第二十八夜 ソ×ラティック×ヴ 後編

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 終点まで車内に居座り続け、窓の外の木々はコンクリートに変わる。

 バスを降りたら駅で切符を買い、向かうは西南、海のある方向だ。ガラガラの特別急行は貸し切りすも同然で、心置きなく独り言ができる。

「おまえたち、どうして喧嘩をしていたんだ」

 釣眼が言った。ぼくはこう返す。

「喧嘩しちゃいないよ。ただね、ぼくが反抗期だったって、それだけ」

「ふうん……」

 含みのある相槌に、なんとなく吐き出してしまおうという気分になったぼくは、口を開いた。

「……例えばネエ、誰か好きな人ができたとき、ぼくは誰とも一緒になれない。ぼくははんぶん人間やんけれど、しいても年を取らないこの体。でも、カッちゃんは、違うやんね」

「おまえにも春が来たか」

「ぼくは万年春爛漫ですゥ。……しやだけやなくってサ、ぼくはカッちゃんと違ってピーターパンやから。カッちゃんはティンカーベルが顔に貼っついとるけんど、日銭を稼いで車にも乗れる。ぼくは、永遠の子供なのに、ジョンもマイケルもウェンディも、ぼくを置いて大人になってウエンディは地上で運転免許が取れる男と結婚して、弟たちも子や孫ができて……そうして死んでいく。それが自然ってもんなんや。不自然なンはぼくだけ……でももう分かったん。すべての生きモンにはそれぞれの生き方っていうんがある。ぼくは何の免許もないしヒトじゃないけど、雲児っていう生き物なんだ。ぼくが勝手に拗ねとっただけやサ」

「空船がいずれヒトになりたがると思っているのか? ヒトになった空船がおまえを置いていくって? でも今回のことで分かったろう? おまえと同じでな、あいつにゃそれは無理なんだ。そうだろう」

「そうだね」とは、言えなかった。

 座り続けた二時間ほどで、窓の外は再びコンクリートから赤褐色の山に変わった。飛び去る松の行列の隙間から、秋の終わりの黒い海岸線が見えてくる。空は重い鉛色で、雲の裾が滲んだように赤い。日暮れだ。

「もう夜になる」膝の上で、釣眼が言った。「おまえ、風に乗ったほうが早いのジャアないか」

「いまのぼくは、夜になっても風に乗れないよ。君が背中に乗せてくれるってんじゃ、話は違ってくんねけどね」

 強い西日に、わたしは手を透かして見せた。窓ガラスに対向の席で居眠りをするサラリーマンが映っている。そのずっと手前にいるはずのわたしはいない。

「ほらね、いまの僕は、幽霊みたいなもんなんだ」

「どうしてそんなことになっている」

「半分、夜のぼくは彼岸に置いてきた。カッちゃんを迎えにいかにゃアならんからね。いまのぼくは、体の半分が棺桶の中みたいなもんだ。あとは聞かどんて。あとで分かる」

「人魚か? 」

「聞かんどってって」わたしは苦笑して、仕方なく座りを直した。

「……ぼくらは、アん日に死んだんや。それで人魚の血を受けて生き返った。人魚の血を受けるっていう意味が、おまえにはわかるはず」

「おまえはどう考える? 」

「人魚の呪いを受けるということだと思ってる。呪いじゃなくって、祝福でもいい」

「その呪いや祝福の結果が、死者蘇生や不老不死か? 」

「たぶんそう……巽ちゃんが何を思ったかは、ぼくには分からない。でも瀧川の人魚が願ったから、ぼくらは生き返ったんや……しやなかったら、克巳は死にたかったんだもの。玖三帆だって。そうでしょう」

「まるで他人みたいに言うんやな」

「あいつらは前世のぼくらや。人間はネェ、過去のずうっと昔のとき、形の違う頃のジブンを別の人間として考えなア、同じ自分も理解できんことがあるんよ」

「ふっ、ふっ、ふっ……」おもむろに、釣眼は嗤った。

「そんなことを言うおまえは、わしを誰だというのだ? 」

「サア、どうだろう」

 ぼくは鞄のジッパを開け、膝の上に釣眼を取り出して立て、改めてマジマジ顔を合わせた。

 金泥の貌は、頬と眉丘の下に黒い影が落ちる。眼球とも隈取とも取れる目尻の赤は、確かに血の気があった。瞳の孔の奥には誰もいないが、この面は生きている。

 その目に穿たれた孔から見ているのは、いったい誰か。この面はそう言っているのだ。やっぱりわたしの口からは、こう言うしかない。

「おまえは、龍神の面。おかみ様だ」

 残念そうに釣眼がついたため息に重ねて、わたしは続けた。「そしておまえは、女面だ」

「ほう」

「おかみは女神だっていう。瀧川の奴らも、『おかみ様』は女だと言った。おかみ様が龍女、人魚なのだとしたら、おまえは八雲か玉児。だからおまえは女面でもある。でも釣眼は男の面や。それはどうして? それはもともとのおまえは、男として生まれてきたからや。おまえの貌には瀧川を拓いた最初の人、十束の貌が写された。足萎えの娘を背負って、深い山を拓いた父、十束翁。あんたは翁面でもある。河津とはカワズ、つまり蛙や。蛙っちゅうんは、水で死んだ死霊が姿だっちゅう話がある。十束は瀧川の水に呑まれて死んでしもたんやから、おまえは河津でもある。でも死んだのは、十束だけやない。夜叉丸もそう。人魚たちが食ろうた男どももそう。そして男面は、むかし柳という名前をしていた死霊だ」

