黒猫と女 ②
回想すれば、今までの人生で一度として男に幸せにして貰ったことがない。
その中には、母と自分に酷い仕打ちをした父親も含まれている。道楽者の父は呑む打つ買うの三拍子が揃っていた。ほとんど自分は働かないで、妻が稼いだ金で遊び歩いていた。しかも方々に女をつくっては、その女たちからも金をせびり取っている、まるでヒモみたいな男だった。
それでも別れられず父に尽く続けた母だったが……身体を壊し入院生活になった、途端、薄情な父はその母を見捨てた。
よその女を家に連れ込んで一緒に暮らし始めたのだ。
最初に同居した父の女は……もう名前も忘れてしまったが、キャバレーのホステスだった。
美人ではないが色白で男好きのするタイプ、一年前に北陸の町から、三人の子どもを置いて男と駆け落ちをしてきたという。その男と三ヶ月ほど同棲したが金目の物を持って逃げられたらしい。今さら、田舎に帰ることもできず、子どもに会いたいけれど、合わせる顔がない。と、キャバレーの女は嘆いていた。
自分のことを「お母さんだと思って甘えてもいいのよ」と無邪気にそういうが、まだ母は生きている。少し頭の弱いキャバレーの女だった。
当時、中学生だった女が学校から帰ったら、父とキャバレーの女が昼間からまぐわっていた。
二間しかない小さな家の中で、あられもない男女の声が奥の部屋から漏れ聴こえてくる。少し開いた襖から丸見えだった。生々しい男女の痴態に女は衝撃を受けた。耳を塞ぎ目を瞑って外へ飛び出した。
大人の性のことは分からない子どもだったが、今思うと、あの女は心底セックスが好きで、昼夜を問わず、父とまぐわっていた。そのためにキャバレーで働いて、身体も売って、稼いだ金をぜんぶ父に貢いでいたのだ。
半年が過ぎた頃、キャバレーの女にも飽きてきたのか、父は外泊して帰らない日が多くなった。時々、ふたりで言い争いをして父に殴られたりしていた。その度に泣きながら、やけ酒を煽る姿が憐れに見えた。
最初は嫌悪感を抱いていたが、お人好しのキャバレーの女が案外嫌いではなかった。
ある夜、寝ていると誰かが布団に入ってきた。酒臭い息と強烈な体臭で目が覚めた。
「その子は
暗がりにキャバレーの女の声がした。
「えへへ、パンツを脱がせてるところだ」
野卑な男の声もして、自分の下半身をまさぐる手があった。
「男の味をたっぷりと教えてやって」
呂律の回らないほど酔っ払ったキャバレーの女の言葉に、今、知らない男に犯されようとしていることを感じとった。覆い被さった男を満身の力で跳ねのけて、寝間着のまま裸足で外へ逃げ出した。
近くの空き地に朝まで隠れて、
浮気をしている父への腹いせに、その娘を犯させようと企んだようだ。
身の危険を感じて、帰ってきた父に昨夜のことを話したら、さすがに父の顔色が変わった、夕方、銭湯から帰ってきたキャバレーの女を捕まえて殴った、泣きながら謝る女の髪を引き摺り倒し容赦なく足蹴にした。
――怖ろしい修羅場を目の当たりにして(男は怖い)身が
外へ放り出されて「この売女め! 出ていけ!」と罵声を浴びせられていた。しばらく道に
数日後、踏切から電車に飛び込んだことを父から聞かされた。
その時、どんな表情で父が(キャバレーの女の自殺)を語ったのか記憶にない。冷淡な男だったので他人事のように平然と話したかもしれない。
キャバレーの女が自殺したことを聞いて、告げ口なんかするんじゃなかったと深く後悔した。父が
その後も父は次々と女を取り替えていった。
家に連れてくる女たちの洗濯や食事の世話を女がいつもさせられていた。そんな暮らしが嫌で嫌で……早く母に退院して戻ってきて欲しいと願っていたが、病気は完治せず、ついに亡くなってしまった。
中学を卒業すると同時に住み込みで働ける仕事を探して、女は家を出ていった。
父とは音信不通になったが、その後、風の便りで女性トラブルで相手の亭主に刺されて
このようにして、天涯孤独になった女は、二十歳で結婚をするが相手はひと回りも年の多い男だった。
割烹旅館で住み込みの仲居をしていた頃、夫はそこの板前をしていた。職場では真面目で堅物だという評判の男だった。寮に住んでいた女は、その板前から「自分の家で暮らさないか」と話を持ちかけられた。ずっと母親と二人で暮らしていたが去年亡くなってから、一人身がわびしく、家事をやってくれる女が欲しくて声をかけたようである。
大工だった父が建てたいう板前の家を見にいくと、古くて小さな平屋だったが猫の額ほどの庭があり、家の周りは柘植の生け垣で囲われていた。中は六畳が二間と四畳半くらいの板の間の台所、そして南向きの日当たり良い広縁があった。ひと目でその広縁が気に入った。
持ち家がある人と一緒になったら住む所に一生困らないだろうという打算もあって、この家で暮らすことにした。――式もなく入籍だけの結婚だった。
しかし、夫が優しかったのは結婚して半年くらいで、その内、酒を飲んで女に暴力をふるうようになった。小心者の夫はストレスを溜めやすく、酒を飲むとその捌け口を妻に向けた。父親といい、夫といい……なぜか暴力をふるう男と縁がある、これはあがなうことのできない自分の運命だとさえ思っていた。
夫に暴力を受けている時、女はなぜ逃げ出さなかったのだろうか?
どうせ逃げ出しても、それで幸せになれるとは思えなかったし、いつも暴力をふるうわけでもない、だから嵐が去るまで我慢すればいいのだと諦めていた。心の底では「自分なんか死んでも構わない」という自虐的な気持ちもあった。
結婚生活には絶望していたが、さりとて離婚する勇気もなかったのだ。一度として夫を愛したことはない。ただ、この小さな家が無性に好きだった。ここから離れたくなかった。――この女は猫のように人に付かず、家に付いていたのかもしれない。
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