第十七話 カルマシティ 後編
◐玖三帆十八歳/夏
この家の間取りは、長方形のてっぺんあたりに玄関があり、100センチもあろうかという高い土間がある。玄関から見て左手に長方形の先に続く縁側が伸び、正面に十畳ほどの居間がある。そこに炬燵とテレビを置き、食卓としていた。便所と風呂と台所は居間を突っ切った正面に並んである。つまりこの家は、長方形の中に、大きさの違う四角の部屋が、二つずつ並んで収まっているのである。
縁側を進むと、四畳半の和室、二畳ほどの納戸を挟み、突き当りを曲がった先の終着点が、六畳ほどの和室で、克巳の部屋である。
最初、どうして眼が覚めたのか分からなかった。擦り硝子のはまった窓の向こうは冷えた暗い青で、枕もとで蛍光に塗られた目覚まし時計の針が四時を指している。
「……ネエ、起きて」
泥から這い上がるような気持ちで目を開けて、おれは布団を跳ね飛ばして驚いた。青い闇に浮かび上がったのは、おれを覗き込む中年女の顔だったからだ。
「さ……サト子さん……? な、なな、なんで……」
「鍵もらってんのよ。克巳ちゃんのご飯つくりに来てたンから」
げに恐ろしき田舎の距離感。合鍵はあとで絶対に返してもらおう。おれは強く心に決めて、布団をぐしゃぐしゃに丸めて布団の脇に置いた。
膝を揃えて座りなおしたおれに、サト子さんは声を潜めて言う。
「克巳ちゃんが、部屋におらやんのよ」
「え? 」
「……また下段の川やと思うんの。玖三帆くん迎えに行ったってくれやんやろか」
「はあ……」
「よろしくね」と言って、サト子さんはさっさと坂を下って行った。
下段……というのは、この棚田に沿って山肌を階段状にある集落の一番下、川に面したところ、という意味だ。
おれは寝巻の上に上着を羽織り、背中を丸めて半信半疑に坂を下って行った。
下る左手に、山脈の波と爪先ほどの黒い海があるはずだった。夜明け前の東の空は、闇を吸い込む壁と同じだ。月も星も見えない不思議な新月の夜だった。
三月の空気は強張るように冷えている。寝起きの頭がうんざりするほど坂を降り、その冷たい空気に水が香ったころ、ぴちゃぴちゃと音がした。
河川敷は岩に囲まれた小川である。深いところで、おれの肩が浸かるほどだ。
雪解けの混ざったこの時期の川なんて、どんなに冷たいものか想像に易い。
青の闇に、黒い川の帯。その黒の中に、滲んだように白っぽい寝巻が見えた瞬間、胸がすうっと冷えて震えた。
おれの足は勝手に駆けだしていた。砂利道を蹴とばして近づいた背中は細い。冷えた口腔が血の味がする。脚を濡らした水は、やはり飛び上がるほど冷たかった。掴んだ襟首の下は、まだ温かかった。
その時、さあっと風が一掃するように闇が晴れた。夜明けだった。
振り返った克巳の腰の下で、大きな緑色の鱗が、きらきらと翻って白く輝き始めた川の帯に交じりながら、上流に上っていくのが見えた。
あれは後から思えば、おれが初めて人魚を見た瞬間だったのだ。
◐玖三帆十八歳/秋
残暑にどろりとした汗が吹く。緑が秋色に衣変えしていく山は、なんだか色が濁っていて、だというのに夏の名残の梢が厚い屋根を作っている。
「おいおい……冗談じゃないぞ……」
おれは山道を早足で進みながら、誰にとも無くぼやいた。
何が冗談じゃあないって、おれは長閑な田舎暮らしを夢見て遥々海を越えて電車の中で日を跨ぎ、山の下からやって来たってのに、普通の暮らしすら期待できないらしいというこの状況である。
今朝までは……いや、昨日の夜までは、おれは自分が、絵にかいたような閑静な田舎にいると思っていたというのに。
とんでもない話だ!
