さよなら、星の王子さま。 ②

 書斎の上の棚に置いていた私の〔星の王子さま〕を、息子が勝手に持ち出して、床に寝そべってみていた。

 それを見つけた時、私の頭は真っ白になった。

 私の〔星の王子さま〕なのに……秀之の大事な〔星の王子さま〕なのに……この本の頁を捲れば、いつだって私の〔星の王子さま〕が語りかけてくる、この中には秀之の魂が封じ込められているのだ。だから誰にも触らせたくない!

 私は息子から本を取り上げると、いきなり頬に平手打ちをくれた。大声で泣き叫ぶ息子を容赦ようしゃなく何度も叩いた。我が子であっても、勝手に持ち出した息子が許せなかったのだ。

 隣室から息子の泣き声を聞きつけた夫が駆け込んできた。

 息子の両頬が真っ赤に腫れているのを見て、何があったのかと私に訪ねた。息子が体罰を受けた理由を知った時、夫は私の頬を叩いた。

「おまえがそんな理由で俺の息子を叩いたのなら、二度と許さない。その本を持って、この家から出ていけ」

 怖ろしく冷静な声でいった。

 それだけ夫の怒りが深く、長年胸に溜まっていた、私への不満だったのだろう。

 泣いている息子を抱きあげると、なだめながら、そのまま車でどこかへ出かけていった。おそらく、私がやったことへの罪滅ぼしに、お菓子と玩具を与えにいったのだろう。

 夫は息子を愛している、息子も父親が大好きだ。そんな二人の輪の中に私は入っていけない。それは私の方が壁を作っているせい? 過去に囚われて、現実の家族をないがしろにしてきた結果なのだ。

 あんなに大好きだった人のことを忘れることなんかできない。……けれど思い出にならできる。過去の人として――。


「その〔星の王子さま〕はおまえに買ってあげるから、ママの〔星の王子さま〕も捨てなくていいでしょう」

「うん。けど……」

「大丈夫、もう見えない《だれか》とお話はしない。これからママはパパとおまえとお話するからね」

「ほんと?」

「指きりゲンマン」

 息子のちっちゃな小指に約束をする。

「僕、この王子さまの絵が好きなんだ」

 どうやら挿絵が気に入っているようだ。


 まだ、ひらがなとしか読めない息子には、サン=テグジュペリの〔星の王子さま〕は難し過ぎるのだが、この本は読む度に発見がある。だから、この子にとって生涯の本になるであろう。

「お勉強して、いっぱい字が読めるようになったら〔星の王子さま〕とおまえはお友だちになれるよ」

「わーい!」

 嬉しそうに〔星の王子さま〕を胸に抱いてレジへ向かう息子。

 この子のためにも、いつまでも想い出に縋って生きていてはいけない。《かんじんなことは、目には見えない》それは星の王子さまにキツネが告げた秘密だった。

 過去に固執するあまり、現実を見ようとしない。夢うつつに生きている私の態度が家族を寂しくさせていたのだ。目には見えないあなたの影を追いかけて、大事なものに気づかずにいた愚かな私。かんじんなことは、目の前にあった。この書店で、そのことを息子から気づかされた。

 私にはかけがえのない家族がいる。いつまでもメランコリーに浸ってはいられない。一緒に進まなくてはいけない未来があるから――。

 心の中の《だれか》は栞にして、この本の中に挟んで置くことにしよう。


 さよなら、星の王子さま。



                  ― おわり ―

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