第六夜 今日も雨

 そこには水が、静かに満ち満ちている。ねっとりと濃い霧が、おれのまわりにへばり付いていた。


「一人でかえっていくなよ。そんなのはずるいだろ、雲児」

 いつのまにか、隣には奴がいた。

 おれの背よりも、頭二つ半は小さい。真っ黒い瞳が浮かぶ三白眼が、不機嫌そうにおれを見上げている。

「ズルいのはいっつもカッちゃんの方やないの」

「そんなこたあない。子供はよ、贔屓されるんだから得だよな。おれはずっとお前の御守だよ」

「そうかあ? 子供にゃ子供の苦労があるんやで。三十年もやってりゃあウンザリやがな」

「ま、年をとらないってのはいいな。おまえがでっかくならないのは良いことだ」

 雲児は大きい目を丸くした。「なんで? 御守はいやなんやろ」

「変わったら変わったで、いろいろ面倒が起きるだろ。早く戻ろう。おやじがお前の飯を待ってるさ。年だからよ。おれの飯じゃあ寿命が縮んじまうだろ」

 びゅうびゅうと風が吹いている。「でも……」雲児は唇を尖らせて、もごもごと言い訳しながらうつむいてしまった。おれは肘をちょっと持ち上げたところにある頭を、ぐりぐり小突く。


「おれはもう、ただの人間にはなれねえさ。そんなのは今更なんだ。人間だった時のことなんて、ひとつも覚えてないんだから」

「カッちゃん……ぼく、ぼくはね、言うたことなかったけンど、ちょっとだけ覚えちょるんよ」

 クウは、胸の前の面たちを抱きしめた。

「カッちゃんはいつも、ぼくだけは恨まへんねやあ。ぼくは子供やから、もう我慢でけへんよ」

 ひたりと、クウの裸足の足音がする。声が遠くなる。ひたひたと、迷うように足踏みをして気配が去っていく。

「クウ! 」

「大丈夫! 安心したってェ! ぼくは、カッちゃんとは離れへんねや。約束やア。しやろ! 」

 耳鳴りのような、遠雷が鳴りだした。大粒の雨が降り出す。

 黒い空から降る、冷たい雨だった。夜闇の豪雨の下、白い姿は霞みの向こうで千切れ飛んだように闇に溶ける。

 雲児はおれを置いて、その場を去った。



 ふと息苦しさを感じ、眼を開けた。

 今の今まで目を瞑っていたというのに、おれの眼は乾いて涙が止まらなかった。

 芳香剤のにおいがする。よく知った車の狭い後部座席シートで、おれは猫のように体を丸めて横たわっていた。

 どうやらトンネルを走っているらしく、青灰のシートが汚いオレンジ色に染まっている。なんとか体を起こすと、ミラーに映った運転手の顔が、ひどく濃い黒で陰影がされていた。生温い橙色が、その者からもとの色を拭ってしまっている。

 ぅぅううん、ぅぅぅううん、と、エンジンが唸っていた。

 おれは唐突に、ひどく気分が悪くなってしまった。

 仕方なく狭いシートに元のように横たわって、どうにか体を収納する。

 眼を閉じる。

 赤。

 そう、赤い光が蘇らせる記憶。



 はて、いつのことだったか。二人で馴染みの川沿いを、夕日を横目に歩いていた。買い物帰りだったと思う。

 おれは「血のような夕焼けだ」と思った。

 なにせ、空は茜色と云うより滴るように赤黒く、電柱の上では鴉が不吉に泣き喚き、家々も黒い影に塗られている。雲一つない空の中で、ぽっかりと赤い玉が、こちらをじっと見ながら沈んで逝くのだ。実に不吉な光景であった。

 クウは、そんなおれの気も知らず、「きれいな夕日やねェ。お日様がホオズキみたい」とのたまった。

 けれども確かに、そう言われればそう見えないこともないと思ったし、そう言ったあいつのことを、口にするのも憚ることだが……その、自分にとっての唯一無二の存在だと身に染みて、その想いを改めて胸に抱いたのである。

 忘れるころに幼いころに嫌いだったものを、嫌いだったことも忘れてしまうことは、ままあることだと思う。少なくともおれはそうだったし、クウも恐らくそうだったのだ。

 ではあいつは、思い出してしまったんだろうか。おれは覚えちゃいないのに。

 狭いシートは、でかいおれには息苦しくてたまらなかった。

 よくもクウは、こんなところで毎回いびきをかいていたもんだよ。


 ◐


 嫌いだったものを好きになるというのは、とても困難で、貴重な体験だと思う。

 だって、嫌いだったのだから。それを好きになるということは、一度近寄り、手で触れて、実感していないとその良さなんて分からない。けして近寄りたくなかったものに近づかないと、その体験は成し得ない。ほら、とても貴重なことではないか。


 これを思い出すのは、これからまだ少しあとのことになるのだが、おれにとっては、水がそれだったらしい。

 小さなころ、海で溺れたことがある。母が目を離したほんの一瞬、足が滑って、浮き輪の真ん中から潮の中に沈んだのだった。

 母は確か、妹の世話をしていていたのだったか。

 水音で、ほんの少し気付くのが遅れた。それでも、ほんの一分もなかったことだった。

 おれは、あっ、と思った時には水に顔が浸かっていた。手足は水を掻くばかり、上も下も分からなくて、とっさにつむった目を開けることも出来なかった。真暗な中でもがくうちに、あっというまに水が口に入り、鼻に入り、空気で満たされているところが侵食されていく。鼻の管の奥が、つんと痛んだ。

 声高に母を呼んだけれども、それは頭の中のことだったので、当然聞こえるはずもない。手足のつかない現状に、ぼうと漠然と、底が抜けたのかと思っていた。そして抜けた底は、地獄にでも落ちて行ったのかと。


 死ぬのだと思った。


 そう思った瞬間に、母の腕が力強くおれを引き上げたのだけれど、それっきりおれは、膝より深い水に浸かることを恐れるようになった。

 おれにとっちゃあ、プールなぞは地獄だ。といっても、なんだかんだ授業には出ていたから、それほどでしかない地獄だったんだろう。

 なんとか母に強請ってゴーグルを買ってもらったのは、結局中学に上がってからだった。きみは知らんだろうが、おれの頃はゴーグルなんぞ、眼病持ちでなければ付けなかったものだ。そのころには、おれの水恐怖症も鳩尾までと改善していた。

 今でも金槌だが、でもまあ人間は水生生物ではないのだし、おれは地上ならばそこそこ動けるわけであるので、そう悲観してはいない。とっくに車も運転できる年にもなったし。

 え? ああ、そうだった、嫌いなものを好きになる話だったな。

 うん、まだ水は怖い。学生時代の散々な苦い思い出も相まって、憎々しい、とすら思うね。

 でもね、なんでかなぁ。

 風呂だけは、いつまでたっても好きなんだよね。まあ、おれが覚えていることといったらそれだけなんだけど。

 え? なんだよクウ……そうだな、これ、どれくらい前の話かな。おれが四つの話だから……おまえ、いくつになったっけ? え、おれよりだいたい六つ違う? それは知ってるよ。

 問題は、おれが本当はいくつになったっけ、って話だよ。

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