第五夜 修羅場に楯 前編
照朱朗さんを一言で言うなれば、“麗人”である。
紅のまなじり、白いかんばせ、朱墨のごとき赤毛に、色っぽく濡れて目尻の吊り上がった黒目勝ちの切れ長の目。朱色の赤毛を玉のかんざしで結い上げて、四季折々の風流風雅な着物を着こなし、どこからともなくちゃんちゃんと三味線のバックミュージックを幻聴する。
おれ達の養い親と古い朋で、おれとクウも、人間社会で生きる上でなんやかんやとお世話になっている御人であった。きょうびの装いは、市女笠を携えたたっつけ袴の旅装束である。真っ赤な髪にあわせ、金糸の風に乗って色づく紅葉に黒いアケビが柄の余白を引き締めている意匠は、とても似合っていて、そこだけが舞台上だ。
「学校の方は、順調ですか」
「うん。まあまあってところかね。今度おいで」
照朱朗さんはここ十数年ほど、山奥のちょっと特殊な組織を仕切っている立場になっていた。その組織というのが、魑魅魍魎どもだけが所属できるという学舎である。
その学舎に、うちの親爺を訪ねてくるたび「今度おいで」と言われ続けているが、まだ足を踏み入れたことはない。
学校では『雪ちゃん』の名で通っているらしい。『雪女』の略だ。安直である。
「あんたのツラは久しぶりに見たねェ。陽の下で見るには、ちょいと青白すぎやしないかい? 」
「面つけてちゃあ陽に焼けませんよって」
「そりゃあそうだった。それで、あんたその成りはどうしたってンだ? 」
「やっぱり、それを聞きますか」
おれは短い間に、ほとほと疲弊していた。おれにはちっとも分からないことばかりだ。
我ながら力の無い声だ。吐いた息にも生気がない。吐き気がする。
「情けない声を出すんじゃあないよ空船。酷い顔色だこと……」
「……あまり、思い出したくもありませんがね。面とクウが、どっかに行っちまったんです。夜、宿の駐車場にいたかと思えば、気が付きゃここにいまして……」」
枝の代わりに腕をつけた木。木肌に浮かぶ女の鱗のように割れた顔。生臭い吐息………。
「そう……木の女、ね」
照朱朗さんは難しい顔で、しばし黙り込んだ。「やっぱり……」
「やっぱり? やっぱりと言いましたか。何か知ってらっしゃるんですか」
「それはそれとして。あんた、今にもおっちんじゃいそうな顔色してるじゃあないかい」
照朱朗さんは言って、ふうと独りよがりなため息を空に吐くと、じっと見定めるようにおれを見た。
「……そうだね。今のおまえには話した方が体に良さそうだ。空船、あんたの宿ってのはどこだい」
◐
おれは照朱朗さんと連れ立って、紅葉林の山道を降りた。昨日見たのと同じ案内の看板があったので、それに沿って、ようようの道のりだった。
けして険しいものではなかったのだ。普段のおれなら、難なく進む道のりだったろう。
しかしおれの膝はやたらと力が抜けて折れ、そのたびに旅芸人のような装いの照朱朗さんに支えてもらう羽目になっていた。
「す、すいません……また………」
「あんた、本当にどうしたんだい。そんなに柔なわけじゃあなかったろう? それじゃあまるで、よぼよぼの爺みたいじゃあないか」
「本当に。情けなくて自分に泣けてきますよ」
「………」
おれのちょっとした冗談に、この人は逆に厳しい強張った顔をして足を止めてしまった。
「雲児とあんたは、離れちゃあいけなかったんだね。こんなことになるなんて……」
「ど、どうしたんですか。あなたらしくもない」
「いいやぁ。改めて思っただけサ。あんたたちは一心同体なんだ、ってね」
けっして特別親しいわけではない。けれど、この人がこんな顔を見せことは無いに等しいに違いなかった。
「何をご存じなのですか」と聞きたかったし、聞くべきだ、おれにはその義務があるとも思ったのだが、残念ながら、おれには詰問するような気力すら無かった。
宿に戻ると、自動ドアの先に、洗濯物をいっぱい乗せたカートを押した怪訝な顔の仲居とまず目があった。
何せこっち水死体に戻ったかのような有様で、ぐでんと溶けて和装の麗人に縋り付いて引きずられているのである。
