第3話

 それから三日が過ぎた。


 この間にユハたちに追求の手が及ぶことはなく、ただ忙しく働く日常があるだけだった。そのことに安堵するとともに、不安も消えることはない。あの日から今日まで、眠る時も普段着のままだ。くつろいだ姿で寝ることもできず、見えない不安も相まって、寝不足気味だった。


 その日、ユハたちは工房の女たちに礼拝に誘われていた。


 彼女たちの信じる教派、アドゥニ派において今日は祝日だという。アーティマの日、というその祝日に、町の人々が集まり、礼拝の後、皆で夕食をとる。説明してくれる女たちの表情はとても楽しそうで、ユハは心惹かれた。


 そして、空が紅く染まる頃、ユハたちは礼拝堂の前に立っている。


 礼拝堂の前には、大勢の人々が集まっていた。子供から老人まで。町でよく見かける人もいれば、初めて見かける人もいる。皆、笑顔で挨拶を交わしていた。


 ユハたちも、女たちに導かれるまま礼拝堂に入る。


 礼拝の作法や祈りの言葉はユハの知るものと違うことも多く、他の人々に付いていけないことも度々あったが、特にそれを咎められることもない。礼拝の言葉の中に聖女王の存在がほとんど言及されておらず、いにしえの聖王たちの名や知らない精霊の名が多く出てくるところが、その教えの歴史を感じさせる。ユハはそのことに感銘を受けていた。


 正教派がいう聖典には旧典と新典がある。


 旧典は、かつて栄えた聖王国の聖王とそれに仕える僧たちが編んだものであり、世界中の聖王教徒の教えの基礎となるものだ。そして新典は、ウル・ヤークスにおいて旧典を要約、抜粋し、聖女王の言葉を中心に教えをまとめあげたものだった。西方諸国では東方教会と呼ばれる正教派聖王教会ではこの新典を聖典と呼ぶことが多い。ウル・ヤークス王国の多くを占める正教派信徒も、旧典の内容を知る者は少なく、その存在を知らない者さえいた。


 ユハは修道院にいる時に旧典を通読してはいるが、新典と比べると内容は難解であり、正直に言えば理解しているとは言い難い。シェリウに言わせれば、そもそも翻訳が良くないという。だからといって、原書に記されている高貴なる人々の言葉や文字を覚えることができるとは思えなかった。


 このアドゥニ派の礼拝も、おそらく旧典に基づいているのだろう。それに、聖王教会以外の教えも混じっている。ユハは、礼拝の中で使われる知らない言葉や秘教的な言い回しから、そう推測した。


 少し長い礼拝が終わり、人々は夜の宴の準備を始める。


 礼拝堂の前の広場には祭壇が置かれ、そこで炭に火を入れる。それを中心として人々は木箱や机を持ち寄り、急ごしらえの宴会場が準備された。ユハたちも、指示されるままにその設営を手伝う。


「アーティマの喜びを皆に!!」


 日が暮れた頃、大きな声とともにカドラヒやって来た。背後に連れた商会の者たちに酒壺を持たせている。町の人々はそれを歓声と共に迎えた。その頃には食事の用意もできており、集まる人々の間に料理が行き渡った。供される料理は海産物が多い。ユハはリドゥワに来てから、様々な海の幸を味わっている。それはイラマールやアタミラでは見たこともないような食材の数々で、時にたじろぐような見た目をしている物もあったが、いざ口にしてみるとどれも美味だった。


