④迷鳥

 シロに感謝しているのは、アルハンブラだけではない。

 タニアも奴に手を合わせたい気分だ。

 男子がいかに信用出来ねぇ生き物か、嫌と言うほど教えてくれた。


 まず銭湯のKシムさん。

 最近は豆腐屋より早くシャッターを開け、何でも屋稼業で泥だらけになったシロを待ち構えている。三〇年連れ添った奥さまにブラシでブン殴られながらも、番台にしがみつくその背中は、〈ロプノール〉の男性諸氏に教えた。おとこには何人なんびとに阻まれようと、突き進まなければならない時がある。


 第二に近隣の工場の皆さん。

 シロが店を手伝うようになって以来、昼時のミューラー商店にはある変化が生じた。花束を抱えた野郎どもが、来る日も来る日も行列を作るようになったのだ。半年ぶりに来店したハチさんは、花束の山と行列を見て、こう尋ねた。不幸でもあったのかい?


 若い娘に飢えているなら、一一歳のタニアたんにも花束が贈られてしかるべきだ。だが正直者のブルーカラーどもは、看板娘のタニアたんしかいないと、舌打ちを残して外に出ていく。行列もフナムシのように散る。そんな日の夜、タニアたんは焼酎しょうちゅうが手放せない。


 シロを愛してやまないのは、万年発情期な野郎どもだけではない。

 陳腐な言い回しかも知れないが、ほがらかで親切なシロは〈ロプノール〉の皆に好かれている。

 現にシロが商店街を歩いていると、魚屋さんから肉屋さんからひっきりなしに声が掛かる。ミューラー家に辿り着く頃には、両手がコロッケや干物で一杯になっていることも珍しくない。

 二丁目のヨシさんは通帳や印鑑の場所を教えた上で、シロに留守番を任せた。

 六年間〈ロプノール〉で暮らしてきたタニアですら、留守中の家に上げてもらったことはない。むしろヨシさんに声を掛けると、財布の入った手提てさげを背中に隠される。


 愛想も要領もいいシロの名前は、今や〈ロプノール〉の全住民に知れ渡っている。井戸端いどばた会議かいぎの一員になっている姿は、古株の住人以外の何ものでもない。


 それでも、シロは町並みの向こう側を眺めるのをやめない。


 ちんちくりんな建物を越えた先には、超空間の出口がある。

 外界に続く門を開くのには、門外不出の鍵も一子相伝の呪文も必要ない。小一で習う〈詐術さじゅつ〉の基礎と、町を去る意思だけで、シロは広大なタクラマカン砂漠に旅立つことが出来る。一度町の外に出てしまったら、足を棒のようにしても、声をらして呼び掛けても、シロの姿を見付けることは出来ないだろう。


 実のところ、寝食を共にするミューラー家の面々は、シロの名字すら知らない。本人の口から出ないし、伯父夫妻もタニアも詮索しないためだ。


  話す気がないなら訊く必要もない――。

  ターニャだって言いたくない話はあるだろう?


 それまで来客用だった布団を圧縮袋から出した日、マーシャはタニアをさとした。注意には条件反射的に憎まれ口を叩く仕様のタニアも、この時ばかりは神妙に頷いた。

 マーシャが指摘する通り、タニアにも両親の死と言う触れられたくない話題がある。最終的には〈荊姫いばらひめ〉さまとの出逢いに繋がるとは言え、やはり好き好んで語りたい話ではない。

 話すにしろ話さないにしろ、詮索せんさくされれば否応いやおうなく記憶と向き合わなければならない。二つの死体袋を白い菊をの当たりにし、光を喪失するあの感覚を再び味わわなければならない。


 一方でシロを詮索しない理由が、それだけではないのも事実だ。


 目的地ではない場所に流れ着いた迷鳥めいちょうは、今、翼を休めている枝が住処すみかにならないのを知っている。大空を忘れて留まっているのは、単に旅路の疲れを癒すために過ぎない。不用意に根っこを突っつけば、特に居心地がいいわけでもない仮住まいなど、何の未練もなく引き払ってしまう。


 好奇心に負け、少しでもシロに昔の話を訊こうとすると、頭に浮かぶ。

 149㌢分広くなった部屋が。

 独り残された未来の自分が。

 金髪に照らされなくなった世界は、両親を亡くした時のように暗く寒々しい。眺めれば眺めるだけ、地球にたった独り取り残された気分になってくる。直視していられなくなった意識が現実に逃げ込むと、瞳が潤んでいることも少なくない。


 どこの馬とも知れない行き倒れがいなくなったくらいで、なぜ涙腺るいせんが緩むのか? なぜ肉親と別れた時のように、孤独感が膨らむのか?


 タニア自身、不思議で仕方ない。

 二ヶ月間寝食を共にすると、想像以上に情が移ってしまうのだろうか。


 真偽はどうあれ、シロの過去が絡むと、タニアは自分でも驚くほど臆病だ。何か刺激してしまうのではないかと、自分の思い出話を語るのも少し躊躇ためらってしまう。反面、自分を出来損ないと罵るシロを見ていると、別の考えが頭をぎるのも確かだ。


 いっそ訊いてしまってはどうか?