おれのあまりの醜態に、我に返ってきゃあっと小さく悲鳴をあげた仲居の声で、ぱたぱたと女将が顔を出す。
さすがの経営責任者、すかさず不遜な部下を叱咤して、照朱朗さんの腕から崩れ落ちたおれの身体の下に滑り込んだ。
二人の和装の女人(と、見紛う麗人が片方)にエッチラ運ばれて、おれは二階の自室に帰り着く。仲居の敷いた布団の上に大の字になってみれば、とたんに体が重くなり、意識すら遠のきそうになる。この場の誰でもない、体重六十キロを半分支えていたろう四十超えの女将よりも、おれの息は上がっていた。
「大丈夫かい」
子供にするように、さらりと照朱朗さんの冷たい手が額を撫ぜる。これはあの、死体の冷たさなんかじゃあない。氷の、氷柱の化身たる冷たさだ。同じ水気の含んだ感触だというのにこの違いは何か。おれは酷くほっとしてしまった。
「救急車をお呼びします」
女将が言った。おれは慌てて首を振る。「それは困る」
なにせおれは、普通の人間とはちょっと違うのだ。口にするのも憚ることだが、なんせ土左衛門なのである。科学に準じた医学に、今のおれの身体が好転できるとは思えない。無駄に時間を食うだけだ。
「しかし―――――」
「すまないね。おかみさん」
照朱朗さんはすかさず遮った。女将の渋い顔を斜め見ながら、照朱朗さんはなんでもないように言う。
「こいつがここでおっ死ぬってことは無いからさ。救急車を呼ぶ代わりに、ちょっと世間話に付き合っとくれよ」
「死―――――」女将ははっと言葉を飲み込んで、すぐに気を取り直した。「お答えできることでしたら、誠意をもってお応えいたします」
居住まいを正す女将の隣、照朱朗さんは何でもないように言った。
「女将はここは長いのかい? 」
女将は怪訝な顔をした。
「……こちらへ嫁いできて二十年ほどになりますか」
「へえ。ご主人は」
「十年前に亡くなりました」
「この旅館は十五年前に建ったんだったかね」
「ええ……以前から宿はあったのですが、経営者が御年を召してらしたので、買い取って改築をしたのが今の建物になります」
「それじゃあ、あそこの駐車場が中庭だったっていうのは知っとるね」
「もちろん……」
「女将……」
話の風向きに不穏なものを嗅ぎ取ったらしい仲居が、不安げに女将を上目使いで見つめた。
「いやいや、あたしゃ別に、不動産の回し者だとかそういうことたァないんだよ。ただね、そこに植わっていた桜の木について聞きたくてね」
女将の表情は、面白いくらいに転落した。
ぽかん、と間抜けな顔だというのに、血の気はぞっと青白く変化する。向かいの仲居の方は、「そんなつまらない質問どうしてするの」というような、まるで不思議そうな顔をしているものだから余計に可笑しかった。
女将の表情から想像するに――――考えに及ばぬ方向からやってきた質問だったようだった。それも、かなりの動揺を及ぼす――――動揺の源が恐怖だというのは、もはや疑いようもない――――思い当たりのある質問。
「………桜、ですか」
「そう。その桜の木が植わっていたところが知りたい。骨が埋まっとったろう? 根っこのあたりに、男の骨がいっぱいと、女の骨が一人ぶんあったはずだね。そうだろう」
女将は口紅が剥げるにも構わず、もぞもぞとしきりに口を合わせて黙り込んだ。潤んだ目は見開かれ、瞳はせわしなく動いている。喉がしきりに鳴った。
「あれは……その、あの骨は………」
「言いふらしやしないよ。事件にはなっていないはずだしね。ナンせ、百年は前の骨のはずだから。あたしはね、その、女の骨の縁者でねぇ」
照朱朗さんはおもむろに立ち上がり、おれの布団を跨いで茶の間に入り、自分でお茶を淹れだした。ポットから湯を注ぐ音が、空寒く室内に響く。
女将はおれのほうを向いているので、茶の間とは背を向けることになる。おれを挟んで女将と仲居は向かい合っていたが、心配げに女将を眺める仲居と違い、女将は俯いてこわごわと背中を丸めている。片手がしきりに、自分の手首をさすっていた。
「女の骨を見たかい? 」
「そ、その………」
「知らないんならいいんだよ」
「い、いえ……見ました。あの、でも、あれは………」