ここは魔境だった。化け物どもの巣窟だ。
さて、思い出すのは事の顛末。
おれ思うに、その土地に愛着を持つためには、同じ土地を共有する人間との相性というものが重要な選考基準である。同居人である奇怪なるお子様、克巳のやつとの仲も、共に台所に立つくらいには成長したし、集落の住民との関係もおおよそ良好であるといえる。
ここはもう、おれの中では第二の故郷、帰るべき我が家でありますと履歴書に書いていい。
そんな我が家は、集落の中でもいっとう高いところにある。我が家より二百メートル下方に位置する隣家は、葦児さと子さんと、その夫と娘が住んでいる。
その日、その隣家より我が家へ、夜六時を半分回った頃合いに、若い娘からの訪問があった。
面倒見が良く庶民的なさと子さんと違い、その娘は都会かぶれの十九歳で、趣味は美容と化粧ですというような女性である。
「お母さんに言われて、煮物を持ってきました」
「いや、いつもありがとう……」
玄関口で鍋を受け取って、おれは言葉に詰まった。どうやら彼女は、鍋を渡しただけでは帰る気がないような気配であったから。
その日も娘さんは、洒落たレースのワンピースに踵の高い靴を履いている。
「どこかお出かけしていたんですか? 」
おれが尋ねると、「いいえ」と娘さんは薄く微笑んで、おれににっこりとした。
「これ、普段着なの」
「へえ、お洒落さんなんですねえ……」
「そう? そんなことないわ」胸を張って、娘さんは謙遜する。
「クウちゃん、それ、こないだも言っとった……イテッ」おや、おれの手が何かに当たったかな。
実を言うとこんな感じの会話は、毎度お馴染みのやり取りだった。
おれは言葉に詰まると、ついつい「異性との会話に困ったら、とりあえず服を褒めておけ」という母の教えに従ってしまう。
田舎に染まる例として、『夜』の基準が早まることが挙げられる。
例にもれず、瀧川では六時は『夜』だ。夕食の時間が四時という老夫婦だって知っている。
我が家は若者二人住まいなので、平均して六時から七時だけれど、この瀧川の常識として、『六時におかずを持ってくる』というのは、非常識すれすれの行為である。
しかもそれを持ってくるのが『十九の娘』となると、『夜更けに着飾って訪問してくる若い娘』というような要素も付属するわけで……。
まいったなあ。
この娘には悪いけど、とくべつ社交的でも人好きでもないおれには、続かない会話は苦痛なのだ。
秋波を送られるのには悪い気はしないけれど、隣家の娘さんというのは物理的な距離が近すぎて、手を付けるのも躊躇われるし、容姿が華やかすぎるのも自分の母親を思い出してしまうので、どうしても萎縮する。
彼女がどうやら克巳を苦手としているというのも、おれが困ってしまう要因でもあった。今もそこに克巳がいるのに、まるで透明人間の扱いだ。
「玖三帆くん、毎日家事で大変でしょう? 今日はわたしが作ったの」
「いや……克巳もあれで、けっこう手伝ってくれるんだよ」
「でも、子供の手だなんてたかが知れているでしょう? 」
娘さんはそう言って、暇そうにテレビを眺めている克巳の後ろ頭を流し見た。
「今日はもう遅いから帰った方がいいよ。明日も学校やんね」
「あっ、そうだ忘れてた」
娘さんは、わざとらしく手を打つ。あのね、きみ話を聴いていたかい?