「ふ、ふ、ふ、」

「おまえは『柳』で、『夜叉丸』で、『十束の翁』で、『龍神』で、瀧川に生きていたものすべての『おもかげ』だ。おまえの貌はひとつじゃアない。だからぼくは、やっぱりおまえを『御神様』と呼ぶことにする」

「日流子とかいうのはどうなった」

「日流子はぼくらだ」

「はは、そうきたか」

「正確には、ぼくらだったものだと思ってる。東から西へ流れるもの。日の流れに定められたもの。流れ行くどこにも行けない子供。出来損ない、生まれ損ない、死に損ない……。例えば過去には、夜叉丸が、玉児が、そう呼ばれたんじゃあないか? 克巳はどうして、あの一番上の段の家で一人で暮らしていた? どうして玖三帆が克巳ンところへ寄越された? それはきっと、克巳と玖三帆が特別だったからだ。……昔の自分をこう言うのは変な感じやけンどね……

 玖三帆は、美津流という女性と、柳との間に生まれた子供だ。ここで疑問がひとつ。村衆の名前には、規則性があったはずだってこと」


(男性)

 葦児 玖三帆

 葦児 帆波

 矢又 松弥

 矢又 竹流


(女性)

 矢又 克巳

 矢又 海砂

 葦児 美津流

葦児 明海

 葦児 敏子

 葦児 里子

 葦児 郷子

 葦児 弥百合



 ―――――男は山の名前。女は海の名前。


 葦児 玖三帆(『帆』海)

 矢又 克巳(『巳・へび』山)

 矢又 海砂(『海』海)

 葦児 美津流(『津』海)

 葦児 帆波(『帆・波』海)

 矢又 松弥(『松』山)

 矢又 竹流(『竹』山)

 葦児 明海(『海』海)

 葦児 敏子(『子・ねずみ』山)

 葦児 里子(『里・子・ねずみ』山)

 葦児 郷子(『郷・子・ねずみ』山)

 葦児 弥百合(『百合』山)



「おかしいやろ? 男が山で女が海なら、玖三帆や克巳はもちろんアベコベだし、三人の『サト子』も女なのに山名だ。逆に帆波さんは、男なのに海。葦児弥百合……村長やね。この人も、女性なのに山やった。

 帆波が玖三帆に言った台詞を信用するのなら、これにも意味があるはずなんや。こいつらの共通点はナンやろうか、と考えると、『神事に関わる役職に就いている』と考えられる」


 葦児 玖三帆(克巳の世話役)

 矢又 克巳(巫女候補)

 矢又 海砂(克巳の母)

 葦児 美津流(玖三帆の母・巫女候補)

 葦児 帆波(柳の小姓)

 矢又 松弥(村のバスの運転手)

 矢又 竹流(松弥の弟)

 葦児 明海(巫女候補)

 葦児 敏子(巫女世話役)

 葦児 里子(巫女世話役)

 葦児 郷子(巫女世話役)

 葦児 弥百合(村長・柳が神官になる以前は神事を執り行う役職)


 これ思うに……巫女以外の神事に関わる、つまり柳と巽人魚に近しい村人は、男女アベコベの名前をつけにゃあならんかったのではないやろか。そうなると、矢又の姓を持つのに巫女になった克巳と、柳が巫女に産ませた子供である玖三帆の名前にも意味が出て来る。

 それぞれの母親は、山から逃げとった。これは間違いないと思う。もちろん生まれた子供に、山での役目があったわけもない。


 こっからはただの推測というか、『そうやったらええな』っていうぼくの勝手な想像やっど。

 美津流――――玖三帆の母親と、海砂――――克巳の母親は、共に山から逃げた。そのとき二人の間で、名前の交換があったんやないかと思う。

『巫女は葦児の娘から選ばれる』のに『矢又克巳』が巫女役になったンも、『葦児玖三帆』と名前を交換したせいやないやろか。

 なぜ名前の交換が必要だったか?

