第二十二夜 雲路の果てに月見えず 

 ◐克巳


 柳に刃を突き刺したあの日から、続けて嫌な夢を見る。

 眼が覚めた時、光があるとひどく恐ろしい。

 瞼を開けるまで、わたしの頭の中はまだ夢にある。とつぜん眼球に光が差し込むと、一瞬何が起こったのか分からなくなる。首に手を掛けられたように息ができない。

 その点、屋根裏は良かった。暗いうえ、寝転んでいると家じゅうの音が振動になって聞こえてくる。誰かの気配を感じながら暗闇に包まれていると、安らかに眠ることが出来た。

 そこは暗い穴の底。身動ぎもできないほど狭くて暗い。水に浸って誰かを待つ。天にあるのは闇ばかり、昼も夜もやってこない。きっと何も食わなくていいのだろう。飲まなくてもいいのだろう。蓋をされた井戸の底。

 待ち人がいることは分かっているのに、わたしはその待ち人の顔も知らなければ、交わした約束も知らないのだ。

 やがて待つうち、わたしは眠ってしまう。

 眼が覚めても悪夢は終わらず、むしろ悪い。わたしの体は無数のフジツボが生え、額が平らに、鼻ずらが伸びている。腕は萎んで、足は立たず、蛇になって岩肌に目玉を掻きむしりながらまた眠り、やがて頭の中も蛇になる。

 すべて忘れたわたしは、闇を睨んで石になるのを待つようになる。

 夢の中のわたしの息吹を、昼間のわたしは眼が覚めてからも感じる気がしてならない。


 ◐玖三帆


 おれがまだ学生だったとき、古本屋で見つけた本がある。

 その本はさして珍しくも無い文庫本で、表紙のカバーが剥がれ、擦り切れ黄ばんだ珊瑚色の本体を晒していた。どうも陽に晒されていたらしく、表紙にある題字すらも読めないような有様である。題すら分からなくなってもワゴンで五円の価値を付けられていたその本は、おれの鞄の底にある。

 初めて表紙を開いたのは、夜行列車の中だった。それは過去の文豪の短編を集めた一冊で、最初の一話の冒頭にはこうあった。


〝山路を登りながら、こう考えた。〟

〝智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。〟

〝住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。〟

〝人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣にちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。〟


 おれがこの数行に魅せられたのは確かである。おれは目玉を一行も進めず、この部分だけを何度も繰り返し反芻して読んだ。

 ああ……確かにそうだ。

 もうおれは、二度と賢くなろうとしないと誓う。くだらない情なども持たない。つまらない意地など、通すだけ不利になるばかり。欲があるから人は狂う。

 ただただ海月くらげのように生きるのだ。漂う霞の様なものを食い、誰よりも自分勝手に、裏も表も無い。むやみに触れるものには毒をもって攻撃する。

 それこそがヒトだ。この世はそういうヒトばかりである。おれもそうしよう。

 しかして誓ったおれが辿り着いた瀧川は、まぎれもなく神と人魚が住まう人でなしの国であったので、おれはこの本を閉じたマンマ、先を知らずにいるのだった。


 ◐


 克巳のやつは、また屋根裏の散歩者に戻ってしまった。

 ただ以前と違うのは、食事時だけはおれと食卓を囲むことと、学校にも行かずに屋根裏に引きこもっているということである。

「……それでこんな有様なので、巽さまをお迎えするには障りが……」

「わかった。……玖三帆くんも大変やね」

「いえ……ご迷惑おかけします。サト子さん」

「柳さんにはうちから言うとくから」

 客が帰った玄関先で、おれは長く息を吐いた。

 柳は生きている。おれ自身の眼で確認もしたので、間違いない。

 けれどこの眼が、血濡れの克巳とその足元に伏した柳を見たのも間違いない。

 翌日からぴんぴんして村を歩いている様子は、やせ我慢しているようにも思えなかった。

 あれは夢だったのだろうか。そう思うたび、風呂場で克巳の血濡れの装束を洗ったこと思い出す。湯をかけるだけでムッと浴室に充満した生物の匂いは、夢では有り得なかった。けっきょく、その装束は染みが取れなくて燃やしてしまった。

