隣の音 ②
そんなある日、隣の部屋からヒステリックに怒鳴る女の声と
大声で泣く子どもの声が聴こえてきた。
ドアがバタンと開いて、ドサッと何かを放り投げる音がして、
再び、ガチャンと乱暴にドアが閉まる音がした。
外から泣き叫ぶ子どもの声がする。
どうやら、子どもを部屋から閉め出したようだ。
咲江はドアチェーンをしたまま、
細めに開けて外の様子を
子供がうずくまって泣きじゃくっている。
まあ、こんな小さな子を可哀想に……。
「ぼうや、大丈夫?」
思わず声をかけてしまった。
顔を上げた子供のほっぺたが、真っ赤に腫れあがっている。
母親に殴られたのだろう?
ひどいことを……きっと虐待だわ!
「おばちゃんがジュースあげるからね」
咲江は泣いている子供の手に、缶ジュースを握らせた。
泣くのを止めて、子供は美味そうにジュースを飲んでいる。
その時、咲江にある考えが浮かんだ、
そうだ! この子にポポちゃんのことを訊いてみようと――。
「ねぇ、ぼうや、おばちゃん家で犬飼ってるのは知ってる?」
「うん」
「こないだ、マンションから落ちて死んじゃったの……」
「…………」
「ばうや、だれが落としたか知らない?」
「うん、知ってるよ」
こともなげに子供は答えた。
「えぇーっ! ホント? だれが落としたの?」
「うちのママがそこから放り投げた」
マンションのフェンスを指差しながら子どもが言った。
やっぱり! なんてヒドイことを……
咲江は怒りで頬が紅潮するのを感じていた。
「おばちゃん、ここだよ! ここからママが落とした」
子どもはフェンスにぶら下がり、下を指差した。
「ここね、ここからポポちゃんを放り投げたのね!」
子どもと一緒に咲江も下を覗き込んだ、目がくらむような高さだった。
「ここから落ちたのね……」
「うん」
咲江は落ちないように子どもの腰をギュッと掴んだ。
「やめろ―――!!」
いきなり、咲江は背後から
それはマンションの管理人だった。
「なにすんの? 離してよっ!」
もがきながら咲江は叫んだ。
「ぼうや、大丈夫か?」
管理人は咲江を放し、フェンスにぶら下がった子どもを抱き下ろした。
「奥さん、今、この子を落とそうとしただろう?」
「なに言っているの? 隣の子どもと下を覗いていただけですよ」
子どもは足元にしゃがみ込んでいた。
「ねぇ、ぼうや」
咲江が頭を撫でようとすると、子どもはビクンと身を硬くした。
「その子どもは隣の子どもじゃないよ! 違う階の入居者のお子さんです」
「嘘っ! そんなバカな、たしかに隣の子どもさんですよ」
管理人は咲江の顔をマジマジと見て、ぽつりと言った。
「隣に人なんか住んでいないんだ……」
「ええー?」
咲江は笑い出しそうになった。
「なにを言っているの? 隣から壁を蹴る音が聴こえてくるのよ」
「奥さん、隣の部屋はあなたが引越しする前から空室で、だれも住んではいない」
「……そんな」
咲江は絶句した。
「隣の部屋はずーっと空き部屋なんだ」
「だけど……音が……それに隣の奥さんが子どもを……」
頭の中が混乱して、訳が分からなくなってきた。
「隣が空き部屋なんて嘘よ! 絶対に人が住んでいるわ!」
咲江は大声で叫んだ。
「隣の音で苦情を言いにきた時から、奥さんの様子がおかしかったから……
わたしはそれとなく、あなたを見張っていました」
「…………」
「他の入居者からも奥さんへの苦情があったんです!
早朝に大声を出す、ゴミの袋を破くなど……いろいろあります」
「管理人さん、ポポちゃんを隣の奥さんが落としたんです!」
「犬はあなたが放り投げたんだ! 上の階の人が見てました」
「そんな! ま、まさか……」
咲江は頭がクラクラして立っていられない。
「架空の住人を作って、みんなの気を引くために事件を起こした」
「…………」
「ミュンヒハウゼン症候群って知ってますか?」
「はぁ?」
「すべて、あなたの自作自演で妄想なんです!」
管理人は咲江の腕を掴み、こう言った。
「警察に連絡します」
その冷静な声に反応するように、咲江は気を失った。
ドンドンドン……
なんの音だろう?
また、隣から聴こえてきたわ。
― おわり ―
※ ミュンヒハウゼン症候群( 英語: Münchausen syndrome )は、
虚偽性障害に分類される精神疾患の一種。
症例として周囲の関心や同情を引くため に病気を装ったり、
自らの体を傷付けたりするといった行動が見られる。
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