第一二章『Jの迷宮』
①「見ないフリ」が終わった夜
「シロ!」
邪魔なドアを押し
勢い余ってもつれた足が、タニアの顔面を床に叩き付ける。バン! とロイター
だが呑気に倒れている猶予はない。
タニアは歯を食いしばり、両手で絨毯を突っぱね、跳ね起きる。渾身の力で床を蹴り、一直線にシロへ駆け寄る。
「あいつ、いないの!」
「あいつ……?」
一瞬きょとんとしたシロは、たちまち血相を変え、ペンを取り落とす。
「メーちゃんがいないんですか!?」
「あいつ、ずうっと何か考えてるみたいだった。全然、ご飯も食べなかった。だから心配で、様子見に行ったの。そしたら物置空っぽで……」
改めて口に出すと、今見たばかりの光景が鮮明に甦る。暗闇に占拠された物置が頭一杯に広がると、言葉を作る余裕はどこにもなくなってしまった。折り目正しく隅っこに重ねてあるエサの容器が、崖っぷちに揃えて置かれた靴に見えて仕方ない。
「そ、そうだ、ご飯の時はいたんだ! まだ遠くには行ってないよ! 捜しに行こう!」
焦りからがさつにシロの手を取り、タニアはドアに向けて駆け出す。瞬間、シロの足が絨毯の毛を握るように踏ん張り、無抵抗を疑わなかったタニアを
「少し待ってみませんか」
混乱するタニアにシロが見せたのは、無難な笑み。まるでお菓子をねだる駄々っ子を、「また今度ね」と言いくるめているかのようだ。
「シロ、何言ってんの……?」
半笑いで聞き返し、タニアはシロを見つめる。
本当に意味が判らないと、人は笑ってしまうらしい。
きっと空っぽの物置に平静さを失ったこの耳が、聞き違えたに違いない。でなければシロの喉が、いや思考を司る頭が、誰かのものと入れ替わったのだ。死の砂漠を愛おしげに眺めるメーちゃんを、これっぽっちも目にしなかった誰かのものと。
「戻って来ますよ。メーちゃん、タニアさんのこと大好きですから」
「大好きな人に裏切られたんだよ? 自分が無価値だって思っても無理ないよ……」
信頼している相手に捨てられるとは、どういう気分なのか?
タニアは〈
元々、はっきりとはしない記憶だが、今日はいつも以上に〈
お前なんか要らない――。
冷たく言い放たれた瞬間、全身の輪郭を構成していた
目を閉じたら、シロの手を掴んでいるか放しているのかも判らない。恐らく生きる意味を見失った心が、存在することを放棄しようとしているのだろう。
想像しただけで、この有様なのだ。
現実に宣告されたら、両親を亡くした時に見たあの暗闇が――いや希望を裏切られた分、何倍も深くなった暗闇がタニアの世界を包み込む。一面に広がる砂漠を前にした時より、ようやく辿り着いたオアシスが
「あいつ、下手したら……」
言い掛けた瞬間、タニアは唇を閉じ、慌てて声を噛み切る。最悪の可能性を口にすることに、それ以前に言葉にすることにとても
「でも……」
まだ事態の深刻さが判らないのか、シロは煮え切らない返事を漏らし、頬の内側を舌でつつきだす。固く結び付いた上唇と下唇は女々しく揉み合うばかりで、「はい」も「いいえ」も出さない。
今にも爆発しそうな怒声を抑え込み、タニアはシロを睨み付ける。途端にシロは顔を
ついさっきまで赤一色に染まっていた空が、けばけばしく星々を散りばめている。ロプ
「なんなんだよ……」
本心を打ち明けてもらえない辛さ、
内容も矛先も違う感情が絡み合い、タニアの頭をぐちゃぐちゃにしていく。ついに気持ちを整理しきれなくなったタニアは、叩き付けるようにシロの手を投げ捨てた。
「なんなんだよ、お前!? 何で誤魔化すんだよ! 星が怖いなら怖いって言えよ! 私が責めると思うの!? そんなに信じられないの!?」
ヒステリックな怒号が鼓膜を痺れさせ、焼けたように喉が
だがそうまでして気持ちをぶつけても、シロが返したのは薄ら笑い。
大人な表情でタニアを丸め込み、本音を明かさないつもりだ。
「私は別に……」
白々しくとぼけるシロに背を向け、タニアは窓辺に突き進む。
行動の意図を理解したのか、聡明なシロはすぐに表情を凍り付かせた。
「やっ……」
狼狽したシロはタニアの肩を鷲掴みにし、窓辺から引き剥がそうとする。
だがタニアは引き下がらない。
むしろカーテンに爪を食い込ませ、引きちぎるように開け放つ。
乱暴に扱われたカーテンレールが
白、青、橙、黄色、赤――。
色とりどりに研ぎ澄まされた
ひっ……!
声にならない悲鳴を上げ、シロはじりじりと後ずさる。五歩も下がらない内にかかとが部屋の隅を踏み、シロの後頭部が壁掛けのカレンダーを押し潰した。
逃げ場を失ったシロは、ずるずると背中で壁を滑り落ちていく。なすすべもなく座り込むと、シロは体育座りになり、膝の間に顔を沈めた。星の光に触れる体積を最小限に抑える体勢だ。
見ないで……。
防災頭巾のように手を
深く溜息を吐き、タニアは窓とシロの間に割って入る。タニアの背中が星の光を
「今すぐ怖くなくしてやることなんか出来ないよ。でも身体が震える時、近くにいることは出来る。どうすれば大丈夫になるか一緒に考えられるよ、私にだって。独りで考え込むより、二人で考えたほうがいいに決まってる……」
二ヶ月も抱えていた想いを吐き出すと、頼ってもらえない悔しさが瞳を潤ませていく。
リズムの狂った駆け足が階段を乱打し、古めかしい家屋が重く深く上下する。呼応して大砲のような音が響き渡り、咳の混じった
「階段は静かに降りる!」
厨房から飛ぶ怒声を
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