黒桂

 玄関のドアハンドルに手をかけたまま、結は躊躇ちゅうちょしていた。

 なにかいたらどうしよう、おそるおそる様子をうかがうと、玄関ドアの硝子ごしに琥珀がみえた。覚悟をきめて扉を押しひらく。小走りに琥珀のもとへむかった。

「おはようございます。きてくださってありがとうございました」

「おはよう。なに、結はうちの大切なアルバイトだからな。不安だったか?」

「……こわかったです」

「安心しろ。もう心配ない」

 琥珀の笑みに安堵あんどしかけたとき、施設からにぎやかな声がきこえてきた。幼稚園児たちが登園する時間だ。小学生たちも園庭に出てきつつあった。

「あの……琥珀さん。ちかくに公園があるので、そこでおはなししませんか?」

「かまわんが学校はいいのか?」

「今日は午後からなんです、入学式で」

「ならば場所をかえよう。わざわざここで話すこともない」

 すんなり承諾がえられて結は心のなかで胸をでおろす。おなじ学校にかよう一般家庭の生徒に、施設にいるところをみられるかもしれないという危険を冒したくはなかった。


 ならんで川ぞいの道をあるく。かつての城下町とはいえ、和装の琥珀は人目をあつめそうなものだが、ときおりすれちがう人たちは見むきもしない。結はかすかに聞こえるきよらかな音色に気づいた。琥珀の帯留めで、いくつかの鈴がゆれている。

 石の鳥居をくぐって、ふたりは公園に入った。夏におおきな祭りが開催される神社に隣接した公園で、それなりの広さがあるが、さすがにこの時間は人影もまばらだ。

 噴水のちかくにある藤棚で結は歩みをとめた。たったひとりの女性の存在が、飽きるほどみた景色から現実味を消しさっている。

「あの、なんなんですか? あの声って」

「ただの野次馬だ。ひとまずこれを身につけておけ、瑠璃からだ」

 琥珀はふところの筥迫はこせこ――うつくしく装飾された紙入れから銀のペンダントを取りだすと、結に手わたした。メダル型のペンダントトップには、両面に幾何学模様や見たことのない文字がきざまれている。

「綺麗……」

 日の光をうけて放つ輝きに、結は目をほそめる。

「コーヒーフィルターのようなものだ。必要なものだけをとおす。野次馬どもの声もきこえなくなるだろう」

「きこえなくするだけなんですか?」

「充分だ。結にはもともと、たのもしい身辺警護がついているからな」

「……身辺、警護?」

「とはいえ、目にみえるものがあった方が心づよいか。私の部下をつけておこう」

 琥珀は帯留めにつけられた鈴のひとつを指ではじいた。昨日のトートバッグの鈴とおなじ、澄みきった音色が空気をつたっていく。結は眩暈めまいににた感覚をおぼえた。

「いま、……なにをしたんですか?」

「結にわたしたタリスマンお守りの反対だ。この周囲をすこしずらした。私たちが人目にたたなくなる」

 部下は少々内気なものでな、とつづけた琥珀は、ふかく息を吸いこんで空をあおぐ。

黒桂つづら!」

 りんとした声が大気を震わせた。

 つられて空を見あげた結は、彼方の黒点に気づいた。みるまにちかづいてきたそれは、琥珀が差しだした左腕に舞いおりる。結は目をみはった。

 琥珀の髪とおなじ色のつややかな羽衣をまとったからすだ。ただし町で見かけるものの倍ほどおおきいうえに、足が三本ある。

「紹介しておこう。黒桂だ」

「あ、あの……おはようございます。黒桂……さん」

 結を見おろして黒桂はひとこえ鳴く。

「お前と眷属けんぞくたちでこの娘を夕刻まで見まもれ。おかしな輩は排除してかまわん」

 満足げにうなずいた黒桂は、琥珀の腕をはなれ、ふたたび空にきえていく。

「あの、さっきおっしゃってた野次馬って、どういうことですか?」

「結のことがすこし、うわさになっている」

「噂ってなんですか? 一体……なにが起こってるんですか? 本当にわたし、大丈夫なんですか?」

「安心しろ。おそれることはない、なにもな」

 琥珀は結の頭をなでる。ふわりと心がかるくなった気がした。

「くわしい説明は店でするとしよう。学校がおわったらよってくれ、たのみたい届けものもある」

 琥珀の背中がとおざかっていく。鈴の音に似た清涼な香りが、結の鼻腔びこうをくすぐった。

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