第死夜 リビングデ××ユース
夢を見ていた。
あの時の夢だ。
目玉は真っ先に溶けた。いつのことだったかは、もう忘れてしまったけれど。だから、目の前はとっくに真っ暗だ。
水はぬるく、臭かった。いろんなものが礫になって、ぼくの体のあちこちにぶつかる。最初はあんなにこの水は冷たかったのに、と思う。
ぼくの皮膚にはたくさんの痣ができていたが、骨はまだ白々として皮の中に存在している。
まな板の上で叩かれる肉の気分で、いっそ柔らかくなってしまえば、どろどろに、粉々に、骨も、筋肉も、脂肪も、ぜんぶ分からないくらいに溶けてしまえば、ずぅっと楽になるだろうと考えていた。
水は色々なものをその身に混ぜて、いっしょくたに流れていく。ぼくも早く、いっしょくたに混ざってしまえと思った。
この苦痛が終われば、それでいいのだ。
濁った闇の中で、右の眉間に大きなものがぶつかって、それからは本当に真っ暗になった。
懐かしい音で目が覚めた。
轟々と、水が流れる音だ。こういう音の事を、何というんだったか。
早朝六時十二分。のったり身を起こして、側らの携帯電話で確認した。携帯の液晶が目にまぶしい。
陽はとっくに上がっているはずなのに、窓の外は濃灰色をしている。遠景の山々はまだしも、眼下の景色はまた一面の駐車場なものだから、味気なさはひとしおだった。
味気ないのに『ひとしお』とは、これいかに。いや、我ながらつまらないことを言った。
襖に張り付くようにして、でっかい芋虫が転がっている。カッちゃんだ。
「起きやアで、カッちゃん」
土踏まずで、腹のあたりを小突くと色男の顔が顰められて、「うぐぐ…」と、いやに苦しげなうめき声がカッちゃんの口から出た。
「カッちゃん? 」
カッちゃんは夜行性生物なので、えげつないほどの美白を保っているし、どっちかっていうと優男だ。それでもなんだか、顔色が悪いような気がした。なにやら魘されている上に、暑がりのくせに布団蟲になっているなんて珍しい。こりゃ様子がおかしいぞ、ということで、とりあえず起こすことにする。
「おきろー! 」
クウ渾身のジャンプアタックが、カッちゃんの右わき腹にクリティカルヒット。「ふげっ」飛び跳ねた布団虫は、さながら陸の上に打ち上げられた魚のようだ。一回大きく痙攣したカッちゃんは、それきり静かになった。
「カッちゃん? 起きた? 」
沈黙が返ってくる。
どんぴっしゃーん!
「し、死んでるっ…! 」背景にはカミナリツヤベタコンボフラッシュ!
「誰がだ」
むくりと、緩慢にカッちゃんは体を起こした。ゆっくりとぼくを振り返るその顔には……ヒヨェエ、暴れん坊とお噂の男面じゃあないですか。
「手前、おれを殺す気だったのか」
「すンばらしいモーニングコールやったやなぁい。ネ、そう思うでしょ? 」
「ふざけるな」
「怒らんといて。かあいらシィ弟の、かわいらしぃコミュニュケーションやないですか」
「ふざけているだろう貴様ぁっ! 」
「怒らんといてって! 」
男面はぬらりと立ち上がり、右の拳を握る。そこにはいつしか、白刃きらめく得物が。私は転がるようにカッちゃんから距離を取り、毛を逆立てた。
男面は恐ろしい。いや、面達は総じて螺子が一本二本抜け落ちているのだけれど、こいつは大切な螺子が一本どころじゃなく落っことしている。それは主に、理性だとか、自制だとか、忍耐、道徳、根気、そういうところの螺子だ。
「カッちゃんあのな、こんなところで、そんなもん振り回すもんやない」
「おれが知るかぁ! 」
ずずいと近づいてきたカッちゃんの腕が、私の浴衣の襟首をつかみあげた。
「いやあん。そんなご無体な」
「なんやとぉ……」
「ご、ごめん、謝るってェ。ちょっとした冗談やんかぁ」
「冗談だと! 冗談で人を殺めるというんか貴様! 」
「カッちゃん忘れてる! ぼくら、とっくに死んどります! 」
きらきら光る綺麗な板切れが、私の首筋にぴったりつけられた。
「それでも痛いだろうが! 」
「知ってる! ごめん! やめて! それで首の皮を叩くのをやめて! 」
「殺すぞ! 」
「た、たすけて、ドザえもーん! 」
えいやっ! と、右手を伸ばして男面を弾き飛ばした。怒り顔のまま男面は宙を舞い、畳にぽとんと落っこちて、カッちゃんの腕から力が抜ける。
「……剣呑だのう」
「翁! 」
ぼくは諸手を上げて、両腕でしっかりと翁を歓迎した。
「おうおう、よーしよし。怖かったかぁ」
「怖かった! 」
わっしわっしと、カッちゃんの手が私の頭を撫ぜる。
「よーしよし、翁が好きかぁ」
「好き! 」
「そうか、そうか」
男面はよく激昂するけれど、ふだんの顔は眉が下がり、唇が少しだけ捲れて黄色い歯が見えている様子が、なんだか憂鬱そうにボンヤリした顔に見える。興奮する時だけ目をひん剥いて、歯茎を見せて、口の端を釣り上げる。反転して、翁は一番温和のうえ話が分かる人柄で、よく笑う面だった。
翁面は垂れ下がった細い目と、いつぞかの総理大臣そっくりに長く垂れ下がった眉をしている。皺を彫られた木目の肌は、もちろん木の質感なのだけれど、白粉の女面や象牙色の男面よりも、その素朴な木目が段違いに暖かい表情に見えた。