ずずずっと、照朱朗さんは茶を啜った。二口、三口、口にする間にも、女将は口をもごもごさせたままだった。
「………おや、ごめんねェ。気が利かなくて。なんせ喉が渇いちゃって。皆にも一杯淹れましょうか」
「い、いえ、お客様、わたしが……」我に返り、立ち上がりかけた仲居を片手でやんわり制し、照朱朗さんは手ずから湯呑を三つ用意した。
「あの方はどんな様子だった」
「……アッ、アノかたぁ? 」
「女の骨。どんなふうにお眠りだったんだい」
静かな声で尋ねて、雪女の唇がまた湯呑のふちに口づける。これが離れるまでが、この女に与えられた猶予であった。
女将がひりひりとする沈黙に息を飲み、唾を飲みこんで、か細く息を吐き、耐えるように手首を強く握りしめるまでを、おれには間近で見ることができた。
「……ま、丸まって……お腹の中の赤ちゃんみたいに、丸まって、長い、髪が、根に絡まるようにして、男の骨が、その……彼女に………」
女は化粧が溶けだすほどの脂汗を浮かべ、歯軋りして唸る。片手は自然と、今にもえづくのを耐えようとして口元を覆った。
「なるほど。ミズキさまはお健やかにお眠りだったようだ。それは何より。……して、そのあとは? 」
「………」
女将はいやいやをする子供のように、口をつぐんで首を何度も横に振る。それなりに年を重ねた女性がそのような仕草をするのに痛々しさを感じた。
「ミズキさまはご壮健ではないようだねぇ」
話を聞くに、“ミズキさま”はすでにご逝去なされた貴人なのだろう。だというのに、照朱朗さんはまるで生きた人のことを謂うように呟く。
なぜ?
それは、あの木はまだ生きているからなのだろう。
あの木の女は、“ミズキさま”なのだ。
「……骨は、埋めました」
女将は言った。白い指が、マニキュアの塗られた女の指先が、窓を指す。
「骨は、そのまま全部……あそこに」
◐
語り部になるものによって、その見解は違うのだろうが、おおむね雪女とは、雪の化身であるとされる。照朱郎さんの母は、雪深い野山の積雪の化身の一族であった。精霊と呼んでもいいかもしれない。
その雪女の一族を、『白姫』という。『白姫』とは、そのまんま冬の女神の名前である。
彼女たちは、山に雪が積もると姿を現し、春が来ると消えて、次の冬に生まれ変わる。彼女たちは冬の間にしか、命を持っていないのだ。
彼女らには個人の名前が無かったが、照朱郎さんの母は白姫の一族の中でも虚弱な娘であったので、雪の中に残った『晩翠』と呼ばれ、軽んじられていたそうだ。
怪談『ゆきおんな』にあるとおり、山に分け入った人間と交わる雪女の話は珍しいものではない。照朱朗さんは、そうして人間との間に生まれた方である。
さて、話は変わるが、人間の学問に、陰陽というものがある。
森羅万象すべてを、『陽』と『陰』に分けるという中国が起源の思想なのだけれど、それによると、季節や人間も、陰陽ふたつに分けられるのだという。
ざっくりいうと、夜と冬と水と女は陰、昼と夏と火と男は陽にあたる。春は陰が陽に転じる季節で、秋は陽が陰に転じる季節だ。
照朱郎さんは、ヒトに比べれば暑さに弱いが、雪女伝説通りに溶けることはない。現代の暑気アイテムを駆使して、真夏のコンクリートジャングルにだって愛車で単身、繰り出して見せる。
けれど、それも今だからのこと。齢三百のうち、その半分ほどは、下界の暑気に斃れてばかりいる子供だったのだという。
『陽』に生まれた照朱郎さんは、白姫に迎え入れられることが出来なかった。
赤い髪の子は、通りすがりの人買いの荷車に乗せられた。その車の辿り着いた先で、この人を拾った人物こそ、“瑞子さま”という貴人であり、“瑞己さま”の御尊母である。
瑞子さまは齢千五百の大妖、人魚の中でも川辺に住む人魚の長であった。
不老不死の妙薬たる人魚。そんな瑞子さまは、たくさんの娘を産んで、見送ってきた過去を持つ。
娘たる瑞己さまも、照朱朗さんが名を知った時にはすでに生を遂げ故人となっている。
瑞子さまとは、なんせ人魚の長。娘の数など途方もない。
