第八夜 浴室に金魚の箱 前編

 人魚はもともと、天にある国から降りてきた天女だったのだという。

 しかしある天女の姉妹が、物見山に降りてきただけの地上に残ると言い出した。

 仲間は笑い、次に哀しみ、無理にでも連れて帰ろうとしたけれど、彼女らは水辺からは離れようとしない。

 強情な彼女らに天女たちは怒り、彼女らの空を飛ぶ術を奪い取るや、地も踏めぬようにその足を魚に変えた。あげく魚と同じように、およそ地上の生き物に触れられぬよう、炎にあたって暖をとれぬよう、熱に炙られる肌を与えた。

 人と沿うために地上に残ったというのに、ひとたび触れられれば赤く腫れあがって、月が巡るまで腫れは引かない。

 子孫永劫、呪いがかけられた証として、人魚の脚には二本の骨が通っている。

 大人となった人魚の娘は、その骨の間の皮膚を絶ち、地上を踏んでたびたび人里に紛れるのである。



 巽は、額縁の前に立ったまま、そこを立ち去ることが出来なかった。

 声も憚る場とはいえ、さわさわと衣擦れの音や女のヒールの足音、感想を囁く声は、抑えていても聞こえてくる。

 額縁の中には、雪原があった。

 雪の積もった氷の表土。そこににょっきり雪を割って貧相な木が、陽光を奪取せんと身をくねらせて伸びている。実際、奥の山々にははっきりと太陽が差しているのだ。

(これは朝方のことなんだ)

 巽は、その青く影を落とす山陰に、はっきりとそう思った。

 周囲には、確かに足を止める人もいる。しかし目を剥いて額縁に張り付く巽のせいか、その絵から漂う異様な陰気のせいか―――――足早に立ち去る足も多かった。


 この絵が異様なのは、その雪原の貧相な木に、長い髪を絡ませて裸の腹の膨れた女が、磔になっているからだ。

 風に広がる服のようにも見える胸から下の描線は、すぐにこの木から伸びたものだと知れる。木は逃げられないように髪の毛を掴み、胸から下を縛り上げて――――さらに、幽鬼のような青白い子供の頭が枝から生えて、女の乳を吸っている。

(この木は、この女の命を吸って生きている)

 そのために、わざわざ赤子の顔すら作って。なんという生への執念! 木にとって、女は餌にすぎないのだろう。

 いくら皺くちゃのけっして可愛くない赤子だって、母だとすれば、手に取って慈しもうとするだろうに。この女は、この子供を張り付けた木に騙されている。

 巽はそこでやっと、視線を下げてその絵のタイトルを見た。

 セガンティー二作『悪しき母たち』。

 解説曰く、この赤毛の女は堕胎の罪を犯した淫乱な女どもである。彼女らはこの凍土で罰せられ、やがて罰は終わり、救いに辿り着く。イタリアの詩人、イリカの詩「涅槃」をもとに描かれた。



 巽はそこまで読んで、拗ねたように唇を曲げた。

(……へえ。妖怪の木の絵に、そんな綺麗な話があったとは)

 きっとこの女は、貪欲な木の養分として絞りつくされるのだろう、と思っていた。

(……残念だな。なんだか)

 巽は溜息を吐いて、ようやく額縁の前から踵を返す。かつかつとヒールの音が響き、周囲の人間は、絵画では無くその後ろ姿を名残惜しげに見送った。

 白い彫像のような、その美貌を。

 足首まで覆う高いスカートの下からは、尖ったヒールの先が見えている。右手には杖。セールで安く買い叩いたような無地のワンピースに、着古した男物の褪せたカーキのジャケットを羽織り、長くうねる髪は無造作に背に流されていたが、それでも巽は芸術品のように整っていた。

 おれはそんな巽のことを誇らしく眺めながら、足を止めて彼女を待つ。巽は出口に立つおれのところまでよたよた歩いてくると、腕をからめて小さくぼやいた。

「疲れた」

「長かったですね。楽しめましたか? 」

 こんな美しい人が、おれなんかにまっすぐ向かって行ったことに、周囲が驚いているのがわかる。巽は煩わしそうにおれの腕に縋ったまま顔を伏せ、首元にすり寄ってきた。

「足が痛いし、お腹もすいた。早く帰りたい」

「承りました」

 丁寧に手袋ごしに彼女に触れる。膝の下に左の腕をいれ、腰に右腕を絡めて抱き上げた。そうすると、自然彼女の胸元あたりが顔の横にくることになった。

 見せつけるように歩く。

 彼女はおれの人魚だ。



 築二十年。コンクリートの四角ばった十階建てマンション。びっくりするくらい遅いエレベーターを嫌い、巽はいつも階段を所望する。

「あんなのろま、いつ底が抜けるか分からない」

「そうそう抜けはしませんよ。止まりはするかもしれませんが」

「じゃあ止まったとして、わたしが閉じ込められたら? それも中途半端なところでさ、扉をこじ開けて出ねばならない。わたしはそんな時に限って足がうまく動かなくて、床と天井の間に挟まってしまう。そうしたらいきなりエレベーターが動きだして………」