 全部が全部、夢というわけではない。

 松弥くんのバスは、けっきょく山の中腹にある崖下で見つかった。道路が崩れたかして、横転しながら落っこちたのだろうという。あの佐陀という教師もやはり同乗していた。四日も経ってから行われた葬儀は、二つともこの集落で行われることとなった。

 おれはその葬儀で、この集落では死んだ奴も空船に詰められて落御人の滝から流されるのだと知った。だからこの集落には、墓が無いのだ。



 梅雨に入り、毎夜日が暮れると雨が降るようになった。どういう仕組みなのかここらの梅雨といえば、きっかり日暮れから朝にかけてザアザア降りになるのである。昼間も雲はわだかまっているが、それでもたいして降ることはない。朝陽が昇ると滝の様な雨もモノの数分でぴたりと止む。風も無く、水が落ちてくる様は、ただ日々決まったことかのように。

 その日も夕方から雨が降っていた。雨どいから溢れた水が、軒下に幕をつくって、さらに強い風が、窓ガラスにまで雨粒を吹き付けて境を失くしている。こうして風も一緒に吹くのは珍しい。

 村人は、こういう天気を『龍が啼く』と謂う。

 おれたちは、食卓にしている長机にひとり分ほどの隙間を開け、並んで食事を終わらせた。


「……なあ克巳。おまえ、なにを考えとんねや。おれには何にもわからん」

 箸を置いたころを見計らって切り出すと、克巳は深い孔のような黒目でジッとおれを見た。

「……ねえクウちゃん、なんだか匂いが変わったね」

「はあ? 」

 克巳はマジマジと鼻がつくほど顔を寄せてきた。変な臭いでもするのかと、おれは自分の袖を嗅いでみる。さいきん特に温かいからか、汗の臭いが鼻についた。

「潮のにおいが消えちゃった。クウちゃんもすっかり瀧川の男だね。……ネエ、クウちゃん、ぼく、お願いがあんねんけンど」

「なんだよ……」

 克巳はおずおずと、囁くような声で言った。

「ぼくが死んだら、ぼくを食べちゃアくれへんやろか」

 克巳はにっこりと笑っている。

 初めて見る、ひどく無邪気な笑顔だった。

「……おまえが死ぬって、ドンだけ先の話をしとるんだよ」

「ウウン。きっとすぐだよ。きっとぼく、暖かいうちに死ンじまうからサア」

「気味の悪い話をするんじゃアない」

 大げさなほど嫌悪を表情に露出させたおれを、克巳はにこにこと見つめている。

 こいつはおれに、「死ぬときは自分で死ぬ」と言ったことがある。

「……おまえ、死にたいのか」

「ウン」克巳は大きく頷いた。そして、少し困った顔をつくって言う。

「ネエ、クウちゃん……ぼくをちょっとでも好いてくれてンならさぁ、頷いたってよ。もうずっと待ってたんだ。もしきみが頷いてくれたら肩の荷が下りる……」

「おまえに何の荷があるっていうんだ」

「誰だって、死ぬまでにやりたいことってあるやないか。将来の夢、生き甲斐になること、人生の目標、成し遂げたい欲望……みたいなこと」

 十四になる子供が、人生やら欲望やらという単語を口にした。

「それがおまえにとっては、誰かに食べられることってか? 」

 克巳は叱られた子供の顔で、眉を下げて小さく頷いた。おれはどんな顔をこいつに向けていたんだろう。別に怒っているわけではないのに。

「話してみろよ。聞いてやるから」丸くなった目と視線があった。「おれを説得してみりゃあいい」

「玖三帆くんは優しい」

 そう言った克巳の眼から、ぽろりと一粒こぼれた雫が見えた気がした。瞬きをした次には、克巳の黒い目は乾いておれを見つめていたので、見間違えかもしれない。


 すかさず顔をしかめて「優しかないよ」と返したが、まさしくそうなのだ。おれはただ、疑問を解消しておこうと思いついただけなのである。別にこいつのことをおもんばかったわけではない。