「お母さんがね、明日はお暇ですかって」
「おばさんが? なんやろう」
「たぶん……」いきなり声をひそめて、娘さんは言った。「玖三帆くん、シンジにはまだ出たことがないでしょう? それだと思う……」
「……シンジ? 」
「月一の祭事よ。男手が足りないんやって」
ああ、『神事』ね。そういえばあったな。そういうの。
「あれはあんまり若い人は出ないもんなんだけど、こないだ五段目の小父さんが腰をやっちゃったから」
「はあ……おれでお役に立てンなら」
「よかった。じゃあそう言っておくね」
なんだか面倒くさそうで気が引ける。しかし先のことを想うと、参加した方が良いのだろう。
過去の自分にメッセージを送るのなら、おれはこう言うだろう。
絶対にやめとけ。知らない方が幸せなこともあるんやぞ……と。
案内された岩戸の奥からは、濃厚な水の気配がした。雨の前と同じような、濡れた土のにおいだ。それに金臭いものが混じりあい、なんともいえない空気が噴き出している。鴉の羽のような鳥居が掲げられた岩戸の切れ目をくぐり、その水の気配の中に飛び込むと、存外中身は広くできているようだった。
しばし暗く狭い通路を歩かされ、やおら赤い篝火がおれの顔を照らす。
ヒエッ……。
次の瞬間、おれは息と共に声を飲み込んだ。
そこは、椀型に開けた空間だった。黒山のような頭がぎっちりと並びたち、篝火を映してそれらの赤い両眼がいっせいにこちらを見ている。おれは弾む心臓の音を押し殺し、奥歯を噛んで一群に会釈した。
「おお、よう来たなあ。歓迎すっで玖三帆くん」
真っ先におれを迎えたバス運転手の松弥さんは、風呂敷みたいに四角い顔いっぱいに笑みを広げて隣を叩く。「松弥さん」
隣にいる少年は、松弥さんの弟さんだろうか。よく日に焼けた玉子型の輪郭に彫りの深い目鼻が並び、精悍な男前である。
「弟の竹流や」竹流少年は、寡黙に頭を下げた。
松弥さん兄弟の隣にお邪魔したおれは、さりげなく周囲を観察した。男ばかりが目立ち、女は前列の方にいる村長さんくらいしか見当たらない。誰もかれも見える顔が、やけに固く口を結んでいた。
「……これ、なんの集まりなんです? 」
「神事の集会や。……きいとらんで来たんか? 」
「いやあ……」おれは口ごもった。
……だって、祭の打ち合わせにしちゃあ空気が悪いんだもん。
やがて、一団の前方に、ひとりの男が立った。
凡庸な印象の痩せた小男である。男は沈黙を保つ洞窟内を、声ひとつで震わせた。
「……今月は供物の調達が上手くいきやなんだ……したがって一団の長たる五段目の矢又ンとこの竹流が願い出たため、供物を務める……」
「たァけるゥウ! 」
言い終わるか終わらないかのうちに、松弥さんが立ち上がった。
兄に見下ろされた竹流少年は、「兄貴、座れよ」と、静かな声で服の裾を引く。
白々とした視線が、松弥さん兄弟を刺した。
おれには何が何だか分からない。
「ま、松弥さん。落ち着いて……」
「これが落ち着いていられるかっ! こんなこと……親父とお袋に顔向けでけん……! 」
四角い顔を鬼瓦のようにして、松弥さんはオイオイと泣き出した。
その広い肩を抱くようにして、竹流少年は言う。
「……おれは親父たちと常世で兄貴を待っとるで。な? 」
「話は決まったか」
壇上の男が、冷たい声を落とす。
「十年二十年前と比べ、年々、供物集めは難しくなるばかりや。龗神は供物を待ってはくれん。……今回は残念やった。明日、竹流は
おれはようやく、これが何の会合なのかを理解した。
誰もかれもが、当たり前のような顔をしている。ここではこれが、当然のことなのだ。松弥さんですら、明日には弟が死ぬということを悲しみこそすれ、肩を落として泣いているだけ。すでに受け入れているのだ。
小説より奇なりとは先人はよく言ったもんだ。聞かされた話は、犬神家より八ツ墓村よりひどい。なんだっておれは、こんな処に来ちまったんだろう。
日は落ちかけていた。川沿いを下っていくと、やがて集落の段々の、一番下につくという。そっから一番上にある我が家まで上がっていくのは、若い身にも堪える重労働である。
門が見えるようになる坂を上るあたりで、おれはもう疲労困憊していた。
とりあえず早いところ帰ろう。
よくよく大事なことを考えるのは、飯食って風呂入って寝て起きてからだとポケットの鍵の輪郭を確かめる。
克巳は街で育った子供らしく、おれが来る前からしっかりと戸締りをしてからでないと眠らないし、出かけもしない。
漁師と商売人がうろつく歓楽街を遠く耳にしながら育ったおれもまた、鍵を閉めなくては布団に背中がくっつかないので、安心といえば安心であるのだが、去年のように冬の夜に四時間も締め出されるようなことはもう御免である。坂の半ばで鍵を確かめることが癖になっていた。