 これも帆波さんの言葉を借りるなら、『男は山からは逃げられない』から。

 玖三帆の母親は生まれた子供の性別が男なンやから、せめて山の下にある病院で産みたかった。しやから逃げるとき、最後の足掻きで、一緒に逃げた海砂がいずれ産む『娘』と、名前を交換したんや。

 人魚の呪いが特に男に効くンは、生殖に必要なうえに食料やからや。人魚が拓いたも同然の瀧川で、生まれた男が山を降りると死ぬというのもわかる。

 この法則なら、帆波さんが山を降りて生活することが許されたのも、帆波さんが『海にまつわる名前』を持っとったからやと説明できる。男女アベコベの意味を持つ名前を持つということは、人魚に『許可証』を貰とることになるんやないか。

 例えば山を降りる許可―――人魚の手足となる許可―――――……。

 しやから、葦児の蔵にあった家系図には、巫女を意味する『玉依』ノ『夜叉姫』と、葦児始祖の『夜叉丸』を表すとも、『玉児』との二人を表すとも読み取れる記述があった。

 人魚は血の縁で、母から、祖母からの術を受け継ぐっちゅう。しやったらこれは、人魚がつくった術の穴、例外となる事例……。


 ◐


「柳は言ったジャアないか。『オカミの正体は二通りあるんだ』って。玖三帆と克巳は、死んで一つになった。おまえたちを宿し、雲児と空船として生まれなおした。おまえとオンナジだ。オカミと同じように、玉児と夜叉丸と同じように、玖三帆も克巳も、二つで一つやったんや。二つが一つになって、また二つに分かれたんや」

「はたして、それは人間か? 神か? それとも他の何かか? 」

「たしかにぼくらはヒトだった」わたしは、自分が言ったことを噛み締めた。

「……ぼくらは、自分でヒトをやめたんや。克巳は、自分のことを変態だと思ってた。……そらあ、誰かに食べられたいなんて、変な欲やんね。しやけど、それを受け入れてくれる人を探しとった。受け入れてくれる人なら誰でもよかった。玖三帆は他人も、自分そのものもどうでもよかったンだ。死ぬその時まで、ぼくらは誰でも無かった。そんな生き方はのっぺらぼうだ。そんな生き損ないだから、ぼくらに何かが入り込んだんと違うか?」

「……その何か、とは? 」

「空船の面。夜のぼく」

「ほう……それらは本来のおまえたちの持つものではないと言うか。なるほど……では、それらが混じって、その果てが、今のおまえの形だというか」

「しや。おもかげ、翁、柳、阿漕、おまえ……瀧川の亡者たちと、ぼくとあいつ。それがあって、ぼくらが出来ている。ぼくはヒトでもあやかしでもない」

「おまえは自分の話の矛盾に気が付いているか? 」

「そんでいいんや。そンでいい……そんなのは些末なことだ。自分の形は取り戻さにゃならん。ぼくらの形を決めンのんはぼくらや。他の誰でもないぼくらなんや」

 知らずのうちに、わたしの右手は自分の胸の上を握りしめていた。


「ぼくらは生きる。玖三帆と克巳は死んだ。……どんな形になっても、空船と雲児はこの世にいるんだから」


 玖三帆が読み損ねた本で、ぼくは知ったことがある。

『山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。』

『人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣にちらちらするただの人である。』

『ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。』

『人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。』

 白くなった指を伸ばし、青く痺れた爪先を撫でさする。いまのぼくに鼓動は無い。通う血もない。老いもなく、影も無ければ、名前すら不確定だ。

 それでもぼくは、『克巳』でもなく『玖三帆』でもない。『雲児』と自分の名を定めた。

 ヒトの国を逃げ、人でなしの国へ行き、ぼくらは出会い、そして人をやめてしまった。

『世に住むこと二十年にして、住むに甲斐ある世と知った。二十五年にして明暗は表裏ひょうりのごとく、日のあたる所にはきっと影がさすと悟った。三十の今日はこう思うている。』

『喜びの深きときうれいいよいよ深く、楽みの大いなるほど苦しみも大きい。これを切り放そうとすると身が持てぬ。片づけようとすれば世が立たぬ。金は大事だ、大事なものがふえれば寝る間も心配だろう。』

 ぼくらの出会いは因果か? 運命か? そんなことはどうでもいい。ぼくらはもう、自分で選んで生きることができる。


 ぼくは天際の雲児。相棒は煙霞の空船。

 ぼくらはもう一度、別たれなければならない。ぼくらは二つで一つ。この生は一蓮托生なのであるが、やはり別のものなのだ。

 ぼくらは人の身を離れても、いまだに浅ましくヒトのふりをしてばかり。欲を深めては苦悩して、人をやめても、確かにこの世は住みにくい。

『春は眠くなる。猫は鼠を捕る事を忘れ、人間は借金のある事を忘れる。時には自分の魂の居所さえ忘れて正体なくなる。ただ菜の花を遠く望んだときに眼が醒める。雲雀の声を聞いたときに魂のありかが判然はんぜんする。』

『雲雀の鳴くのは口で鳴くのではない、魂全体が鳴くのだ。魂の活動が声にあらわれたもののうちで、あれほど元気のあるものはない。』


 ぼくはこの雲雀になりたい。春の季節に最初に気が付く鳥。太陽が昇って最初に鳴く鳥。始まりを先導する鳥だ。

 雨が降り出した。瀧川が近づいているのを感じる。夢は覚めるものだ。ぼくは龍を連れて、あの場所へ帰る。帰って、ぼくらにもかけられた人魚の呪いを解くのだ。

「ぼくをまだ食べたい? 」

 そう問うと、釣眼は片方の眉丘を持ち上げてから、しかめっ面をした。

「ふん……今に喰ろうてやるともさ」

 ぼくは笑う。


 カッちゃん、ぼくは決めたよ。おまえはどうする?

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