「よお、来てたのか」


 町の人々と挨拶を交わしていたカドラヒが、ユハたちを見つけた。笑顔で右手を上げる。


「こんばんは、カドラヒさん。アーティマの喜びを……、でしたっけ?」

「ああそうだ。アーティマの喜びをユハに贈る、だな。シェリウにも、シアにも、ラハトにも贈るぜ」

「ありがとうございます」


 シェリウが軽く頭を下げた。


「堅苦しいな。あなたにも贈るって答えとけばいいんだよ」


 カドラヒは笑う。


 ユハはカドラヒの傍らにカザラ人の老人が立っていることに気付いて慌てて声をかけた。


「ハーリオドさん、お久しぶりです」


 ハーリオドは、しかめ面でひらひらと右手を振る。


「今日はダリュワさんはいないんですか?」


 カドラヒに傍らに立っているはずの長身の黒い人ザダワフの姿が見えず、ユハはたずねた。


「ダリュワは仕事に忙しくてな。今日は来られなかったんだ」

「そうですか……」


 ダリュワにはしばらく会っていない。少し残念に思いながら、ユハは頷いた。 


 傍らに立った女たちが、笑顔でカドラヒに挨拶し、ユハたちに酒杯を手渡した。酒を飲むつもりはなかったが、断ることもできずそれを受け取る。


「礼拝は終わり、今晩は楽しんでいってよ」 


 笑顔で女が言った。ユハも笑顔で頷く。


「もうすっかりこの町に馴染んだな」


 笑いながらカドラヒが言う。


「はい、皆さんとても親切にしてくれます」

「あいつら、本当は用心深いんだぜ? まさかユハたちがここに誘われてるなんて思いもしなかったな」

「そうなんですか」

「ああ。随分と気に入られたみたいだ。お嬢さん方の人徳だな」

「ユハだからですよ。あたしじゃあ今でも余所余所しいままだと思います」


 シェリウは肩をすくめた。カドラヒは笑顔のまま答える。


「そうかもな」

「ちょっと、ひどいですよカドラヒさん! シェリウ、そんなことないからね?」


 ユハは慌ててシェリウを見る。シェリウは苦笑すると頷いた。


「ありがとうユハ。でも、自分でも分かってることだから気にしてないわ」

「でも……」


 確かにシェリウは少し尖った所がある人だ。しかし、それと同じように優しい心を持っている。ユハは、その尖った所が周囲に誤解を与えることを残念に思っていた。


「悪い悪い、俺だってシェリウが善い奴だってのは分かってるんだぜ?」


 右手を上げたカドラヒがなだめるように言う。ユハは溜息をつくと、頷いた。


 カドラヒは、ラハトや月瞳の君とも話し始める。


 ユハは不機嫌そうなハーリオドをちらちらと見ていたが、やがて意を決して彼の前に立った。そして、口を開く。


「あの、マムドゥマ村での治療の記録をありがとうございました。おかげで助かりました」


 面食らった様子のハーリオドは、溜息をつくとユハを睨んだ。


「……俺は何の役にもたっとらんだろうが。嬢ちゃんたちの力で全て解決したことだ」

「そんなことはありません。ハーリオドさんがあれだけ記録を残しておいてくれたから、私たちは道に迷うことなく真実にたどり着けたんです」


 シェリウがユハの傍らで言う。ユハは深く頷いた。


「爺さん、感謝の言葉は素直に受け取っておくもんだぜ。可愛い娘二人に礼を言われて何の文句があるってんだ?」 


 カドラヒのからかうような言葉に、ハーリオドは舌打ちした。 


「ああ、分かった分かった。俺も皆の役に立てて良かったと思っとるよ。ただな、記録するのは俺の性分みたいなもんだ。あまり褒められても決まりが悪いんだよ」


 そう言ってハーリオドは視線を逸らす。


「皆、杯は行き渡ったな?」


 礼拝の進行役をしていた老人が大きな声で言った。広場に集まっている人々が手にした杯を上げながらそれに応じる。


 老人は頷くと、手近に置かれていた壺に手を入れると、中から白い物を取り出した。掌の上のそれは、雪やみぞれに似ている。


「それでは、アーティマの喜びを皆に贈ろう!」


 言いながら、祭壇の上に置かれた火に白い物を投げ込んだ。


 その瞬間、炎が膨れ上がり、青い炎が爆ぜる。


 皆が悲鳴のような歓声をあげた。

 

「すごい……。何かの魔術?」


 ユハはシェリウを見た。シェリウは頭を振る。


「分からないけど、術法じゃないわね」

「あれは熾氷もえるこおりだ」


 ハーリオドが言った。二人は彼に顔を向ける。


熾氷もえるこおり?」

「ああ、そうだ。はるか遠い地で掘り出される物だ。とはいえ、掘り出す所を見た者はおらんのだがな」

「どういう意味ですか?」


 まるで謎かけのようなその答えに首を傾げるも、ハーリオドは答えない。じっとユハを見つめると、おもむろに口を開いた。


「……アドゥニ派は古い教えだ。ユハ、お前さんは敬虔な正教派の信徒のようだな。諸教派についてどう思う?」

「無明のでも聖なる教えを伝えてきたことをとても尊敬します。それに、教えの中から、はるかいにしえの人々の息吹が感じられるようで、何というか……、わくわくするんです」


 傍らのシェリウが噴き出した。


「わくわくするって、あんた、もう少し言い方があるでしょ」

「だって他に思いつかなかったんだもの」


 自分でも子供のような言葉を使ったことは分かっているために、ユハは視線を逸らした。


「まあ、それが一番ユハらしいかもね」


 シェリウがくすくすと笑う。


「ユハ、あんたは他の教派との典礼や聖詞なんかの違いが気にならんのか?」


 ハーリオドの問いにユハは首を傾げた。


「うーん……、確かに違うな、とは思いますけど、それは当然じゃないでしょうか。同じウルス人だって西と東では訛りが違いますし、暮らしている土地や生業なりわいで考え方も違いますよね? それと同じだと思います。聖王教の本質は秩序と救済。どの教派も目指す所は同じなんだから、その過程に少しくらい違いがあっても、気にする必要はないんじゃないかな……。茂る葉の大きさや色が違っていても、それは皆一つの大樹から生えているんです。私は、そう思います」


 カドラヒが片眉を上げて、ハーリオドを見た。ハーリオドは大袈裟に肩をすくめて見せる。自分は何かおかしなことを言ったのだろうか。カドラヒたちの反応に不安を覚えて、思わずシェリウを見やる。シェリウはなぜか、嬉しそうに笑みを浮かべていた。


