第八夜 浴室に金魚の箱 後編

 ◐


 おれは布団で目が覚めた。慣れた感触と匂いがする。うちの布団だ、とすぐにわかった。

 顔に手を向ける。ぺたり、と何の面白味もない自分の顔にあたった。外は暗い。今は夜か。

「釣眼」

「……なんだい。空船」

 声は枕元から聞こえた。おれはぐるりと視線を上に向け、白い揃えられた膝を見て、はっと身を起こして部屋の隅に飛び込む。

「……おまえ、釣眼か」

「そうとも」

 にんまりと、白い顔が笑う。特徴的な三白眼だけは、にやりともせずにこちらを見据えていた。服は、紺地に燕と沈丁花の着物。昔に誂えてもらってから、和服は締め付けるのがいやだと雲児が袖を通さなかった着物。

「その体、雲児のものか」

「おうとも」


 肩に長く垂らした髪を払い、さっと釣眼は立ち上がった。そうするとアイツの容貌は、まるで古代の貴族の子のように見える。こう見るとあいつは、ずいぶん神経質そうな顔をしているものだ。この顔で高慢ちきに丁寧語なんぞで喋られたら、どんなに癪に障る子供になるだろう。この顔で尊大に振る舞われたら、どんなに凄みが出るだろう。

「ア奴が残していったもの。わしが使うて何が悪い? 」

 雲児の貌で、釣眼はそう言った。

「所有権は、おまえよりもおれにあるだろう。おまえの主はおれで、あいつはおれの片割れだ。今すぐ出ていけ。おれは許さないぞ」

「そんな白い顔をして、おまえに何ができる」

 おれを見下ろし、釣眼は鼻で笑ってみせる。そういう意地の悪そうな貌は、まんま雲児とおんなじものだ。ざざぁっと、自分の血の気が引く音を聞いた気がした。

「クウに成り代わるつもりか? 出来ないぞ、そんなこと。あいつはあれで個性的だからな」

「そうかい? 真似もしやすいってもんさ」

「乙子のおやじがいる。おれたちをずっと見てきたおやじだ。絶対に気が付くぞ」

「さあ、どうかしらネェ」

「どういう意味だ」

「おまえと雲児がオンナジなら、わしとおまえもオンナジものだ。なら、わしと雲児がオンナジでないと何故いえる? ……まあ、真似するくらいは造作もなかろう。ふふふ」

「何を言っている……? 」

「何を、とは。当然のことを言っているだけのこと。その当然の事すら、空船、おまえは知りもしないのだ。雲児はもうとっくの先に気付いていたことだというのに」

「面は、分割されたおれだとでもいうのか? おれが多重人格者だとでも? 」

「人間の病の虫はおまえにゃ憑かぬだろう? 面はおまえの要素の一つにすぎぬ。わしを除いてはね。窮地にわしを頼ったのは間違いだったのう……河津ならば、まだおまえの手で封じることもできたろうに……こうしてわしは漁夫の利を得たというわけだ」

 布団を跨ぎ、釣眼はおれに二歩三歩と近寄った。

「今まで一度も考えなかったのか? 面がおまえにとって何か。もとは何だったのか。そして、おまえは誰なのか」

「おれが誰かって? おれは空船だ」

「どこで死んだ。台風で川で流された? それはいったいどこの川からだ? いつの台風だ? それは本当に三十年前あの日の台風だったのか? 水底に沈んでいたおまえ達が、台風で川底が削られて浮かんできた……なんてことは? そもそもおまえは本当に人間だったのか? ただの人間が、このように蘇ることなどはあるまいよ」


 ぺたり、ぺたり、ぺたり……。

 釣眼はおれを追い詰める。おれは壁にすがり、腰に力が入らず、無様に膝をついた。ざらついた土壁を背にしたとたん、雲児の短い腕がおれの頭の上に手を付く。金色の瞳が、おれを見据えた。

「では空船とは何だ?雲児とは? 奴は、どうしてお前と共にいる? おまえ達は離れると、どうしてそうも弱ってしまうんだ? なぜ離れてはいけない。なぜ運命を共にしなくてはいけない。なぜ面がある。“翁”“女”“男”“死者”……その中に、なぜわしという“神”が混じっている。昼と夜で姿が違うのはなぜだ。それも、併せたように交互にあやかしと人とを行き来する。互いを補うように。互いが監視者であるかのように。なぜ死なぬ。なぜ老いぬ。人は死んでいくものなのに、なぜ雲児と空船は生きる。―――――――いったいいつまでぼくらは生きるのだ! 」

 唾を飛ばして竜神は吠えた。


「……それは、雲児が隠していた真の言葉か」

「……そう。雲児はずっと思っていた。おまえは今のままが気に入っているようだがね。幼いのと、若いのは、まったく違うのさ。幼いままの雲児、若いままのおまえ……雲児はそれをずぅっと考えていた」

「おれに嫉妬していたのか。ずっと」

「妬いていた。妬んでいたとも! 若いおまえは、どこにでも行けるだろうさ。けれど幼い雲児は、子供の行けるところまでしか許されない。不公平だと思っていたともさ」

「『ぼくは子供だから、もう我慢でけへんよ』……あれはそういう意味なのか」

「人ですら、裏と表と左右の顔がある。お前たちは昼と夜、それぞれの姿を持っている。そして必ずしも、一つだけの顔が現われているとは限らぬ。二つ三つの面が、まったく同時に浮かび上がることもある」

