かんどう脳

泡沫恋歌

野兎

「おばちゃん、おばちゃん、聴こえますか?」

「……どうやら、昏睡状態で意識がないようだ」


                    *


 ――いいえ、ちゃんと聴こえてるよ。

 お嫁さんと息子の声が……だけど、身体が動かないし、返事もできないんだよ。

 子、孫、曾孫まで、私の最後を見届けに病院に集まってくれたんだね。皆の声が聴けて嬉しいよ。

 人は死ぬ時、過去の出来事が走馬灯そうまとうのように頭の中を巡ると聞いたが、浮かび上がってくるのは、血に染まった大陸の大地だった。

 ああ、よくぞ! 生きて祖国に帰ってこれたことか。


 私は十九歳で満州国にいる、いいなづけの元に嫁いだ。

 夫は満州鉄道の技師として、開拓事業に従事しており僻地での仕事が多かった。夫が出張している間は、私ひとりで満鉄の社宅で暮らしていた。

 戦前の日本はアジアの覇者はしゃとして繁栄を誇っていた。

 大陸満州に渡った日本人たちは裕福な暮らしをしていた。社宅には専任のコックやメイドがおり、社員の妻たちは掃除や洗濯など家事をしなくてよかった。主婦たちは暇を持て余して、満州人(中国人)のコックに弁当を作らせて、みんなでピクニックにいったりして遊んでいた。

 内地では戦争中の食糧不足に人々は苦しんでいたが、満州は食糧も物資も豊富で、ここはだった。


 それが一転したのは、日本が戦争に負けた日からだ――。

 親しくしていた満州人たちが敵になって牙を剥き、八路軍はちろぐんやロシア軍が日本人に襲いかかってきたのだ。

 早く逃げないと殺される! 

 大連だいれんまで行けば、日本からの引き揚げ船が迎えにきていると聞いた。男たちは仕事で不在、社宅の主婦たちで逃走の相談をする。

 その時、一番上役の奥さんがいった「逃げる途中で赤ん坊が泣いたら、敵に発見されて皆殺しだ。赤ん坊は満州人にやるか、親が殺すしかない」残酷な言葉だが、状況はそこまで緊迫していた。事実、多くの日本人たちが金品を奪われて殺されていたのだ。

 その時、私は八ヶ月の赤ん坊を連れていたが、「そんなことはできない」といったら皆から「非国民」だと激しく非難された。

 けれど、戦時中は国策で『産めよ、増やせよ』といわれて、男の子を産んだら、夫の両親や自分の親も喜んでお祝いをしてくれたのだ。大事な我が子を捨てたり、殺したりなんか絶対に出来ない。――そんなことをしたら、生きて夫に顔向けができない。

 まだ若い母親の私に、「生きて帰れたら、また次の子をつくればいい、みんなのためにその子を犠牲にしなさい!」と厳命げんめいされたが、泣いて首を横に振り続けた。


 真夜中に目が覚めたら、社宅の周りが静まりかえっていた。。

 どうやら、一番上役の奥さん言うこと利かない私は、社宅の主婦たちから置き去りにされたようだ。

 女だとバレないように長い黒髪をハサミでばっさり切ったら、夫の服を着て、赤ん坊をおんぶ紐で背負い、手荷物だけを持って後を追いかけた。――真っ暗な原野を、大連に繋がる線路に沿ってひたすら歩き続けた。

 ただ、ひとり赤ん坊を背負い逃げ延びるために必死だった。

 二時間ほど歩いただろうか、真っ赤な朝焼けの大地で見たものは……女と子供たちの夥しい死体だった。

 どの顔にも見覚えあった、一緒にピクニックにいった社宅の主婦たち。殺される前に女だけが受ける恥辱ちじょく、着衣が乱れて、剥きだしの脚がおかしな具合に曲がっていた。ナイフで喉を搔き切られ、腹を裂かれて腸が飛びだしている。どの遺体も死ぬ前に凌辱りょうじょくされて、想像を絶する苦痛を味わってから殺されていた。