 遠い笑みを見る限り、シロの抱える事情が自分に解決出来るものだとは思えない。そもそも〈小詐校しょうさっこう〉にすらロクに通っていない登校拒否児には、この世のほとんどが手に余る問題だろう。


 とは言え、二人で頭をひねったほうが、独りで考えた時よりマシな答えが出るのは間違いない。シロ独りでは膝を折りそうになる重荷も、二人で分ければ背負いやすくなるはずだ。

 何より迷鳥めいちょうにとって仮住まいは、どこまで行っても仮住まいに過ぎない。刺激しないように遠くからうかがっていたところで、いつかは旅立ってしまう。


 なら一か八かシロの根っこに踏み込んで、過去を受け入れる気持ちがあるのを伝える。真実を知ったところで誰も責めないことが判れば、シロは居心地のいい仮住まいを安住の地にしてくれるかも知れない。そして「出来損ない」と自嘲するシロに悶々としている今は、臆病なタニア・ミューラーを行動に追い立てるチャンスでもある。


 部屋を広くしたくないなら踏み出すしかないんだ……!


 タニアはやけに乾く唇を舐め、尻込みする自分を叱咤する。

 だが声はなかなか出て行かない。まっすぐシロを見つめなければ、興味本位でないことを証明出来ない眼差しも、つま先とにらめっこするばかりだ。


 タニアはきっと夕暮れに期待している。そう、うつむいたことで顔に掛かった影に、朝でも夜でもない曖昧あいまいな薄闇に、表情をぼかす効果を期待している。結果が思わしくない場合は即座に半笑いを浮かべ、「冗談だった」と逃げ口上こうじょうを唱える気だ。


 改めてタニアは、避難所で自分に話し掛けて来た〈荊姫いばらひめ〉さまに、畏敬の念を覚えてしまう。

 何気ない一言で悲嘆に暮れさせてしまうかも知れない相手に、声を掛ける――お茶の子さいさいだと考えていたわけではないが、実行しようとすると想定以上に勇気の要る行為だ。


 出せ! 出せ!


 プレッシャーに耐えられなくなった心臓が、重く強く胸の内側を叩いている。どうやら注射針を前に披露したハイテンポなど、ただの牛歩戦術に過ぎなかったらしい。


「……シロってさ」

 まごつく唇に何とか言葉を編ませ、タニアはシロをうかがう。横並びに歩いていたはずの奴は、通り過ぎたばかりの十字路にしゃがみ込んでいた。

「どうしたの? 迷子さん?」

 まだ少し力のない声で訊き、シロは膝の下を見つめる。

 細い首が柔らかく傾くと、もふもふした影が低いジャンプで応えた。

 逆光でよく見えないが、大きさはバレーボールくらいだろうか。毛並みは黒く、濡れ髪のようにつやめいている。


 またか……。


 タニアは胸の中でボヤき、大きく肩を落とす。

 世話焼きのシロが、野良ケルベロスや野良猫又ねこまたに道草を食わされることは珍しくない。花も恥じらうオ・ト・メが小動物とおたわむれになるシーンは、残念な男子たちをきゅん♡ とさせる。半日もおかもちなしで出前させられたタニアは、腱鞘炎けんしょうえんわずらった。


「え? 撫でさせてくれるの? うわ~、柔らかいね~」

 小動物を撫でるシロを眺めていると、真剣な話をする気持ちが急速にしぼんでいく。

 先ほどまでとは一転、無邪気にほころんだ顔をみすみす曇らせたくないのだろうか? いやタイミングを外されたのをいいことに、問題を先送りにする気なのかも知れない。


「……早く帰らないと星が出ちゃうよ」

 そっと肩を叩き、タニアは背後からシロを覗き込む。

 めぇ!

 シロの代わりに返事をしたのは、スピッツのように甲高い鳴き声。

 小生意気に臼歯きゅうしさらしていたのは、珍妙な毛玉だった。

 顔立ちやくるりんとカールした毛は、ヒツジ以外の何ものでもない。反面、サイズは成猫せいびょうほどで、背中にはカラス似の翼を生やしている。どう考えても自然の生物ではない。ケルベロスや猫又ねこまたと同じ〈言獣げんじゅう〉だ。


「……なに、こいつ」

「メーヴンさんです」

「めぇぶん?」

 聞き慣れない単語を棒読みし、タニアはメーヴンと呼ばれた毛玉をつっついてみる。予想以上にふかふかな毛が指を呑み込み、手編みのマフラーのようにほっこりした温もりを広げていく。


 めめっ!

 不躾ぶしつけにつんつんされたメーヴンは、丸い鼻にシワを浮かせる。見る間にビーズ似の瞳を吊り上げ、メーヴンは乱暴に翼を振るった。ひゅぅ~と貧弱な風が吹き、下敷きであおいだようにタニアの前髪が浮く。


 めぇ! めぇ!

 余程機嫌を損ねたらしいメーヴンは、尚もタニア目掛けて翼を振り続ける。

 だがどんなに息を切らせても、心地よいそよ風がタニアの汗を乾かすばかり。

 さすがにいたたまれなくなったのか、メーヴンはウールウールと瞳を潤ませる。見かねたシロが手を差し伸べると、すかさず奴の胸にメーヴンが飛び込む。


「よしよし、嫌だったんだよね。初対面の人に気安く触られて」

 シロは繰り返し頭を撫で、赤ん坊のように泣くメーヴンをなだめる。そうしてメーヴンの声が小さくなるまで待つと、苦そうに笑い、やんわりとタニアをとがめた。

「メーヴンさんはプライドが高いんです」

「しょ、しょうがないじゃん。始めて見る生き物なんだし」

 畜生ごときが〈詐術師さじゅつし〉さまに気を遣わせる? 今すぐ小生意気な毛玉を丸坊主にし、立場を教えてやりたい――ところだが、小動物に泣かれると何となく居心地が悪い。

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