頭を撫でてくれるのは翁だけと言ってもよかったし、だから私は、翁面をかけているときのカッちゃんがいっとうに好きだ。
「なあ、カッちゃん」
「どうした」
「昨日、ぼくはうまくできた? 」
「………」
「……なんもないよぅ」
ふふふ、と翁は笑んだ。
「なーんもないよぅ」
「ほうか」
「うむ」
「………」
今度は私が黙り込む番だった。これが男面か女面か…とにかく翁以外だったなら、意地悪ぅく私を言葉で刺したのだろう。
……どうして私だけ、こんなふうなのだろう。
「今日はええ天気やのうぅ」
雨に煙る外を見て、カッちゃんは言った。
「おまえさん、好きじゃろう? 」
「……うん。雨、好きや」
「じきに朝餉じゃの。食うたら、ちょいとそこらを散策するか」
私は頷いた。手を引かれる。
踏み出した足が、じっとりとした泥を踏んだ。
これは夢。これも夢。
……ぜんぶ夢だ。
濃い霧が、森の中を揺蕩っている。ちいさい雨粒が降りそそぎ、私を湿らせる。
くるぶしが冷たい。足元は水に浸かっていた。はだしの脚に、ざらついた木肌を感じる。
白いものが、ひらり、ひらり。上を見上げると、白い薄いものが雨に紛れている。濡れた足首に張り付いたそれは、薄絹のような花びらだった。
私は思う。……ああ、成功しちまったかァ……なんて、自分が望んだことのくせして。
私は、浴衣のような、白い薄い着物一枚を纏っている。肌寒さは感じず、むしろ妙な昂揚感があって、暑いくらいだった。
足首までを濡らす水は、ずっと続いている。霧が、この水面から立ち上る湯気にも見えた。
釜湯地獄にしては呑気だし、極楽にしては陰気である。足をひたひた打つ水を感じながらも、私はそこを動く気にはなれない。なぜだろうか。
きっと、あっちは深いからだと思う。私の短い足は水底にまで届かないだろうし、そうなりゃ私は沈むだろう。
なにせ、一度は水に溶けた身である。二度目は無い。きっと、こんどばかりは上がってこられない。
――――思って、爪先で水をすくってみたとたん、足先が指した目前の水面が、深い濁った緑色に沈んだ。深く暗い水底の色。
ぶくぶくぶく…と緑色から黄色い気泡が浮かんできた。泡は水面で弾けては小さな粒になって、私の足元を舐めにくる。やがて、ぬらぬらと、気泡の後から蘇芳の糸束が浮かんできた。
あかくてくろい―――――血だ。
碧い水の中から湧き出た血液は、腕を伸ばして水を変えていく。仄かな血液の芳香。血液はどす黒い。私は、じっとうつむいて、自分の足首が浸かる水面を見ていた。
ことり。
乾いた木を軽く打ち付けた音。どこか聞きなれた懐かしい音。
白いおもてが、いつにもまして不機嫌そうだ。
三枚の見慣れた面が、翁は真っ暗な眼孔を晒して、プッカリと浮かんでいた。わたしはなんだか奇妙な気持ちで拾い上げて……。
あれ。―――気付く。
わたしは何をしている。それに、顔のまわりを簾のように覆う自分の髪が真っ白なのだ。これは、夜の自分である。
しっかりと夜の雲児の姿を見たのは、三十年初めてのことだった。
あれ。―――――また気付く。
俯いていたはずの私は、顔を上げている。まっすぐに向こうを見ているのだ。霧のまとわりつくその人物を、私の眼はじいっと観察している。
その人物は、白金の髪をしている。顔は俯いていて、髪に隠れて見えやしない。あいつはきっと、尖った耳を持っているのだろう。
それは私だった。
あれ。
―――――では私は、誰だ。
足が重かった。そうそう、久しい感覚だ。私は人間なのである。人間の頃は、この足はこんなにも重かったか。
いやあ、それだけじゃない。手はちんまりとしていて、細くて柔い。指なんか、そこの木の小枝ほどだ。まん丸の爪はちんまくて、桜の花びらみたいな色をしている。胸に抱いたままの面は冷たい。
翁の笑顔は、目が入っていないというだけなのに、なんだか空寒いと感じた。
私は思い出した。
風がびゅううと鳴る。花が千切れて、あっというまに木を裸にしていく。そう、こういう音を、『竜神が啼く』と言うのだ。
懐かしい。あの日も、山のあっちこちで竜神が啼いていた。さて、あの日からどれだけ経ったのか。
私がカッちゃんを殺したあの日から、どれほどの時が……。
私は霧の向こうに叫ぶ。
―――――おーい、クウ。
あいつは、俯いたままぴくりとも顔を上げない。
―――――カッちゃん、ひとりぼっちで置いてったらあかんよぅ。
クウはちょっとだけ顔を傾けて、金色の目でこちらを睨んだようだった。
―――――ぼくらは一蓮托生なんやでぇ。忘れたらあかんよぅ。約束ねんからねぇ。
遠ざかる雲児に、私は飛び跳ねて言った。体を殴りつける風に流されないように、胸には面を抱え込む。
―――――こいつらは、ぼくが連れて行くからね。いいかぁ。忘れたぁ、あかんねんでぇ。
クウはちょっとだけ、頷いたようだった。
◐
ひどい夢だ。
どうしてこんな夢を、おれは見ているんだろう。
ごうごうと背後で水が鳴っている。空は真っ暗だ。おれの前には、黒い影が立ちはだかっている。
おれの眼に、男は熊ほどにも大きく見えた。
風が啼く。水が泳ぐ。おれは走った。崩れる。
壊れる。
どうして―――――!
