第33話 想いは燃ゆる。♯7
夜になって、実結さんは私にこう言った。
「やっぱり、一人は、怖いです」
私は実結さんを助手席に乗せて車を走らせた。日没の早い冬。映えるのは、時折見えるコンビニの明かりと、対向車のハイビーム。それは眩しく見えて、けれど少し寂しい。
相変わらずガタガタとうるさいおんぼろ車。だけど、嵐の前の静けさには、必要な騒音のようにも思えた。
実結さんは全てを話してくれた。今回の事件のこと。その推理。経緯。夏に解かれた謎。
予行演習がしたいんだ、と私は思った。間違いがないか。本当に犯人は、そうなのか。
そして否定出来なかった。麻衣が、犯人であることを。
物的な証拠があるわけではない。状況証拠もそれほどない。それでも、当事者だけにしか分からない要素を積み重ねて、とうとう否定が出来なくなってしまった。
私はこれまでの実結さんを思い出していた。
もしかして、実結さんは最初から、麻衣が犯人だと思っていたんじゃないだろうか。それを否定しうる材料としてアリバイがあり、被害者を知らないという事実があった。それが、覆された。
だからこそ、この冬の実結さんは、考えが鈍かったのではないだろうか。
つまりこれまで、私と実結さんが費やしてきた時間の意味はこうだったのだ。
――いかにして、犯人が河田麻衣である可能性を否定するか。
今にして思うと、そうだったのではないだろうか。
○
「あの夏、わたしは間違ったのではないでしょうか」
実結さんの目に溜まっているのは、きっと涙なのだろう。流さないよう、必死に堪え、力強く麻衣を見つめる実結さんは、長い袖の中で小さな拳を握っているように見えた。
「人は、そう簡単に人を嫌いにならない生き物だと信じています。だからこそ、わたしに思い当たるのは、それだけでした」
車内で聞いた限りでは、麻衣は今夏、交際している男性の浮気を疑った。携帯に届いたメールなどを元に、実結さんはそれを否定した。浮気をしているのではなく、離婚し、離ればなれになった子供に会いに行っているのだと。
つまりは、それを誤ったのでは。実結さんはそう考えていた。
麻衣は目を閉じ、黙った。
口を開かない。動かない。ただ立ち尽くしたまま、時折白息を吐いた。
「ねえ、憶えてる? 実結」
ようやく漏れ出す声。響く言葉。背筋に氷を当てられたように冷たいそれは、鼓膜を揺らす度にぎゅっと心を締め付ける。
「あの時のアイスね、溶けてなかったんだよ。溶けきる前に、実結にあげちゃったの。とけきってなかったんだよ、あの時の、アイスは」
実結さんが息を呑んだ。それが分かった。胸が痛い。私の胸が、この上なく痛い。
「あいつね、結局、浮気してたの。誰とだと思う? 笑っちゃうよ」
実結さんはその答えを持っていた。けれど麻衣には、それを言わなかった。
「元奥さんだよ。初めて分かった時さ、もう、笑っちゃってさ。でも、声は出なかったよ。子供に会いに行ってるのは本当だった。でも会いに行く内によりを戻そうってなったってさ。で、なんだかんだで夏前にはもう浮気してた。どう思う、実結」
二人を繋ぐ架け橋をその想いと言葉によって断ち切っている。その過程を見せられているかのようだった。
「ワタシ、もうバカバカしくなってさ。あの時に分かっていられたらって思ったよ。それからの二ヶ月、恋人でいた時間、全部無駄だった。ねえ、実結。ワタシ、凄く嫌だったよ。全部。全部。全部!」
怒声が飛んだ。木々に、空気に、本堂に、墓地に。そして、彼女の心に。
「そのとき別れてられたら、こんな想い、しなくて済んだのにね。ねえ、あのときワタシを引き留めたのって誰だっけ。分かるよね。ねえ実結。そう、あなたなんだよ、実結」
それは、河田麻衣の自白だった。
胸が痛い。実結さんの顔が見られない。苦痛に歪むその表情が、辛い。
「あんたはさ、最初から浮気を否定してたよね。最初から、希望的観測がどうとかでさ。だから見えなかったんだ。あいつがメール来る度にニヤついてたこととかさ、その辺、実結は考えに入れてなかったよね。入れると、あの不思議が解決しないこと分かってたんだよ。そのメールは、元奥さんからのメールだった。子供の写真だったよ。けど、頻繁に子供の写真送ってくるってことは、関係が修復されてたってことだよね。
先月だったかな。携帯見たの。それで全部分かっちゃった。ワタシといつ別れるか、なんてことまで話してたよ。最悪だよ。ねえ。何、なんでこんなに苦しい思いしなきゃならないの。全然とけてなかったよ。何もかも。おかげで、もうワタシ、おかしくなっちゃったよ。ねえ、実結……実結!」
私は何度も目を逸らしたくなった。
キイキイと鳴る狂気の声は、麻衣の感情の爆発だった。それに対峙する実結さんに、私の勇気が追いつかなかった。呟くように、私は実結さんの名を呼んだ。山門に背を預けながら、聞こえないことは分かっていて、呟いた。
けれど、実結さんは頷いた。私の声が聞こえたのか、それとも、何かを決心したのかは分からない。
月夜に潤む彼女の目から、雫が落ちた。
「だから、今回の事件を起こしたのですね。わたしを、許せなかったから。わたしに……復讐を、するために」
残響はない。空気と共に。白息と共に。それはとけて、消えていく。
「あの時は間違えたのに、なんで分かっちゃうのよ」
