第二十死話 あの小さな街を沈めた日 前編

 そこで人魚は眼が覚めた。

 ダークグレーの枠にはまった車窓が見える。緑と澄んだ青空が飛び去っていき、シートの下でうなるエンジンの振動があった。ラジオが今日の天気を告げた。

 ここは瀧川じゃない。

 ふうぅ……と吐いた息は、我が身のものながら熱く籠った生臭さを感じた。

 喉の渇きを感じる。ここはいま、どのあたりだろう。

「柳、あとどれくらい? 」

「そうですね、半分はいきましたか。たぶん、夕方にはつきますよ」

「……そう」

 車窓の外は、数日ぶりに良く晴れた昼の陽気だった。硝子に映った自分と額を併せるようにして、巽はまた、目を閉じた。

 耳の奥に、寄せて流れる水の音が聞こえてくる。


 ◐侵略者


 夜の水は黒い。

 先人が積み上げた防波堤の岩々の背を、男は細い肩を反らして水鳥のように危なげない足取りで行く。

 波打ち揺れる黒い水は、手にした行灯の火をうつし、男の脚に寄り添って歩いていた。

 二十の年も越えていない背の肉は薄い。それもそのはずで、元服を迎えたのもようよう一年と少し年前のこと。年の数えを妹のものとごちゃまぜにして、同年の男児より三年も遅らせたのは、戦があったからだった。

 戦が終わって、少したった。少年は旅先の海辺で、晩夏の海風を向かい受けるように顔を水溜まりに向ける。

 間に合わなかった。

 父はこの海で死んだという。

 ならばどうしてお前たちは生きている。そう家来に詰め寄ったのはほんの半刻前のことだったが、ただただ首を差し出すように垂れた旋毛を見下ろしていると、この男の父に従う片割れの獅子のような武者姿を思い出し、刀を振り上げることも出来なかった。十月ぶり家族に囲まれても萎えたままの獅子は、ほんの十月のあいだに、漁師に紛れるただの男になっていた。

「あの御方は、海の果ての常世で生きておられる」

 家来は決して、「死んだ」とは口にしなかった。

 腹を切れば、家来も腹を切る。切らねばならぬ。

 空船に飛び乗り、日暮れの海に髪の一片も残さず消えた武者は「常世の桜ならば散らぬだろう」と岸の家来に残した。

 桜と例えられた武者。その花の首が落ちていないと言うのならば、従者は夏になってもまだ春だと口にする。父が忠実な家来に与えた役目は、結局のところ自分の墓守ではないか。

 元服を遅らせたのだって、息子に戦働きをさせないためだ。現に同年生まれの若者が、都にどれだけ残っているというのか。

 そういう人だ。そういう男を父に持ってしまった。

 元服を遅らせたといっても、すでに戦場は知っている。潮のかおりは、生き物のそれと似ていて好きではない。都の屋敷には、まだ母と妹が残っている。

 しかし嫌いなはずのこの海は、離れがたかった。

 ……ふと、顔を温かいものが照らした。

 夜明けだ。この海は、東に向いているのだった。

 日輪が昇る。

 白む空と輝く海の裾を目で追っていくと、背後に黒い影が差す。

 それは、宵闇の中からあらわれたあまりに大きな黒い影。その山は鬱蒼とした木々の衣の下に夜闇を隠したまま、西の空を遮り、そこにあった。

 その闇のみちをいくのは、白の旅装束のものたちだ。人を試すというこの山の闇を覗き込み帰ってくるものは少ないというから、行者たちは旅路の試練を求め、もしくは終着を望み、この山に死に装束で踏み入っていく。果てしなく高い望みを持ち、神頼みに縋る若い顔も少なく無いという。そういう若者たちに紛れ、若武者も日の出を背に歩き出す。