崖下を見下ろし、体を貫く痛みに空を仰いだ。飛沫を上げる濁流に、吸い込まれるように呑まれた子供ひとり。波も立たなかった。
宙吊りの体。おれの腕をつかんで地上と繋ぎとめているのは、あの男だ。
「なんだ、泣いてやがんのか。強情ばりやなあ、クウ」
「あんたがそう呼ぶな! あいつンこと、好いてたん違うんか! 」
「好いてたサァ。美味そうでナア……あんな女、そういない。おんなじくらい、別ンのところで気色悪いとも思うとったがなぁ。おまえは恨まんのか? エ? あいつのせいでこうなったアいうんに……おまえ死ぬんやぞ。恨まんのか? 我が身を哀れまんのか? 」
どうしておれがあいつを恨めようか。あいつがああ言ってくれたのに、自分を哀れと言えようか。
こんなおれにもまだ流す涙があったのだ。おれは悲しみでも怒りでもなく、あいつのために泣いていた。あいつはおれが泣いたら喜ぶだろうと思う。そんなふうに流す涙は、傲慢だろうか。
「おまえは誰だ……」
「わしは、神さまさァ……」
ああ、ひどい夢だ。おれはこの先を知っている。
夢から覚めた。
「……クウ? 」
ふと、側らに相棒がいないことに気が付く。空は燦々と太陽と紅葉。青空が眩しい。秋晴れだ。
……あれ、おれは。
「翁? 」
返事がない。
「おい、おもかげ」
「男面……? 」
身体が重く、気持ちが悪い。腹の中で泥が渦巻くよう。ぺたぺたと自分の顔を触る。紛れも無い『おれ』の顔だった。
昼間なのに、肌身離せず貼り付いていた面が、いない。
「クウ、どこだ」
クウが、いない。
腹の奥が生臭いにおいがする。舌がべたついて仕方ない。三十年も前、しこたま腹に溜まっていた水底の泥のにおいがする。それは、昨日のあの“樹”のにおいでもある。どこかに倒れているのかもしれない。木陰の中に、あの長い黒髪を探した。
「クウッ」
―――――かしましいのぉ。
皺枯れた男の声がする。おれははっと、俯いていた顔を上げた。
「釣眼」
金泥の面が、ぎょろりと大きな目を剥いて俺を睨む。その眼力でおれを睨んだまま、歯を出して、にぃ、と禍々しく笑っていた。
こいつは竜神の面だ。おそらくは最も力がある面。男面も、こいつには恐れ多くて口も利かない。面の中で、特に俺の手にも余る存在だった。
『ほかの奴らはどこにいった』
「わからない」
『今はわしと河津がおるぞ。翁すらどこぞへ消えるとは……始めてのことだの。河津を呼ぶか』
河津は水死した男の面である。進んで相対したい輩ではない。男面の方がまだましだ。
「クウはどこに行ったか分かるか」
『あの童か。ぬしの方が詳しかろうに』
「分からないからお前に尋ねている」
『ぬしに分からんもの、わしは知らぬ』
『心当たりはあるのだろう? 』と、龍神は言った。あの樹――――そう、確かにあるのだ。あるのだけれど。
『ぬしは何時も迷ってばかりだの』
可笑しそうに俺を笑って、釣眼は消えた。
久々の陽光は眩しい。懐かしいとは思わない。青空は人間だった雲児の領分だった。とっくにおれには眩しいだけで、毒にしかならない。
しばらく、ぼうっと立っていた。いや、途方に暮れていた。陽の毒気に中てられたのかもしれない。ひどく頭が重いのだ。
「ちょっと、あんた。こんなところで何やってんだい」
その人がおれの肩を叩くまで、気が付かなかったくらいだ。
「あんたは……」
「やあ、久しいね。空船……って、あんた」
切れ長の目が、驚いたように瞬く。
「雲児はどうしたんだい。それにあんた、面は……」
おれは、その人の名前を呼んだ。
「
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