門柱をくぐり、さあ鍵を……と扉に構えたとき、がらりとそれが開いた。
文楽の姫人形のような白い顔が、ぼうっと玄関灯を背にしてそこにある。長い髪が頬の丸さを削ぎ、尖った顎を際立たせていた。白い着物と赤袴姿のそいつは、扉を開けて一寸、目の前の障害物を認識できていないようだった。
「克巳? おまえ、まだ寝てなんだか」
「……ン。アレェ、なんやこれ、クウちゃんか。なンかと思た」
おれの腹を見上げる克巳の顔は、人形身が抜けて生気が宿って見える。しかし鬘らしき長い横髪を指に絡める克巳の風体は、まったく見たことがないものだった。
「なんやその恰好……それも、こんな時間に」
「踊りのお稽古に。下のおねいちゃんから電話があってサア……」
唇を尖らせて、克巳はごちた。「あした、神事で使うんだってサア……」
克巳は鬘の下に指を入れ、ぼりぼりと頭を掻き掻き欠伸をした。こいつの夜が落ちるのはいつもおれより二時間も早いのだ。すでにその時間は、時計三周過ぎている
しかしそんなことよりも、聞き逃せないことがある。
「おまえ……まさか、明日の神事に出るんか? 」
「出るヨォ。だってぼく、舞台で神楽せにゃならんもん。クウちゃん知らなんだの」
「し……知るかよ! 」
おれは、ゾッとするものを感じた。あっけらかんと言う克巳にも、気づかなかった自分にも、怒りに似たものが湧いてくる。
「……おまえ、あの神事ってやつが、何をするんか知ってんのか」
克巳はぱちりぱちりと、何度か黒目を瞬いた。
「うつせおみを落とすんやろ? 知っとるよお。……あ、それとも」ぐるりと首を曲げ、克巳はおれの顔を覗き込む。
「ヒトゴロシを知ってるかってこと? 」
用意していたはずの言葉が、舌と共に喉の奥に縮こまって引っ込んだ。
「知らないわキャアないわナ……だってぼくが太鼓叩くすぐそこで、ヒトが落っこちンだもの。そら、最初は驚くけど、ここじゃあそういうもんなんよ」
大人びた軽薄な笑みを浮かべ、克巳は嘯いた。
「いいやあないか……別にいますぐ、クウちゃんがどうなるってわけでもなし……」
「そういうことを言っとるんじゃあない。つまり、人殺しの手伝いをするってことだろう。おれは、そんなの承知できねえって言ってんだ! 」
「なにが駄目なの? 怖いってこと? 何が怖いの? こんなところまで警察は来ンのよ。怖いならァ逃げりゃあいい……ぼくのお母さんも、そうやって逃げた。たぶん、クウちゃんのお母さんもそうだった。でもぼくとクウちゃんは、ここにいる……おかみ様にはわかるんだ。瀧川からどこに逃げても、どうせ迎えが来ンや」
「おれは、ここのやつらはおかしいと思う」
「ぼくもおかしいと思う。でも、おかしいのだけがいっぱいいれば、それは普通のことや。しやろう」
「克巳、逃げるとしたら、お前はおれと来る気はあんのか」
「……別に、」克巳は言葉を区切り、小さな舌で唇を湿らせた。「……ぼくは、どこで死ぬンもオンナジやしナァ……」
垂れる黒髪の幕の内で、掬い上げるように白い
白い下地に、筆先で描いたような眼と、黒い目玉が孔のように穿たれ、小ぶりな鼻と頬の影の谷に、小刀で抉ったような唇の丘の切れ目から、半ば開いた歯列が見える。その歯列の奥は暗闇で……はたしてホントウに、おれとオンナジ食道や胃や肺があり、臓腑が詰まっているのだろうか。
じっとりと汗をかいている。むせ返る緑の香りと暑気が、気持ちが悪い。
冷気を孕むほど白いばかりの克巳を前に、おれは自分が薄汚い生き物と思えてきた。
「おまえは、死んでもいいのか」
「死ぬときは自分で死ぬつもりだから、いいの……ネエ、きみは死にたくはないんでしょう」
克巳は、日向の猫のように瞬きをした。
「ソンならぼくが、ゼッタイ死なない
瀧川では、死とは通過点にすぎなかった。
少なくとも、多くの住人たちが死後の世界を心の底では信じていた。
『常世』『黄泉』『極楽』……言葉は特に理由も無く使い分けられてはいるが、共通するのは、死の直後に辿り着く痛みのない世界だということだ。
供物に選ばれ『空御身』を落とすことは、数多い死の方法の中でも、儀式を用いて必ず『常世』へとたどり着ける術として、村人たちには受け入れられていたようだった。
瀧川では、命は器。魂は水だ。
魂は水のように常世を介して循環し、再びこの世の器に降り注ぐ。
そうなれば、死とは何も怖いものではない。
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