 克巳はおれの否定におざなりに頷いて見せ、ゆっくりと話し出した。

「……ぼくだってホントウは、生きていたくないわけじゃない」

 ただ死ぬのなら自殺だと決めているのだと、克巳は言った。それが、この浅ましい欲を果たすための対価なのだと。

「でも……ぼくは、柳に『食ってもいい』って言われて、気づいちゃったんだ。ぼくの欲は、矛盾してるって。ぼくは、ぼくを……ぼくの肉を食むきみが見たい」

 揺れる眼球がおれを射抜いた。

「ぼくが死ぬところを横で見届けるきみが見たい。それで、死んだぼくの体を抱きしめて、おいしそうに食べるきみが見たいんだ。ぼくが持っているのは、そういう欲だ。死ぬ気のくせに、その先を見たくてたまらない。おかしいでしょう? 死んだら何も分からなくなるのに、自分が死ぬ先を妄想して楽しんでる。おかしい……おかしいよ……」

 耐えるように顎を食いしばり、乾いた目を畳に視線を落とした克巳は、頭を掻きむしる。

 克巳は何も欲しがらない。何を食べたい、何がほしいと口にしない。それが恐ろしかった。こいつを得体のしれない何かとして隠していたものは、この秘めた欲望だったのだ。なんでも執着しないこいつが持っている唯一の欲望の告白は、驚くほどスンナリとおれの中に落ちた。誰かに食べられたいなどという欲求は、理解し難いものがある。しかしおれは、困惑するより先に安心した。

 底の無い水だと思っていたものが、ほんとうはおれと同じだけの器しか持っていなかった。その器を占めている欲求が、常人には理解し難いものだというだけ。

 こいつは化け物ではない。おれと住んでいたのは人間だ。ただの人だ。

 何も怖いことはないのだ。

 やはりおれは、薄情な人間である。目の前で自死を望む子供がいて、どうして可哀想に思えないのか。おれは安堵に包まれる自分の心に困惑しながらも、ようやくそう言った。

「おまえは……何もおかしくないよ」

 克巳がゆっくりと瞬いた。奥歯を噛み締めて、口を真一文字に結ぶ。克巳は噛み締めた顎を嚥下するように落とし、また不格好に頭を下げた。

「克巳、それを他には言ったのか? その、誰かに食べられたいっていうやつをさ」

「ぼくを食べてとお願いしたのは三人目だけ。二人目はあいつ」

 柳のことだ。

「その……どうして柳を拒んだんだ? まさか何かされたとか……」

「ウウン」克巳は首を振る。

「でもあいつが……まずい、こいつは違うんやと思って……」

「あいつ? 柳か」克巳は小さく首を振った。顔を上げた克巳の瞳に、おれの顔が鏡写しに見えた。我ながら頼りない顔をしていると思う。克巳はしばらく黙っていたが、ようやく小さく口を開いた。

「ぼくの中には、ぼくじゃないものがいる……そいつは、ぼくの眼を通してぜんぶ見ている。何も言わない。何も望まない。でも何もしないわけじゃない。……そいつは、ぼくを通して見たことで、いろんなことを

「それは……誰だ? 決めとるって、何を? 」

 克巳は頭を振った。遠心力に広がる髪の合間に見えた顔が、あまりに頑なに見えてツイ黙ってしまったが、なんだか誤魔化されたような気分である。

「どうせすぐわかる」

 窓の外で、光の柱が立った。雨がなおも強く地面を叩いている音がする。克巳の黒い瞳がその紫電を映し、瞳の奥でぎらりと解き放たれた白刃のように瞬いたように見えた。

「すぐにわかんねや」

 克巳から発せられる気迫が波打って、おれの肌にさわる。泥の……水の濃いにおいがする。これは、この冷たい空気は、あの洞窟の奥とおんなじだ。

「……おまえは誰だ? 」

 無意識だった。おれの口が滑らせた言葉に、紫電を映した瞳が笑んだ。

 やおらこっくりと傾いた首が、おれを下から斜めに見上げてきて唇を開く。その白い歯列の奥は、真っ黒で底が見えなかった。


「ほらァ……だから、言ったじゃなアい。すゥぐわかる、ってサア……」


 おれは台のふちを蹴とばして後ずさった。稲光の光がチリチリと克巳の眼の奥で奔ったまんま、紫色に瞬きながら蜷局を巻いている。喉の奥で笑って、克巳はおれの膝に滑り込むように乗り上げ、腕の内側でおれの首の皮膚を撫でながらおれの頭の後ろで指を絡め、輪にして囲い込む。

