもなあ、雨の日の鉄仮面は最悪なんだよ。
そんなことを考えながら、うら寂しい物置小屋に傘を差してやって来ると、なんと先客がいた。
褐色の肌のか弱い小娘、ではない。今度は老人である。
「これはこれは、失礼致した。ここはお主の住まいであったか。来意も告げず転がり込んでしもうて、大変申し訳ない」
こんな小汚い場所に人が住めるわけないだろうが。そう言い返そうとした俺は、相手の様子を見て言葉を呑み込んだ。
置物のように
眼が見えないのか。
「じいさん、あんた眼が」
「うむ。若い時分に色々と下らんものを見過ぎたようでの。すっかり眼の玉が萎えてしもうたわ。
じいさんはフォッフォッと自嘲気味に
水気を吸って重たげなみずぼらしい外衣に、すっかり禿げ上がった頭頂部。豪華な僧衣に帽子を被って禿頭を隠している、往生際の悪い神官長に見せてやりたいものだ。
「すまぬの。雨がやんだら出て行くでの、それまでここにいさせてくれぬか?」
雨宿りだったのか。
「いや、別に朝まで休んでていいぜ。俺はもう出るし」
眼が不自由なら、ここで仮面を着けても問題なかろう。俺は老人の前を堂々と通り過ぎ、抽斗から鉄仮面を取り出して被った。
宮廷での覗き魔騒動ののち、仮面は俺自身の手でとうに回収済みだった。第一秘書が命名した〈覗き魔〉という呼称はどうにかしてほしかったが、俺の口からはなんとも言えない。
「お主、なかなか面白いものを持っておるのう」
「えっ?」
出し抜けにそんなことを言われ、ドキリとした。
このじいさん、見えているのか?
「おいおいじいさん、冗談きついぜ」
眼が見えないってのはハッタリか?
「いや、言い方が悪かったかの。物の形は判らぬのだが、儂は視覚を失った代わりに、通常は眼に留まらぬ、人の持つ〈運気〉のようなものが見えるのだ」
「運気?」
「お主が声を発している辺りに、面白い気脈が漂うておるのでな。つい口を滑らせてしもうた」
運気も気脈も
「口許……いや、口というより、もっと横側の……そう、耳ぞな。顔の横の双つところに、
……言っている意味がよく判らない。まさか、霊感の名を冠した詐欺の類じゃあるまいな。
「悪いけど、俺そういうの興味ないんで」
これ以上ここに用はない。んじゃ、と声をかけそそくさと物置を離れる。
去り際にもじいさんは、
「興味がないとな。そうかそうか、興味がないか、フォッフォッフォッ」
と、身じろぎ一つせず、ただただ謎めいた笑いを発するばかりだった。
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「ヌリストラァドだ」
「〈
「秘密などなし。女神の奏でる竪琴の前に、凡ては
「時に今日の天候は?」
「凡夫の愚問に等しい。俺は今地上の楽園を彩る芸術の話をしてるんだ」
「今日の天気は?」
「繰り返すな。オウムかお前は」
「真紅のディーゴはなんと啼く?」
「ディーゴは啼かず。ただ歌うのみ」
扉の向こうで鍵を外す音。屋内へ入り込む。
「全員来てるか?」
「ええ……ところで仮面公」見張り役が不満げに口を開く。「今度の合言葉、もうちょっとなんとかなりませんかね? 質問が多くて面倒なんですが」
「こういうやり取りは複雑なほうが確実性が高いんだ」
「はあ。ですが、あんまり意味ないような」
「口答えするな。もう決まったことだ。再来月の集会まではこれでいく」
「はあ、すいません」
部屋に到着。なんとなく空気が
こっちを見る一同の眼も昏いし、挨拶の声もやや重苦しい。屋根を打つ雨音のせいだけではなさそうだ。俺は雨に濡れた仮面を丹念に拭い、暖炉で傘と上衣を乾かした。