人魚という種は白姫と同じように、男がいない。だから陸にいる男を誑かし、水に引き込んでは貰うものだけ貰って、餌にするのだそうだ。おれとしては、餌になった先人に同情するばかりである。
そういう生き物なものだから、地元では縁結びと安産祈願の御神体として祀られているそうだが、まぁそれはあんまりこの話に関わることじゃあない。
重要なのは、人魚と“男”と“子供”は切っても切れぬ呪縛のようなもので繋がるキーワードだということ。
人魚は、自分の子供への情が深いが、その父親に対しての扱いは、人間の家畜に対するものよりひどい。子の父だろうと関係は無い。彼女らにとって男とは、子を宿す手段に必要な道具と同じなのだ。
冬になれば生まれ変わる白姫と違い、人魚は繁殖と言うプロセスを踏まなければ絶えてしまう。
大いなる矛盾の中に、人魚は囚われている。
多くの人魚が、あのように火傷するほど熱い人間を嫌い、特に男という未知の形をした生き物を嫌い、そして多くの悲劇を招いた。瑞己さまは、そんな悲劇の犠牲となったお方の一人であった。
瑞己さまは子を孕んだが、男の縁者に討たれたのだという。
人魚の肉は不老の妙薬と伝聞されるだけあって、死した後も意思は強く、根深い情を孕む。瑞己さまの恨みは根を張り、死肉は餌を求めて、縁なき人々を襲った。
瑞子さまは大変に御心を痛め、娘を手厚く葬ると、墓の上に桜の木を植えた。
瑞子さまのおわす沼には、今では坂口安吾の小説のように、鬱蒼と桜が植わっている。それらすべて、瑞子さまが娘たちに捧げたものだ。
「……あの桜の木は、狂い咲きでした」
さて、女将は語る。
◐
その木は、年に二回、花をつけたのだそうだ。春の他のどんな木よりもずいぶん早く、梅より先に紅の花をつける。そして秋終わりにもう一度、今度は白い花を咲かせるのだ。
水辺が――――そう、沼の淵にその桜の木はあったのだ――――――近いというのに、枝葉は広く、幹は太く、それは立派なものだった。
しかし人は瑞己人魚の名を忘れ、この桜をこう呼んだ。
『河童桜』
桜の沼には近づいちゃあいけない。河童桜に引きずりこまれてしまうからね。あの沼に浮かんだものを啜って、あの桜はあんなにもうつくしく二度咲くのだから………。
ここに温泉が湧くことが分かった三十年ほど前、狂い咲きの桜に目を付けた民宿を営む夫婦が、噂を承知で宿を移した。
小さなお社が桜の前にちょこんと誂えられ、そのためか、何事も無く宿は細々とそこそこ繁盛した。
誰もが『河童桜』の名を忘れかけた頃、高齢となった経営者は連れ合いの病気を理由に宿を去った。
そして、今に至るのだ。
女将が見て、怯えたものを、おれはまざまざと目蓋の裏に浮かべることが出来る。
なぜ、という疑問はない。分かり切っている。クウが見ているものだからだ。
桜の脚の下で青白い骨の檻に護られ、胎児のように丸く小さくなる女。
昔、水槽の中で腹を出して浮かんでいた金魚を見たことがある。腰の下からの鱗は、きっとあれと似た、膿が詰まったように白濁した色の鱗だ。
髪は樹木に絡め取られて女を拘束しながらも、その細い腰を支えるようにして巻きついている。
いや、桜は本当に護っているのだろうか? 不死の肉を食むために、その死肉に望む餌を与えているだけなのかもしれない。
瑞己人魚はまどろむように眠っている。けれど、もはやかつてのおもかげは無い。
うつくしかった碧の眼はとっくに溶けた。艶やかだった唇は縮み上がり、醜くも歯を剥きだしにしているため、憤怒しているようにすら見える。絹の様だった肌はどんな老婆より皺くちゃだ。だというのに、肢体は水気を含んで奇妙に白い。腹だけは風船のようにぱんぱんに膨れている。中に入っているものは何だろうか。ただのガスか、生まれ落ちなかった小さな命なのか。どちらにしろ、女にとってはもはや自らの胎の中身なんぞは不要なものだろう。
その証拠に、その手が大切そうに胸に抱いて慈しんでいるのは、まったく別の― ―――――え?
――――――なんだって、瑞己さまは、そいつを。
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