第8話 いつでもあなたは。♯4
「考えすぎなければどうってことはありませんでしたね」
松岡先輩は本を開きながら、そんなことを言った。
もう外は夕暮れ。エアコンが入って涼しくなった部室内を、オレンジ色が淡く染めていく。
「この部室の本棚は作者名の五十音順で並べられています。入室して左側の棚には上から順に〈あ行〉から〈な行〉、右側は同じく上から〈は行〉から〈わ行〉。
倉橋くんは、間違えて〈あ行〉の棚に本を置いてしまったんですね。『きみへ綴る』は、
「つまり、このメモは」
「顧問の
うっかりさんでしたね、
先輩は犬を撫でる時のような柔らかい声だった。滑らかで、可愛らしくて、僕が大好きな、優しい声。
でも先輩、それは違うんですよ。
僕は間違えたんじゃないんです。あえて、〈あ行〉の棚に置いたんです。移されて、無意味にはなったけれど。
先輩が昨日まで読んでいた本。僕、よく憶えているんです。次に読もうと思っていたから。
『いまいちど』――作者は、
置けるわけがなかったんです。
もし、先輩の方が早く部室に来て、椅子に乗って〈は行〉の棚を見られたら、蓮野東次郎の『きみへ綴る』に、気付かれてしまうかもしれないと思ったから。
「あの、先輩」
僕は、動揺に動揺を重ねた先程までの時間を払拭するように、意を決し、声を張った。
「はい、なんでしょうか」
先輩の微笑みは何時なん時であっても美しい。夕陽のオレンジ色が小さく可愛らしい頬を薄く染めているようで、胸の高鳴りは一層強くなっていく。
僕が椅子から立ち上がると、先輩もすっと立って、スカートを直した。
おぼつかない足取りで、先輩の隣に立つ。
先輩と目があった。僕を見上げる先輩の可愛らしい目が、心をつかんで離さない。
その瞬間、僕は、心臓を目視しているかのような感覚に襲われた。一拍が手に取るように分かる。高鳴る鼓動に、全身がぴりぴりと震えだす。
「先輩……、僕……、その……」
夜通し考えた言葉が出てこない。頭が稼動することを諦めたかのように、思考がぴたりと止まった。
情けない。情けない。
僕は手を差し出した。やっと動かすことが出来た。
「これ、読んでください」
手には一冊の本。
『きみへ綴る』。
僕と先輩が出会うきっかけになった、大切な一冊。
図書室のラベルが貼られたこの本がなければ、僕は先輩と、こうして話すことも出来なかっただろう。僕の学生生活を一変させた一冊。
きっと先輩は、この意味を理解している。この本をオススメコーナーに置くまでに愛した、先輩ならば。
『きみへ綴る』は、主人公が多くの恋をしていく中で、学び、変わり、そして成長していくストーリーだ。
作中、主人公は、幾度も繰り返した出会いと別れを、一切飾ることなく、一つの小説にしている。
それこそが、この本のタイトルにもなっている、作中作『きみへ綴る』。
最終章にて、主人公はその小説を、一人の女性に手渡した。
想いを告げるラブレターを、『きみへ綴る』に挟んで。
僕には言葉で伝えるだけの勇気がなかった。だから、僕はその主人公の力を借りることにした。
『きみへ綴る』の主人公と同じ方法で、想いを告げることにしたのだ。
この本の内容を知っている先輩に、一瞬で伝わる、この方法で。
「はい。承知しました」
そう言う先輩は、驚く素振りも見せずに、本をじいっと見つめた。
「しっかりと、読ませていただきますね」
先輩の微笑は、とても真剣なもののように、僕には思えた。
僕の心臓は依然激しくなるばかり。
でもやはり、僕の心は、夕暮れに映える先輩の笑顔から目を逸らすことを、頑なに拒んでいた。
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