「実は」俺が来るのを待っていたように、参謀は早速切り出した。「仮面公がお出でになる前に話し合っていたんですが……今回の侵入に対して、まだ踏ん切りがつかない者がいるんです、何人か」
「伝染っちまったのさ、参謀お得意の心配症が」デルベラスの
「そうじゃない」抗するは急先鋒ガルンシュ。「今度の相手は、これまでの金持ち連中とは訳が違う。武器の密輸組織だ。いいか、武器だぞ? 攻撃力の差は歴然としている。何より天候が悪すぎる。そうでしょう、仮面公の旦那?」
「こんな雨如きで甘ったれるな、斥候」イプフィスが噛みついた。「大体、ベヒオットはこの雨の中、傘も差さないで来たんだぞ。悪い条件下での戦いに少しでも慣れようと」
見ると、戸口脇の定位置に寄りかかって立つベヒオットは、濡れた全身を乾かそうともしていない。足下にはちょっとした水溜まりさえできている。
戦闘の準備に余念がないのは結構だが、風邪ひいても知らんぞ。季節の変わり目の風邪は意外と長引く。外務大臣にどやされるまでもなく、身を以て体験したことだからな。
「密輸組織の根城は、役人どもの詰め所に近いんだ」続いて口を切ったのは、あの名前も思い出せない優男。「運良く野垂れ死にを免れたとしても、役人に捕まっちまったら意味ないぜ。俺たちゃ前科もあるし、牢獄へまっしぐらだ」
「ああ、確かにあの独房に幽閉されるのはご免だな。ただ、歌声なんかは相当気持ち良く壁に響きそうだが」
俺はつい口を滑らせ、言う必要のないことまで言ってしまった。
「い、行ったことあるんですかい、旦那?」
「あ、いや、うん、まあな」
「ひょっとして、こないだ宮廷に仮面公が現れたって話、あれまさか事実なんですか?」
「お、おうとも」
おおーっと賞賛の声が上がった。
「さすが首領! そうやっていけ好かねえ議員どもを煙に巻いてやったんですね」
「にしたって、独りで乗り込むなんて無茶ですぜ」
「いやいや、大したお方だ。俺たちとは格が違うのさ」
変なところで感心され、俺は仮面の下で溜め息を吐いた。こんな実のないやり取りは早いとこ終わらせよう。
「ここはお上の評議会に
俺の提案に異論を挟む者はいなかった。
「密輸組織への襲撃に賛成の者は挙手してくれ」
手を挙げたのは全部で十二名。〈斥候のガル〉ことガルンシュと、渾名どころか本名も知れぬ優男の二人だけが、腕を組んでむっつり黙り込んでいる。
「裁定はここに下った。賛成多数により本案は可決とする」
よしよし、と顔を綻ばせる者多数。反対派の二人は未だ不服そうだが。
「議題は尽きた。これにて三重に偉大なる議会を解散する」
思わず口を衝いて出た結びの言葉に、同志たちは一斉に眉を
「仮面公、なんです今の」
「三重に偉大な、議会?」
俺は仮面の後頭部に手をやり、あ、いや、なんでもない、と返すのが精一杯だった。
「なんか、えらく本格的でしたね」
「ま、まあな」
努めて平静を装うけれども、仮面の下の顔色は蒼白か紅潮か、どのみちまともな状態ではなかったろう。
「そうと決まったからには、出掛ける準備だ」
「おうとも!」
「合点だ!」
「お前たちも自分の任務は怠るなよ」
サヴェイヨンの高圧的な言葉が飛ぶ。
「判ってるよ」拗ねた様子で肩を
古の将軍曰く、賽は投げられたというやつだ。今までにない死闘の予感が
まあどうにかなるだろう。
装う必要もないほどに心の平静を取り戻した俺は、仮面の奥で暢気に口笛を吹く素振りをした。それに気づく者は当然皆無だったのだけれど。
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