 子供たちは一箇所に集められて銃で撃ち殺されていた。昨夜まで、同じ社宅で暮らした主婦たちが無残な屍になっていた。

 この惨状さんじょうに茫然としながらも《早く逃げないと敵が戻ってくるかも知れない》血に染まった死体に目を背けながら、泣きならがら私は走った。


 ふいに人影が現れて、身構えをしたら、社宅の主婦の生き残りだった。

「あんたを置き去りにすると皆が決めたけど私は反対した。日本人同士でそんな薄情なことをしてはいけない」

 八歳と六歳の男の子を連れた節子さんは、私が追い付くのを待っていて、皆から遅れたせいで命が助かったのだ。

 社宅の主婦節子さんは、私よりも九歳上で、大人しいが芯の強い人だった。

 洋裁が得意で社宅の子供たちの服をよく作ってあげていた。特に親しいわけでもないのに、自分のことを待っていてくれたことが嬉しかった。こんな広い満州の荒野を自分一人で逃げ切ることは到底無理なことだ。

 節子さんにも三ヶ月になる女児がいたが、二人の子供を守るために、乳飲み子を連れて逃げるのは無理だと判断して、満州人に赤ん坊を預けてきたという。

 敗戦国日本人はぎりぎりの命の選択を迫られていたのだ。

 母乳が張って痛いからと私の息子に飲ませてくれたが、乳を吸う赤ん坊の姿に置いてきた我が子を思い出してか、大粒の涙を流していた。


 男装の女二人が子供二人と赤ん坊を連れて、大連目指してひたすら歩く。

 あまりに長い道程に、節子さんの六歳になる次男が足が痛いとグズリだした。

「泣くな、それでも日本男児か!」

 子供の頬っぺたに容赦ようしゃなく平手打ちをくれた、節子さんは気丈な母である。

 大人も子供も疲れ果てていたが、休むわけにはいかない、ぐずぐずしていたら敵に見つかって殺される運命なのだから……。

 途中、ジープに乗った五人組のロシア兵に出くわした。

 小用するため停車したようで茂みに向かって放尿する。肩から小銃を下げた男たちは煙草を咥えて、喋りながら歩き回っていた。

 慌てて私たちは窪地の茂みに身を潜めたが、すぐ近くで軍靴の音が聴こえる。ロシア兵に見つかったら殺される!


「どうか、神様お助けください」


 早く立ち去って欲しい……そればかりを願って、必死で神様に祈った。

 その時、背中で寝ていた赤ん坊が起きようとして、ムズムズ身体を動かし始めた。私はおんぶ紐を外し、前抱きにして、夫の登山ナイフを我が子の喉元に突き付けた。

 もし、泣いたら殺す気だった。――そして私も自害する。

 赤ん坊が身体を反った、泣く瞬間! 

 突然、一匹の野兎が目の前に現れて、茂みの外へ飛び出していった。

 ロシア兵は野兎に気を取られて、私たちには気づなかった。みんなで野兎を追い回して銃で仕留めると意気揚々とジープで去っていった。 

 ――どれほどの恐怖だったことか、その後、節子さんと二人で手を取り合って泣いた。


 三日三晩歩き通して、私たちは大連に辿り着き、引き揚げ船に乗ることが出来た。

 京都の舞鶴港まいずるこうに着いて、お互いの夫の安否を気にしながらも、それぞれの郷里へ帰っていった。

 半年後、神戸で婦人服の仕立屋をやっている節子さんから手伝いに来ないかと手紙を貰った。夫の実家で暮らすのも気詰まりなので、実家に帰っていた私は節子さんの誘いを受けて神戸へいった。

 節子さんから洋裁を習いながら、お針子をしていた。女二人と子供たちの生活は忙しいが張りのある生活だった。私の息子の面倒を節子さんの息子たちがよくみてくれていた。

 流血の大地満州から命からがら逃げてきた私たちは、友情を越えた“絆”と信頼感を持っていた。


 三年後、シベリア抑留よくりゅうから夫が還ってきた。

 神戸港に迎えにいった私は夫の胸に縋って泣いた。やっと、やっと家族で暮らせる、その喜びに涙が止まらなかった――。

 夫の就職が大阪に決まったので、そこで家族は暮らし始めた。そして息子の下に妹が二人が生まれた。

 結局、節子さんの夫は日本には還って来なかった……だが、立派に育った息子さんたちがお店を大きくして、今では全国チェーンの婦人服の店舗になっている。

 そして節子さんの次男とうちの長女が結婚して両家は親戚になった。満州から引き揚げてからは、私の人生は平穏無事な日々だった。        


                    *


 思えば、あの時、あのタイミングで飛び出してくれた野兎はまさに神様だった。お陰で長生きさせて貰ったよ。神様ありがとう。


 今から、あの野兎の後を追いかけていくよ――。

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