第24話

 アシャンは息を切らせながら走っていた。


 キシュや戦士たちはすでにはるか先を駆けている。そこには、カナムーンとラゴもいるはずだ。


 ウァンデは、アシャンとともに走っている。その肩には、足を負傷したウィトを担いでいた。ウィトが涙ながらに語ったシアタカたちの絶望的な戦いを聞いて、アシャンは恐怖した。矢の雨に曝され、四十人以上の戦士に囲まれたシアタカたちが、とても無事でいるとは思えない。


 襲撃を知ったキシュは、いち早く羽翅カーナトゥを飛ばしてシアタカたちを守ろうとしている。しかし、その怒りがあまりに激しく、アシャンには現状がどうなっているのか全く分からなかった。


 心だけが急くが、今の自分は無力だ。ただ、シアタカたちの無事を祈り、彼らの元に駆けつけることしかできない。


 険しい坂を登りきる。  


 押し寄せてくる生臭く、むせ返るような空気。そこに、鼻を刺激する柑橘類のような刺激臭が入り混じる。


 そこは、戦士と、そしてキシュに満ちていた。


 なだらかなすり鉢状の地形には、木々がまばらに生えている。その木々の間、茂みの中、岩の上に、何十人もの戦士が血を流し、息絶えている。


 そのほとんどは、シアタカたちに倒されたのではない。深くえぐれた首や足の傷を見れば、キシュの鋭い顎に噛み切られたことは明らかだ。戦士たちが群がる羽翅カーナトゥに噛み殺される光景が、断片的な形となって伝わってきた。思わず身震いしながら、斜面を下る。


 敷き詰められた死の向こう側に、羽翅カーナトゥがひしめいている。羽翅カーナトゥは羽を細かく振動させて、それはまるで唸り声のようだ。そして、駆けつけたキシュたちも、羽翅カーナトゥの外縁を囲むようにしてこちらに向き直り、近寄る人々を顎を大きく開き、そして打ち鳴らして威嚇していた。金属的な顎の鳴る音は鋭く響く。

 

 『導かれし者たち』を失うかもしれないというキシュの抱いた怒りや怖れが、弾けるような形となって飛び込んでくる。キシュは恐慌状態に陥っており、その心に触れようとしても、強く拒まれて繋がることができなかった。


 怒りに満ちたキシュが放射状に守る中心は、斜面になっている。アシャンはそこにハサラトとエンティノ、そしてシアタカの姿を認めた。


 エンティノに抱きかかえられているシアタカを見て、アシャンは息を止めた。その腹には槍が突き刺さり、身じろぎ一つしていない。顔色は蒼白だったが、口元は赤黒く染まっている。その表情は奇妙なまでに穏やかで、眠るように目を閉じていた。


 絶望の記憶が蘇る。


 父の最期の吐息。


 半開きのまま閉じることはない口。


 見開かれた、光を失った目。 


 命のともし火が消えたその顔を、ずっと見ていた。

 

 アシャンは大きく喘いだ。激しい圧迫感が胸を襲い、思わず屈みこむ。


「アシャン! 大丈夫か、アシャン!」


 ウァンデの呼び声に応えることもできない。見えない手によって口を塞がれたように息苦しく、動悸が激しくなる。倒れようとする体に抗いながら、胸を押さえた。


 誰かが、自分の肩を抱いた。触れる両手から暖かい力が流れ込み、呼吸が楽になっていく。


 顔を上げたアシャンは、こちらを覗き込むサリカと目が合った。


「アシャン、気を確かに持ってください」

「サリカ……。シアタカ、シアタカが……」


 恐れが、その先の言葉を封じてしまう。サリカは、ゆっくりと頷いた。


「シアタカは、生きています。私たちの助けを必要としているのです」


 優しいが、固い意志を持った言葉は、心強く響く。癒しの術。兄の腕の怪我を癒したサリカならば、きっとシアタカを救える。アシャンは、縋るような思いでサリカの腕を掴んだ。