「世の正教派信徒が皆、あんたみたいな考え方だったなら、全てが丸く収まるんだがなぁ」


 腕組みしたカドラヒは、小さく頭を振ると溜息をついた。


 ハーリオドは再びユハに顔を向ける。真剣な表情で、何かを探るような目で口を開いた。


「礼拝堂の中の壁画や彫刻は見たかね?」

「はい。海や星の意匠が多くて、やっぱり海辺の土地の教えなんだなって思いました。正教派でも、シアートの人たちの影響で海に関する言葉は多いですけれど、礼拝堂や聖堂に描かれることはありませんから……」

「魚と人の合いの子のような像もあっただろう」 

「ありました。あれは、精霊ですか?」


 幾つか並んでいた彫像を思い出す。魚のような頭を持ち人の体を持った姿のそれは、座り込んだ姿で、不気味さと可愛らしさが混在する奇妙な彫像だった。


「そいつらは精霊じゃあない。『溟海の者たち』だ」

「溟海の者たち? 初めて聞きました」

いにしえの時代、海からやって来た者たちだよ。アドゥニ派は古い教派だ。ウルス人の先祖や海辺の民が信じていた教えの名残がある。その頃の伝承や物語が語り継がれておるんだ。大昔、海から上がってきた溟海の者たちと古ウルス人は交流しとったんだよ」

「海から!? それじゃあ、本当に魚と人が混ざったような姿をしているんですか?」

「ああ、顔なんか本当におっかねえ魚みたいなんだぜ。初めて見た時は驚いたな」


 口を挟んだカドラヒを、驚いて見やる。


「え!? カドラヒさんは見たことがあるんですか!?」 

「ああ、あるよ。海辺の民は、あいつらと今でも僅かだが交流があるんだ。あの、熾氷もえるこおりも、溟海の者たちが持ってくるんだぜ」

「なるほど……、海の底から掘り出すから、誰も掘り出す所を見たことがないということなんですね」


 シェリウの問いに、ハーリオドは頷いた。


「本当に海の底から掘り出しおるのかどうか、俺たちには確かめようがないがな。……熾氷もえるこおりは冷たい氷なんだが、火をつけると勢いよく燃え始める。大きく混ざり物がない氷には高い値がついて、珍しい物が好きな金持ちに売れるんだ。商う俺たちの所に残るのは、ああいう屑氷だけだが、それでも随分贅沢なことをしとるんだぞ」


 祭壇の火を指差しながら自慢げなハーリオドに苦笑しながら、カドラヒが言う。


「うちの商会は海があるから成り立ってる。大店おおだなみたいに遥か南洋の向こうから商品を仕入れることはできねえが、近場の海で隙間を狙った商売で稼いでいるのさ」

「“物置”の商品もですか?」


 皮肉の色を帯びたシェリウの言葉に、カドラヒは笑みを浮かべた。


「そうだな。海辺の民と仲良くしてるからこそ、あのお買い得な商品も仕入れることができるし、熾氷もえるこおりも仕入れることができるってわけだ」


 シェリウは溜息をつくと小さく頭を振る。


「本当に、カドラヒさんはろくでもない人ですね」

「善人は金持ちにはなれねえんだよ。俺は金持ちになりたいからな」

「ご立派ですね」


 自信満々な答えに、シェリウは肩をすくめた。


「あ、あの、それで、溟海の者たちってどういう人たちなんですか?」


 話が横道に逸れてしまっている。好奇心を抑えることができずに、ユハは強引に話題を変えた。ハーリオドは答える。


「俺は魔術に詳しくないからよく分からんが、巨人族や古ウルスの僧侶や魔術師に、星が大地に及ぼす力について教えたらしい。古い粘土板に、偉大なる叡智のもたらし手、と記されておるな」

「正直、そんなに頭が良いようには見えなかったがなぁ」


 カドラヒは顔をしかめた。


「何しろ魚みたいな連中だ。表情は変わらねえし、声一つ出さねえ。本当に、意志疎通するのが難しい連中なんだ」

「それなら、昔の人はどうやって教えを受けたんでしょうか?」


 ユハは首を傾げる。


「大昔はラハシという一族がいて、不思議な力を使って通訳していたそうだ。今は、身振り手振りと絵文字で何とか話をしているんだ。そりゃあ、魔術や哲学みたいな難しい話が出来るわけがない」


 ハーリオドの答えに、カドラヒは頷いた。


「よお兄弟、今日の潮の流れはどうだい? 魚は何が美味いんだ? 女の好みを教えてくれよ。そんな話も出来ねえからな。酒を飲むわけでもねえし、付き合う相手としてはつまらねえ奴らだよ」

「魚の娘の可愛いところを語られても困るでしょ」


 月瞳の君がからかうように言う。


「それはそれで、興味深い話ではあるがね」


 カドラヒはおどけた表情を浮かべて見せた。


「あなたって冒険者なのねぇ」


 大笑いした月瞳の君は、杯を掲げた。 

 

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