冷えた声に宿る静かな狂気が肌を突き刺す。麻衣は、穏やかさというナイフを急に纏って、それを構えているようだった。
「あの日、わたしは間違えてしまったのかもしれない。そう思ったからこそ、願望の一切を切り捨てて、わたしは今日を迎えました。希望的観測は、希望にはなっても真実にはならないと感じました。だからこそ、逃げないと誓ったのです。立ち向かわなければならない真実が例え望まないものであっても、決して逃げない、と。あなたの犯行ではないかと思った時、わたしはそう思いました。とても、とても、とっても苦しかった。けれど、逃げませんでした。この瞬間から、逃げませんでした」
私の頬を涙が伝った。あの優しい笑顔が、あの素敵な声が、見たくもない現実に侵されているような感覚だった。けれど、私はこの光景を目に焼き付けよう決めた。
麻衣は、恋人が浮気していることを夏に知ることが出来ていたなら、きっとその男と別れていただろう。覚悟していただけに、その傷は深手にはならなかったかもしれない。けれど、実結さんという希望が、そのやさしさによってそれを否定し、希望をつなぎ、しかしそれは、絶望を先送りしただけに過ぎなかった。
恋は惚れた方が負けだ。拗らせて、煮詰めて、黒くなって。惚れてしまうと、歯止めは利かないのだろう。麻衣もそうなってしまったのだ。
色恋と言う名のデリケートで厄介なそれが、全てを引き起こした。苦しいのは分かる。麻衣の気持ちも、分からないでもない。
でも。それでも。
「わたしにも責任はあります。ですが、麻衣ちゃんがしたことは、絶対にしてはいけないことなのです。わたし一人を傷つけるのではなく、周囲の方々を傷つけることを、わたしは、赦すわけにはいかないのです」
麻衣は唇をつり上げた。笑みではあったが、曇っていた。
「だって実結、それが一番嫌でしょ」
実結さんは他人の幸せを自分のことのように喜ぶ人だ。そして、他人の苦しみを、自分のことのように悲しむ人だ。それを麻衣は知っていた。だからこその犯行だった。なんて卑怯な、と私は思った。
「で、どうするの。ワタシを警察に突き出すの? まさか自首しろなんて言わないよね。だって、悪いのは、ワタシじゃないもの」
麻衣は麻衣の正しさで行動した。それは大いなる間違いだが、それでも、彼女の信念は間違った方向にまっすぐだ。
私は、実結さんの覚悟を知っている。苦しみ抜いて、戦い抜いて、葛藤を越えて、彼女はここで、全てを終わらせると言ったのだ。
それは、実結さんの友を、多くの友人を救うことでもあった。
「わたしは、報道の度に不安に思われた多くの方々のために、非情にならなければならないのです。悲しいです。苦しいです。それでも、この覚悟は、揺らぎはしないのです。揺らがせては、いけないのです」
そして、数分の後。
けたたましい赤色灯が、夜の町で瞬いた。
サイレンは嫌に静かで、気味が悪いほどだった。
大勢の男たちが境内に入り込む。砂利の音が喧しく鳴った。
麻衣は光一つない目と、口許の笑みで、実結さんを見下ろす。
「最低だね、あんた」
実結さんは、答えなかった。
涙を拭うこともせず、目の前で行われるそれを、ただ見つめ続けていた。
不適に笑む麻衣も。去って行く麻衣の背中も。
そして、静まりかえった境内で、実結さんは砂利に膝を落とした。
「分かっています。分かって、います」
声も、肩も、瞳も、全てを震わせながら。
実結さんは、この瞬間を、己に刻みつけるように言った。
私の心は、釘を打たれたように痛かった。
何が解決したのか、と問われれば、きっと何も解決はしていない。
遠柿市の住民に不安を募らせた放火魔が逮捕された。それだけだ。翌日には皆が忘れ、聖夜の宴に酔いしれるのだろう。
何も変わらないのだ。全貌を知らないこの街は。
終わってしまえば、そこに残るのは、森閑な寺と、咽び泣く実結さんと、ただ見ていることしか出来ない無力な私だけだった。
青春や恋はほろ苦いのが相場だと言うが、それはきっと間違いだ。これはほろ苦いのではないのだ。苦くて、痛くて、息が出来ない。
こんな幕引きだった。
こんな幕引きを想像出来たから、実結さんは遠回りをしたのだ。実結さんはこの結末から逃げなかったけれど、この結末から逃げようと必死だった。
何分経ったのかは分からなかった。夜は深まることを知らずに、ただその濃い藍色を空に浮かべて、月は雲に隠れて見えなくなっていた。
今は夜だ。明けを待つ他に、暗闇から抜ける方法はない。
崩れ落ちた実結さんの小さな躰。時折こぼれ落ちる、自責の言葉。
その度に締め付けられる私の胸は、大粒の涙を流すだけでは緩んでもくれない。
実結さんの痛みは、きっとこれの比ではないのだ。それを実感して、私は実結さんの背中に手を置いた。私に出来る精一杯だった。震えが伝わってくる。暖かさと冷たさが私の中にも入ってくる。
掛けられる言葉さえ持ち合わせていない私だけれど、この瞬間、実結さんが立ち上がるには支えが必要だと感じた。それが私である必要などないのだろう。けれど、この光景を黙ってみていることしか出来なかった私が、実結さんのために出来ることは、これくらいしか、なかったのだ。
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