「オチが分かりました。巽、昨日は夜更かしして、テレビを見ていましたね? はあ」

「最初の三十分だけだ。金曜の夜だからいいだろう」

「出かける、前の、日に、九時まで起きていたら次の日に響く、と……ひい、ふう、はあ……よっと……」

「わたしは間違いなく真っ二つになるぞ。魚の脚じゃあ、死体を見てもわたしのものだと分からないな」

「まったく、はあ、家が近くなると、元気になって……ふう、ふう……」

「昔はわたしを担いで山道も歩いていたくせに。鈍ったんじゃあないかぁ? え? 柳」



 家に着くや玄関で靴を脱ぎ捨て、巽は四つん這いで一つしかないベットまで一直線に飛び込んだ。おれはといえばすぐに風呂場に寄り、湯船の蛇口を開ける。

 部屋の隅で、がしゃんがしゃんと檻がうるさい。巽が眉をひそめたので、おれはポットからコップに湯を注ぎ、檻の上にかかった布の上からかけてやった。

「ああ、柳。服を脱がしてくれ。水に浸かりたい」

「もう少しお待ちください。まだ溜まっていませんよ」

「早くしてくれ……」

 彼女の肌は、熱に極めて弱い。手袋はかかせないのだ。ひと肌でさえ、彼女には火傷になるのだから、彼女に触れたいのなら、厚いジャンパーを夏でも脱いではいけない。

 肌に触れないように上着を脱がせ、ワンピースと下着も取っ払うと、ぴくりとも動かなかった巽はもぞもぞと寝返りを打った。

 秋とはいえ、冬も近い。剥きだしの上半身に毛布をかけると、おとなしくそれに包まれる。白い腰から尻の上の境から、硝子の気泡のような薄いつくりの鱗が覆っていく。二つに裂いて、長く“足”として使ってしまったひれは、擦り切れてもうほとんど残っていない。傷跡の残る内側の腿も含め、鱗も斑になり、はげた地肌は青白くて薄汚れた灰色になってしまっていた。

 幼いころの巽の脚は、それはもう美しいものだった。かつて、あの鍾乳洞の泉に浸かっていた彼女は、まさしく化生のものだったのだ。

 彼女はおれに、その鱗の綺麗な断面だけを見せつけたまま、やんわりと言った。


「……ねえ柳、おねだりしてもいい? 」

「なんでもどうぞ。わたしに出来ることでしたら」

「あの絵が欲しい」

「セガンティー二? 」

「そう。『悪しき母たち』だ」

 ピーッ、と給湯器が風呂の用意が出来た合図をする。ああ、また美術館に行けば、画集の一つでも売っているだろう。

「分かりました。明日にでも」

 裸の彼女を抱き上げて、湯船に向かう。

「ついでに食事にしますか? 」

「ああ」


 応と答えが返ってきたので、彼女を湯船に下ろすとおれは部屋に逆戻り。エッチラオッチラ檻を運び、浴室の手前の廊下で手早く処理をする。さすがのおれも、この時ばかりは動きに障らないよう上着を脱ぐ。

 むわりと血のにおいがし、とたん、空気清浄機が駆動音を大きくする。窓を閉めていたかが気になった。帰ってから窓には触っていないから、大丈夫だと思い直す。


 この毛むくじゃらをどうにかせねば、彼女の口には入れられない。けれど前もって準備したものなんてのは論外だ。新鮮でなくては。

 こうして、浴室のドアの前、狭い廊下に挟まれながらベトベトになっていると、ふと、我に返る時がある。

 ―――――兄貴があの女に喰われなきゃあ、どうなってたんだろうなぁ。

 おれは巽と出会わない。きっとおれは、とっくに死んでいるだろう。五十か六十かの短い生のうちで、女房や子供でもこさえて、病で苦しい思いでもしながら、糞尿垂れ流し死んでいたのだろう。

 それに比べ、おれには巽がいる。あんなに綺麗で、世に二つといない人魚。おれがいなけりゃ生きていけない美しい宝。

 巽に餌をあげる時、おれは救われる。百余年、巽と共にする道々は、錦のようにまばゆく尊い。

 こんな小さな獣ひとつしか用意できなくて、巽を満足に食わせてもやれないけれど。もう何十年も、あいつを腹いっぱいにはさせてやれていないけれど。

 けれど巽は、おれの手で命を繋いでいる。

 そう思うと、ああ、無駄じゃなかった。この時のために生きている。……そう思う。

 巽はぬらぬらと赤い獣を掴み、その背骨に沿って啜るのが癖だ。いつまでもいつまでも、食事の時には、手も、顔も、胸から腹まで垂らして汚してしまうのが、子供の様で可愛らしい。

「……あんまり見るなよ」

「ふふふ……巽、巽、巽……」

「なんだ」

「いい名前だ、と思って」

「おまえがつけたんだろう、柳」

 ああ、そうだった。

 そうだったな。なあ、巽。


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