「あいつの隠し事は他にもあるっていうのか? 」

「あいつの面は、風に吹き飛ぶようなおまえとは違う。面を剥さぬことが必要だったのだ。すぐに入れ替わるおまえとは違って」

「……おれよりよく知っているんだな。釣眼」

「知っているとも。今やわしは、雲児のこころの方がよく分かる……」

「ならば知っていること、すべておれに教えてもらうぞ。覚悟しろよ釣眼……」

 ぶわりとこの身を、見えない水が取り囲む。生臭い潮のかおり。生物が死んでいく水のにおい。おもかげの静かな水面とは比べ物にならない。釣眼の、すべてを押し流す清流とは程遠い、へどろを掻き回して引き摺りこむ濁流―――――。

 くさいのは、この面の総身そのものが水に浸って腐っているからだ。薄い頭髪がばらばらと頭蓋に張り付き、骨に皮を張ったような顔の切れ目から、血走った眼とぎらつく金の瞳が、貪欲にぎょろぎょろ蠢いていた。

 河津。溺死した男の面。


「……なぁるほどゥ。空船ヤァ、ついにこうなったか。そうかそうか……おれはいつか、こうなるのではと危惧しておったともさ。アラマ、ヤァヤァ釣眼のダンナァ。ご機嫌麗しゅうこってエ」

 河津のひょうけた口の端に、隠しきれない淀んだこころが歪みとなって現れている。

 雲児の顔で、いっさいの表情というものを消して、釣眼は口をつぐんでいる。眼には光が差さず、顔は闇に浮かび上がるほどに白い。

 能面の時よりも能面らしい面で、釣眼は。


「……茶番じゃのう」

 言って、腕を振り上げた。


 泡立つどぶ水が、冷たい清流に流される。渦巻く水は滝壺となり、おれを閉じ込めて蜷局を巻く。


 ――――息が取れない。

『オオォ、冷たい冷たい。昔を思い出す……イヤァなことだァ。さしものアコギも、竜神には逆らえぬのよナァアァァ……ヒハハハハハハアァァァァァ………』

 河津の狂った笑い声が吸い込まれていくように消えていく。目蓋がひっくり返りそうになりながら、おれは腕をめちゃくちゃに水を掻いた。その足掻きすらも締め上げて、清流はおれから体力を剥ぎ取っていく。

 ――――嫌な思い出だ。風呂で溺れた記憶。動けなくなるのには、そうかからなかったのだろうけれど、あの時とおんなじように、五分にも、十分にも、一時間にもその時は長く感じた。


 暗闇の渦の中に落ちていく。星のような白い瞬きが渦の奥にちりばめられている。竜神の胎の内は、かくも美しく底なしだった。

 ……この身も、小狡い釣眼に喰われるのか。

 雲児を取り戻すことも出来ず。

 もう二度と逢うことも叶わず。

 ……謝ることも叶わず。

『アコギよのゥ。運命というやつは、水の流れの様で地獄の火のようにその身を炙るのだから……』

 消えたはずの河津の声がポコリと泡のように浮かんで、やがて底のほうで弾けた。

 ゆらりと揺れる。

 ふわりと浮きあがる。

 おまえがまだ、あの木と共にいるのなら、なあクウ……おれは、おまえンところにいきたいよ。


 ◐


 あたくしは、裾をからげて廊下を走った。後ろから、赤毛と女学生がついてくる。

「どういうつもりだい、あんた」

「どうも何もありませんわ。あたくし、空船に会いに行くの」

「また空船にくっつくのかい」

「いいえ」違う。雲児のお使いは、まるきり違う。あたくしは一度、雲児のところへ戻らなければならない。「それはずっと後に、そうなれば良いっていうだけ」

「もう一度空船にくっつける保証はないってことかい」

「そうね。時の運というやつだわ」


 ………ドウドウドウドウ。

 水の渦巻く音が聞こえる。赤毛の麗人が足をゆるめたのが分かった。「アサコ、おまえは車にいなっ」後ろに叫んで、また駆け出す。

 後続がそうやっているうち、あたくしはすっかり静まり返った襖の前に立っていた。襖の下から、じっとりと水の気配がする。水たまりが湧いて出ていて、あたくしの足の先っぽを濡らした。

 あたくしが襖を開けた時、そこには空船と釣眼がいた。浸った畳の上に、空船が崩れ落ちるところだった。

「オンヤ、マア……誰かと思ったら。女面か」

「ええ、釣眼さま。お互い、珍しくも二本足が生えていますわね」

 ああ、なんて哀れな御姿……あなたはそんな無様を晒していいお人じゃあないのに。

「ネエ、釣眼さま……貴方様は、御自分のお名前をご存じ? 」

「なんだって? 」

「あたくし、貴方様をお迎えに上がりましたのよ。ネエ、釣眼さま。貴方様は、御自分のお名前をご存じなのかしら……」

 気が付けば、あたくしは首をそらして上を見上げていた。釣眼の顔は口が耳まで裂け、首が蛇のように伸びて、金色の目がぎらぎらと光って、あたくしを睨んでいる。

「なぜおまえが知っている」

「ネエ、釣眼さま。貴方様は、どうして自分が何にも知らないのかをご存じなのかしら」

「おまえは知っているというのかい」

「あたくしは知りませんとも。知っているのは雲児ですわ」

「……おまえと共に来いということか」

「ええ、本物の雲児が待っております」

 釣眼は、なんだか深く考えているようであった。背後で赤毛の人が空船を回収し、静かに襖を閉めていく。まったく、蛇というものは目の前のことに夢中になると、周りの事は何にも見えやしないのだ。


 釣眼はたっぷりと熟考し、やがて頷いた。

「よし分かった。連れていけ」


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