「お願い、シアタカを、シアタカを助けて……」

「大丈夫。私がシアタカを死なせません」


 サリカは深く頷くと、抱くようにしてアシャンを立ち上がらせる。


「だけど、アシャン。私だけではシアタカを救えません。あのキシュの様子はただ事ではない。きっと、アシャンの力が必要です。そうですよね、ウァンデ」

「ああ、その通りだ。アシャン、サリカの言う通りだ。シアタカを助けよう」


 ウァンデの言葉に、アシャンは頷いた。絶望と恐怖を叱り付け、希望と決意を呼び起こす。呼吸を落ち着けて、彼方を見据えた。 


「……もう大丈夫。行こう」


 そう言って歩き始めた。


 こちらを威嚇するキシュを前に、戦士たちは立ち尽くしている。彼らはアシャンたちの姿を認めると、すぐに道を開けた。


 エイセン、ジヤ、カナムーン、ラゴがアシャンたちのもとへ歩み寄る。


「駄目だ。キシュが、先行した羽翅カーナトゥに同調してしまった。シアタカたちの所へ行くことができない」


 エイセンが眉根を寄せながら言う。


「ジヤ、お前がキシュを説得できないのか?」


 ウァンデの問いにジヤが頭を振った。 


「い……怒りで我を忘れてる。ワ、わ、我々を警戒して、……ちか、近寄らせてくれない。お、れ、では形がつ、ツ、通じなかった」

「やはりそうか……」


 頷いたウァンデは、アシャンに顔を向けた。


「私がやってみる」


 アシャンは皆を見回すと、キシュの壁に歩み寄る。そして、大きく両手を広げた。


「三人を守ってくれてありがとう」


 キシュは、アシャンの声に硬質な威嚇の音で応える。触れようとするアシャンの心は、やはり強い拒絶によって弾かれた。しかし、退くことはない。強く念じながら再びキシュに触れる。


「だけど、キシュに人は治せない。シアタカたちが大事なのは私も同じなんだ。私たちはシアタカを助けないといけないの。お願い。通してくれないかな」


 沙海での出会い。カラデアでの出来事。彼に抱いた怒り。そして、デソエからここまでの旅路。シアタカと過ごした日々の記憶と感情を形にして、キシュに届ける。それは、波打ち、泡立つキシュの怒りに触れ、それを包み込んだ。自分の形がゆっくりとキシュに染み込んでいく。アシャンは、静かにそこに佇んで、キシュを感じていた。  


 キシュを支配していた沸きあがる怒りが徐々に収まっていく。荒れ狂っていた思考は穏やかさを取り戻し、様々な形の思考が廻りはじめた。


 唸るように森に響いていたキシュの発する音が消える。


 そして、キシュの中に道が生まれた。


「サリカッ!!」


 斜面の上から、エンティノが叫ぶ。


「シアタカに癒しの術を! 速く!!」


 アシャンたちは、駆け出した。






 咲き誇る薔薇が美しい。


 シアタカが立つそこは、静寂に満ちた庭園だった。明るい日差しに照らされているが、ここに暖かさはない。シアタカの顔に血の気はなく、その体は冷え切っている。それは、これから自分を待つ、死という結末を予感させるものだ。


 彼の前には、一人の女が立っている。


「せっかく主をここにお招きできたっていうのに、酷い顔をしているわね」


 碧眼の女は、微笑むと身を近付けて顔を覗き込むようにして見つめた。


「どうして私の助けを拒んだの?」

「あなたのしていることは、助けじゃない」  

 

 シアタカは、頭を振る。


「あなたは私の助けで幼い頃から生き延びてこれた。それなのに、それを否定するの? 主は恩知らずな人なのね」

「恩? 俺は、生き延びたことに何の感謝もしていない」


 怒りを覚えて、女を睨みつける。女は、微笑を浮かべたままその視線を受け止めた。


「ああ、そうね。あなたは、生き延びたことに罪を感じていた。だから私は、あなたをこの庭園に招くことができなかった。でも今は違う。今のあなたは、自分が生きていることを魂で感じている。自分の足で歩くことに喜びを感じている。どう、私の言ってることは間違ってる?」