 山道を忠犬のようにあとを追ってきて、家来は主の裾を引いた。

「あの御山にはヒトを喰い殺す土蜘蛛がおりますよって、村のもんが」

 家来は言った。土蜘蛛とは、山肌に穴を掘り、蜘蛛のように四肢で地を這う毛むくじゃらのあやかしだ。頭には鬼の顔、ときに人にも化け、人間を欺くこともする。

「どうかお戻りください。御身に何かあっては、御屋形様になんと申せば……」

「なら、おまえが伴をすれば良い」武者の眼光が、老爺を射抜く。

「おまえが何も言わないから、この足であそこへ行くのだ」

 峰を仰ぐその貌は、どこか刃のような輝きがある。老爺は慄き、稚さを残した若者の眼差しに燻ぶる鬼火を見た。

「あの海が墓なら、この山が墓石だ。やあ、なんて立派な墓だろう。これほどの墓は大王だって卑弥呼だって持ってやいない。そうは思わないか」

 少年が山を指すように腕を一閃すると、さぁっと朝陽が雲から零れた。木々の枝葉が輝き、せせらぎだけ聞こえていた川の流れが光の粒を纏って姿をあらわす。

 同時に、森の岩や重なる枝の影が、うねりながら存在を厚くし、太陽から逃げるように蛇行して伸びていった。

 ごくり、と老爺の喉のこぶが動く。

「……あ、あの若い行者たちは、どこのものです」

「……矢又という一門だそうだ。ここらで謂う土蜘蛛とは、あれらのことらしい」

 くっくっく、と、喉を鳴らして少年は哂う。

 そ足元では、いっそう黒い影がざわざわと蠢いて見えた。その影は、まるで無数に絡みつく冬眠の蛇だ。

「あの峰ならば、海がさぞや大きく見えるに違いない」

 ぎらりと、少年の双眼が紫電を映したように閃いた。ちろりと影から零れた蛇の首が、同じく紫電の眼をもって老人を見返したのを見て、彼は首を垂れて山を降りるしかなかった。

 老人は麓で主を待つ。それきり老人のもとを訪ねるものはいなかった。


 ◐異邦人


 夜の水は黒い。

「今はおまえがおかみ様なんだ。本物の〝おかみ〟が、出てきちゃア困る。おれもおまえもナ」

 柳はそう言って、齢十になった幼い巽の手に、小刀を握らせて繰り返した。

「……いいか? おまえの血には、不思議な力があるんだよ」

 幼い人魚の皺が寄る顔は、髑髏に皮を張り付けたようで瞳ばかりが大きい。

 猿の子のように唇をもごもごとさせて、巽は小刀を重そうに両手で捧げ持った。白い刃が、浸かっている水に映ってぎらりと光っている。

「しやって……でも、おそろしい……」

「舐めた口をきくんやない! 」

 柳は唾を飛ばして叫んだ。

 丸い洞の中で、柳の声は跳ね返って波打ちながら満ちる。巽はか細い肩を小さくすると、瞳を潤ませて小刀を握りなおした。

 うつむく巽の下で、水は黒く沈黙している。灯りがいらない眼にも、この水の先は見通せなかった。

「いいか、巽。おまえを名付けて育ててやったンはおれだ」

 降り下ろすように言葉を繋げる柳の肌には、いくつもの傷があった。村の者に叩かれたり蹴られたりして出来た傷だ。

「おれのために働け。おれの言う通りにしや! しやったら、おれがおまえを守ったる! 」

 潤んだ瞳をそろそろと上げ、巽は柳を見やった。

 そこにいるのは鬼だ。鬼の面をした人だ。

「ほんまもんの神サンがいるかなんかは、わからん。でもナア巽。お前っちゅう人魚がいる。今はおまえが神サンだ。本物の〝おかみ〟が出てきちゃあ困る。そうだろう? おまえが願うだけでいいはずナンだ。おまえの母親は、おまえの産湯の水でおれに呪いをかけたんだから……おまえの母親のせいでおれはここに居るんだよ。おれにはおまえにや借りがあるんだ」

「でも、でも……」

「おまえの血は特別なんやっで」

 ここで、この男の眼を見つめて『おとうさま』とでも呼んでみようか。巽の頭に、そんな思惑がよぎる。そうすればただの人間の父親のように、怒りを収めて頭を撫でてくれるかもしれない。

 けれど、以前そうして『小賢しい』と殴られたのを思い出した舌は、引っ込んだまま出て来なくなってしまった。

 巽は、右の手に小刀を握りなおし、左の手首に当てて引いた。慣れた仕草だ。

 けれど、ほんとうに自分の血で山にいる神さまが出て来なくなるなんてことがあるんだろうか……頭半分で疑いながら、もう半分で、『もしそうなったら大変なことではなかろうか』と恐れが羽を開いて包み込んでくる。考えているうちにも、とろとろと水に血が混ざっていった。

 願うのは、この小さな世界の安寧だ。


 誰も柳を叩きませんように。

 誰もわたしたちの邪魔をしませんように。

 誰もわたしを怒りませんように……。


 ◐支配者


 巽の眼には、逃げていく二人の女の姿がいた。

 夜の水は黒い。降り注ぐ雨が、女の体を追い立てるように叩いている。その胎にいるもののことは、巽は子供の母より知っていた。あれもまた山の子だ。

 逃げればいい。好きなところへ、好きなように。けれど子供だけは戻ってくるだろう。腕にいるのは男だから。

 ほんとうに逃げ延びるのなら、子を捨てるか、わたしを殺すかだ。

 黒い、冷たい雨が降る。その背中を追い立てるように雨を降らせる。

 わたしはもう、子供ではない。


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