 吐息の先で、紫の眼が笑んでいた。

「―――――助けて……」

 そう言ったのはどちらだったのか。克巳の声はか細く泣いている。笑んだ眼から、今度ははっきりと水の粒が伝っていた。



 ◐


 己の腕の囲いに収まり、ぴくりとも動かないまま、克巳は堰が切れたように泣き濡らし、やがて静かすぎる寝息を立て始めた。

 腕に収めてみれば、この子供はまた随分と小さい体をしている。けっして背が高くないおれの膝に乗るこいつは、蛹のように体を縮めて座っているのを抜いても、おれの顎の下につむじが来るという非常に収まりの良い大きさをしていた。

 くっつけた腕や腹が奇妙に柔らかく、グンニャリとしていて出来立ての餅菓子のようだ。死んだように力の抜けた体は、触れたところからジンワリと生温い子供の体温を伝えてくる。夏も来ようかという季節には少し熱かったが、抱えたままゴロリと畳に横になると、晩春の夜には腹が冷えなくてちょうど良い。

 屋根を打つ雨音を耳に、眠りの浅瀬を行き来する。

 目を覚ましたのは、雨音に交じる微かな物音が耳についたからだった。


 カシッ……カシッ……


 五月雨の厚い雲の隙間から漏れている陽光が、雨戸の隙間から差して頼りなく部屋を照らしている。

 その音は玄関のほうからだ。

 おれは、玄関の引き戸にはまる擦り硝子を思い出した。あれを爪先で引っ掻けば、ちょうどあんな音になるかもしれない。

 ゆっくりと足の先を畳に擦るようにして、おれは玄関に向かって動き出した。汗がにじむ手のひらで袖を握りこみ、拳をつくる。芋虫のように玄関口の角へにじり寄ると、戸の外に、黒い頭と白い服を着た人影が見えた。

 擦り硝子で滲んだ肌色の輪郭には、表情どころか、目鼻の影も見えない。

 棒立ちになった体の横で、ぷらぷらと腕が揺れ、振り子の先の錘のようになった手がガラスを引っ掻くように叩いている。それだけを繰り返す機械のような仕草で、何度も、何度も叩く。戸の格子に挟まった硝子が振動し、壁と天井を伝って、この目の前の柱にまでその存在を主張してくる。

 カシッ……カシッ……カシッ……カシッ……カシッ……カシッ……。

 異様な光景だった。

 しかし這いよる恐れと同時に湧いてくるのは、泉のように湧いてくる怒りだ。怒りはおれにとっては恐怖より身近で、御しやすい感情だった。

「おい、こんな朝早くに迷惑やっぞ。言いたいことなら口で言や」

 あまり大きな声は出さず、かわりに思いっきり声を太くして言ったつもりだった。戸口の前の影は怯んだように指を縮め、腕を身体の横に収めて直立する。

 ぎゃしゃんと戸が悲鳴を上げた。

 上り框に爪先をくっつけ、前のめりにガラスに張り付く影は一回りも大きくなった錯覚を覚える。手のひらのかたちの影が、わさわさと蟲のように擦り硝子の表面を這いまわった。

「たすけて」

 聞こえた声は、男とも女とも取れない。擦れきって囁きに近い声量で、それはいちいち硝子を曇らせて一言一言を吐き出した。

「ころされる」

「みずにころされる」「やまにころされる」

「にんぎょにころされる……」「ころされるぅ」「……されるうぅ」

 薄暗い玄関に、雨だれの音に掻き消されそうな声声。

 ふと、繰り返すだけの声音が変わった。それはこの体に刻まれている女の声だった。

「玖三帆、おまえはにげなさい……―――――」

「……お母さん? 」

 そこでおれは眼が覚めた。


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