「それは……」

「その喜びを感じることができるのは、ここまで生き延びてこれたから。だとしたら、少しぐらい感謝してくれてもいいんじゃないかしら?」


 女はそう言うと小さく首を傾げる。シアタカは動揺を押し殺しながら答えた。


「あなたは俺に憎しみを吹き込む。それが、喜びと等価だとは思えない。あなたの憎しみは、滅びの道だ」

「否定はしないわ。私はその為にいるんだもの」

「あなたはどうしてそんなに全てを憎くむんだ? 俺に何をさせたい?」


 戦いの中で感じた疑問を口にする。女は、静かに答えた。


「仕返しよ」

「仕返し?」

「そう。この世界は私を痛めつけて、全てを奪ったの。だから、私も同じようにしてやるのよ。皆を殺し、全てを壊し、そして、私に会いに行くの」


 恐ろしいまでの憎しみがシアタカに押し寄せる。しかし、そう語る女の表情はとても穏やかだ。シアタカは圧倒されて何も言うことができない。


「その為に、あなたをここまで助けてきたの。そして、幸いなことにあなたの力は大きくなっている。ずっとあなたを助けてきて良かったわ。これからも、あなたには頑張ってもらわなくてはね」

「……残念ながら、もうあなたの望み通りにはいかないな。もうじき、俺は死ぬ」


 シアタカは、押し寄せてくる力に抗しながら言った。意識を失う寸前のことを覚えている。血を吐き、立っていることも出来ずに座り込んだ。倦怠感と寒気に支配され、ひどい眠気とともに目を閉じた。これが死だ。そう納得できる最後だった。このまま死んで、果たして自分の魂は聖女王のもとへ向かうのだろうか。あるいは、欠片と結びついている自分の魂は、ただ消え失せるのか。


 女は、くすりと笑うと、シアタカの手に触れた。冷え切ったシアタカの体にはその手がとても暖かく感じる。


「何言ってるの? あなたを大切に想っている人たちのために、もっと抗わないと駄目じゃない」


 その手の暖かさと彼女の言葉に、戸惑う。


 そして、シアタカは、その暖かさが全身に広がっていくのを感じた。


 誰かに呼ばれたような気がして、シアタカは辺りを見回す。


「ああ……、素敵ね。主を想う心が伝わってくる。これは、あなたにとって大いなる希望」


 女の声が遠くなっていく。確かに、自分は呼ばれている。その呼び声は心地よく、シアタカは身を委ねた。そして、陽光は徐々に陰り、庭園は暗くなっていく。


「この希望は幸福の鎖となって、甘く、優しくあなたを縛り、繋ぎ止める。そしていつしか、あなたを深淵へと引きずり込むのよ。その時、きっとあなたは私の望みをかなえてくれる」


 遠ざかる声を聞きながら、シアタカは見上げた。


 そこには、光があった。








 ゆっくりと、シアタカが目を開いた。濁った音とともに大きく息を吸い込み、次いで、激しく咳き込む。血が飛び散った。


「シアタカ!」


 アシャンとエンティノの叫びが重なる。


 シアタカが咳き込みながら上体を起こした。エンティノは、その背中を何度も撫でさする。


「俺は……、生きているのか?」


 自分を囲む仲間たちを見回して、シアタカが問いを発した。


「俺が死の使徒ウィズラフに見えるか?」


 ハサラトがにやりと笑う。シアタカは弱々しい笑みを浮かべた。


「いいや、……ただのハサラトだ」

「ただの、って何だ。失礼な奴だな」


 そう言ったハサラトの表情は喜びに満ちている。アシャンには彼らの口にした名が分からなかったが、少なくとも冗談を言えるシアタカの様子に安堵する。サリカの癒しの術は驚くべきもので、シアタカの深手をこの短時間で癒してしまった。


