第×夜 隣の悪魔とギャンブルを













「―――――さて! 」



 と、催眠術師の合図のように、おっさんは大きく手を叩いた。













「これからお話は最終局面! といったところになりました! お楽しみいただけましたかネエ」

 おれも、隣に座るお兄さんも、目をパチクリしている。穴の開いた黄色い歯を剥き出しにしてニッカリ笑う目の前の男は、毒々しいブドウ色のハットを被り、肩のゆったりとした黒いコートを着ていた。よくよく見れば、そのコートのシルエットは鴉みたいな流線形を描いて、濡れ羽みたいに艶々している。男の呼吸にざわざわと毛羽立つコートの表面を生きているみたいだな、と思い、……まずい、まだ頭が回っていないらしいと頭を振る。

 そうだ。おれたちは何の話をしていたんだっけ? 周囲を見渡すと、見覚えのある飲み屋での喧騒が一気に戻ってくる。まるで、押し流されていたものが波に乗って帰って来たみたいに突然に。


「……さてオニイサン方。ここからが本題なんやいね」

 汚い達磨みたいな顔が笑う。

「これで終わりってこたア、そんな殺生なことはいたしませんよ」

 ……そうだ。あの話。

「空船たちはどうなった? 」

 おれの言葉の代弁に、大きく頷いた。「そうだよ。どうしてそこで止まる」

「イエイエ、ちいっとばかし、この時間が必要なんでゴザマスよ。へっへっへ」

 揉み手をするおっさんの姿は、まるきり詐欺師だ。

「そうだな……仕切り直しに、自己紹介でもいたしましょう。ワタクシ、こういったもんで」

 おっさんは艶々のコートから名刺の束を取り出すと、ばらばらとトランプをするようにテーブルに広げた。


「どうぞ、お好きなのをお手に取って」


 促されるまま、一枚手に取る。

 薄ピンク色の、角が丸い、上品な和紙の名刺だった。黒く縁取りされた金の印字が押されている。

 隣が手に取ったのは、毒キノコみたいに赤と紫の名刺である。見比べてみると、名前らしきものは同じだが、どうやら肩書が全部違うらしい。

「……『獏の海月』? 」

「そう。それがオイちゃんのお名前サア。……で、今回のお仕事はこれ」

 差し出されたのは、金箔がペカペカ輝く菫色をした名刺だった。鮮やかなブドウ色の明朝体が踊っている。踊っているとしか言いようがないほど、大きさがばらばらの字が、名刺いっぱいに書かれている。

『調停官 獏の海月』

「モチロン、ただの調停官ジャアありません」

 おっさんはウインナーみたいな指を振り、唇の前に持って行った。

「……この話で言う、天女たちの調停官です。あなた達にどうしてこの話をしたかとお思いでしょう? モチロン、わたしにも仕事がありましてね」

 シィ~……としたあと、おっさんは唇に当てた指をおれたちに向ける。

「最初に言ったでしょう? 天女さま方は、「もういいかしら」……なあんて思ってらっしゃる。でも天女様方は、人の行く末に自ら手を加えることは厭がるんですわな。天女は、ソリャアもう万能でございます。けれど人は人のなかでこそ、人の『かたち』として在るべきと考える。だから、空船たちと縁あるあなたたちに、裁きをお願いしたい」

「裁きだって」

「そう……議題は、『人魚の呪いを解くか否か』。マルかバツ、思ったままの直感でお願いします。はい、残り時間は少ないのですよ。









 3―――――








 2――――――
















 1――――――!」




















 ◐


 わたしの半分は、アノ子を憎んでいたけれど、もう半分は、アノ子たちがとても愛しかった。

 母のように、姉のように、神のように――――そうしてアノ子たちがただただ愛しいと思っていた半分が、いつしかわたしを離れてどこかへ行ってしまったのは、自業自得というものだ。

 残ったのは、妬ましく、憎らしく思ってしまう、汚らしいもう半分のこの体だけ。

 誰かが名前を呼ぶ。

 ―――――巽。

 ―――――巽、巽。

 泡が昇っていく。この体からまろび出た泡が。

 ―――――ああ、なんて綺麗。青くて、透き通っていて、月みたい……。

 この半分も消えてしまえたら、そうすれば、わたしは楽になれるのだろう。自分がつくったまやかしに惑わされることもなく、静かに眠れるのだろう。

 それがいい。それがいいのだ。

 ―――――巽。

 ―――――巽さま。

 ―――――巽ちゃん。

 もう名前を呼ばないで。

 わたしはもう、巽でいたくはない。そんな浅ましい欲に濡れた人魚など、ここには不要なのだ。

 黒いあぎとが光を遮る。

 ただの肉になりたい。

 今なら克巳の気持ちがわかる気がした。

 何も考えない肉になって、大切なものの糧となれたのなら……それはきっと、どんな死よりも、心やすらかな最後だ。

 ああ、瀧川よ……わたしを食べて……。

 ―――――たつみ!

 泡に紛れて声がした。

 ……轟轟と波の音がする。


「オカミさま! 」


 子どもの声とともに、黒鉄の鱗の腹がひるがえる。

『オオ……いなァ……これはとても好い。なんとも美味であろう……肥え太った、特大の大鰻』


 金色の瞳をウットリと細めて、龍は深く、深く、笑んだ。


『……河一本……山一つ……これさえ食えれば、いくらでも綺麗にしてやるサァ』


 あぎとに飲み込まれる前の一瞬、そのもまた、獲物を飲み込む蛇のように、顎が裂けながら口を開けているのが見えた。


 わたしの最後は、二匹の龍のあぎとに、二重と食まれたのだ。











(本日午前5時より8時まで、最終話を含めた4編を、一時間ごとに連続で更新いたします。

『孕み人魚と惡の華』最後の更新を

 よろしくお願いします。)

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