「シアタカ。もう安心です。ですが、しばらくは安静にしてくださいね」

「ああ、サリカ。癒してくれたんだな。ありがとう」


 微笑むサリカの顔に疲労の色が濃い。シアタカは自分の腹を撫でた後、サリカに一礼する。そして、目に涙をたたえたウィトに顔を向けた。


「ウィト、それにラゴ。二人のおかげで突破口を開くことができた。お陰で、死なずにすんだよ」

「そんなことはありません。私など何の役にもたたなかった……。私にもっと力があれば、こんなことには……」

「二人は、あの時、出来得る最善のことをしてくれた。感謝こそすれ、責めることなどないさ」


 顔を歪めたウィトに、シアタカは微笑む。


「シアタカ」


 居住まいを正したハサラトが、シアタカを見つめた。


「すまなかった。俺のせいでお前は……」


 苦しげに言うハサラト。エンティノが身を乗り出すと大きく頭を振った。


「違う! 全部私のせいよ。私が二人の足を引っ張ったんだ。私がいなければ追い詰められることなんてなかった」

「やめよう」


 シアタカは二人の言葉を手で遮った。


「俺たちはどんな時でも助け合う。誰が悪かったかなんて、考える必要はないんだ」


 そして、自嘲の笑みを浮かべる。


「ただ、今日の俺は、やり方を間違えたよ。戦長いくさおさなんて祭り上げられたのに、この様だ……」


 シアタカは溜息をつく。


 そんな彼らを、アシャンは少し離れた所から見ていた。


 隣に立ったウァンデが顔を覗き込むようにして言った。


「どうしたんだ、アシャン。浮かない顔をしているな」

「本当に私……、戦うということを甘く考えてた」


 シアタカたちを見たまま、アシャンは呟くように答える。


「戦場に立つ以上、大好きな誰かが死ぬかもしれない。分かっていたつもりなのに、本当は分かっていなかったんだ」

「そうだな。……戦場に安全な場所はない。そして、絶対という言葉もない。どんなに完璧な準備をしても、それが何の役に立たないこともある。何が起こるのか分からない。それが戦場だ」

「うん……。私、もっと強くならないといけないね……」


 アシャンは、ウァンデを見上げると頷く。ウァンデは肩をすくめてそれに応えた。


「……アシャン」


 ハサラトの肩を借りたシアタカが歩み寄る。こちらを見つめるシアタカの真っ直ぐな視線に耐えられずに、アシャンは目を逸らす。自分は大切な人たちが危機に陥っている時に、何もできなかった。無力な自分を責めた。


「ごめん、シアタカ……」

「どうしてアシャンが謝るんだ? 俺の方こそ、すまなかった。危うく、アシャンとの約束を破るところだったよ」

「約束?」

「ああ。俺はあの戦いの中で、死ぬところだった。アシャンを守るという約束を破って、そのまま眠ってしまうところだったんだ」 


 シアタカは自分たちを守るキシュに目を向けた。そして、再びアシャンを見つめる。


「もう駄目だと思った時、羽翅カーナトゥが来て助けてくれた。だからアシャン、キシュにも礼を言ってほしい」

「分かった」


 その気遣いが嬉しくて、思わず口元が緩む。アシャンは頷くと、キシュにシアタカの言葉を伝えた。


 キシュは、シアタカの謝意に応える。取り囲む羽翅カーナトゥたちが、まるでさざ波のように羽を震わせ、美しい音を発した。それに重ねるように、羽のないキシュが、まるで鈴の音のような軽やかな音を発する。その音は、風に乗って森の中を駆け抜けていく。


「キシュが歌っているぞ!」


 キシュの壁の向こうで推移を見守っている戦士たちが驚きの声を上げた。


「『導くものたち』のために歌っているのか」

「これはまるで……」

御嶽の約者たちアシュハール……」

「そうだ。御嶽の約者たちアシュハールだ……」


 戦士たちは、ざわめき、囁きあう。


 彼らが口にした名は、キシュガナンの伝説にある、いわばキシュガナンの始祖というべき人々だった。


 長い旅の末、この地に辿り着いた人々。彼らの中に、当時化け物ととして恐れられていたキシュと意思を交わす者たちが現れた。彼らは、キシュとの共生を説くが、その意見は受けれ入れられず、迫害を受けてしまう。


 そして、彼らはキシュのもとへと逃げ延び、その庇護を受けることとなった。


 やがて、争いの末に、和解がなり、人々はキシュを受け入れることになった。その時、初めにキシュと結んだ人々は、キシュに守られ、キシュの祝福の歌を受けながら現れたという。


 まさしく、伝説の通りだ。


 息を呑み、目を見開く。


 畏怖に満ちた戦士たちの言葉を聞いて、アシャンは、自分たちが伝説を再現していることに今更ながらに気付いた。


 戸惑いの表情を浮かべるシアタカたちを前に、戦士たちは次々と跪き、顔を両手で覆っていく。


御嶽の約者たちアシュハール


 一つになった戦士たちの呼び声が、大きく、重く響いた。

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