実結と恋と青春の謎

壱ノ瀬和実

第1話 幸福は、いつでも誰かの隣にて。♯1

 小学校卒業を機に引っ越して以来、六年ぶりの帰郷だった。相も変わらず退屈に溢れ、時間の流れすら緩慢な、惰気に塗れた町だ。


 正直、帰って来るのは本意ではなかった。


 それでも、見渡せばビルばかり、人波途切れず騒がしい、そんな都会に比べれば随分と過ごしやすいことは確かで、喧噪よりは身の丈に合っていた。


 かつて、つまり六年前、部屋そのものは違うが、私はこのアパートに住んでいた。その頃は全て畳だったのだが、近年の畳離れのせいかフローリングに替えられていた。小奇麗ではあるけれど、この一点だけ見れば改悪。日本人は床生活にこそ郷愁を感じるのだ。


 これも時代。十年ひと昔というくらいなのだから、六年は半昔? 変わって当たり前なのかもしれない。生きていくのに特別不便ではないのだから、文句は言うまい。


 そう思いつつも、食べ物がない現状はいただけないと言う他にないだろう。


 テレビやパソコン、冷蔵庫に電子レンジといった台所家電一式、寝具などの家具もあり生活は困らないが、冷蔵庫の中身が些か貧しく、衣食住の食を十分に賄えない。


 今この時、足が使えないのも問題か。


 田舎は田舎で良いところはたくさんあるが、公共の交通機関に乏しい点はどうしようもない。免許は持っているけれど、今は訳あって車が使えない。最寄りのスーパーでも歩けば三十分は掛かるだろうし、そもそもそこは昔から品揃えに難があって好きではなかった。


 バスで二十分ほどの駅裏にはショッピングモールがあるにはある。だが、バス代だけで片道七百円は掛かるので、新生活には勘弁願いたいところ。貧乏生活に無駄は許されない。


 ――と嘆いた所でどうにもならないので、玄関に置いておいた財布だけを手に取り、バス停へと向かうことになった。


 徒歩で行けるスーパーでも良いのだが、どうも目的にはそぐわないみたいだ。


 バス停までは歩いて三分。早めに歩いて二分。交通機関までの距離と時間に関しては、妥協を重ねて及第点を付けよう。


 バス停目前。昔から住人のいない不思議な洋館がある。豪奢とも違うが、景色に見合わない建物だ。小学生の頃はこの前を通るのがとても怖かった記憶がある。二階の窓を見上げるとカーテンが閉められていて、そこから誰かがこちらを見ているのではとよく思ったものだ。どうも見る限りでは、なおも住人は不在らしい。


 洋館の陰に隠れたその先、つまり洋館の隣には製菓店があって、その前のスペースに、バス停がある。このお店は確か、障害を持った人が働いている店だ。


「随分久しぶりに見る光景のはずなのに意外と覚えているもんだなぁ」などと呟きながら微笑んだ。


 バス停の時刻表を確認する。調べてから来るべきだろうと今更思いながら、どうやらバスは六分後には来るらしい。凡ミスを帳消しにする小さなミラクル。


 私はくしゃみをした。春とはいえどまだ肌寒く、長袖のシャツに一枚羽織っただけでは太刀打ちできないこの純粋な寒さが、実に田舎らしい。


 木製の古びたベンチに座ろうかとも思ったけれど、すぐに諦めた。屋根一つない場所で日々雨風にさらされているのだ。綺麗なままではいられない。服が汚れるのは嫌ということか。


 臀部を付けないようにしゃがんで、目の前を通る車を眺めていた。


 この数分間がゆったり流れていくことにも、私は、都会との違いを感じざるを得なかった。



   ○



 しばらくすると、大きな車体が目に入った。オレンジ色のラインが入ったバスだ。


 バスは製菓店の前のスペースに停まり、開かれた真ん中の乗り口からバスに乗った。整理券を取って車内を一度見回すと、乗客は四人ほど。


 最後列が良いのだけど、男子高校生が一人座っていた。携帯を触っているような様子だったが、一瞬だけ目があってしまった。


 さすがに気まずい。仕方なく乗り口に近い一人用の座席に座ることにする。わざわざ人がいる席の近くに座ろうとするのは、気色悪いな、と思われそうで、出来れば避けたかった。私はひどく小心者なのだ。


 ブザーのような音と共に扉が閉められ、バスは出発した。

 ああ懐かしい――そう思ってしまう景色が、車窓から次々視界に飛び込んで来る。


 家族経営のガソリンスタンド。鰻屋。お惣菜が美味しかった小さな商店は、聞いていた通りもう潰れていたけれど、どれも懐かしい景色ばかりだ。うどん屋さんもあった。そこには一度入ったこともある。母が通っていた美容院も変わらずある。


 退屈であるはずの風景が特別に見え、奇妙にも心は躍っていた。表情にももしかしたら出ていたかもしれない。誰かのイヤホンか何かから漏れ聞こえる音が若干耳障りではあるけれど、それを差し引いても、記憶と今は、美しいままだ。


 ここに帰って来た早朝には車中でぐっすりだったから、この景色は本当に久しぶりで、帰って来たんだなあ、と、気分は変に優しくなった気がする。


 同時に、この町で青春を過ごせなかったことを悔やんでいた。


 成熟された都会と呼ばれる街はそれはそれは魅力的であったが、どうにも波長が合わなかったのか、学生特有のノリというものが軒並み合わず、私の青春は灰色と評して妥当と思えた。


 可愛らしい制服に身を包んだ女の子と、見慣れた道を、二人肩を並べて歩く、なんて、そんな夢を見たことも一度二度ではない。


 そういえば――と、ふとバスに乗った時のことを思い出した。

 最後列に座っていた高校生の制服。それは随分とめずらしいものだった。

 今からぐるりと振り返るわけにはいかないけれど、黒に近い濃い紺色のブレザーで、襟が赤色で縁どられていたように見えたのだ。まるで漫画やアニメに出てくるような制服で、少しびっくりした。


 あんな制服が行き交う高校なんて、それこそ子供の頃憧れた漫画の世界だ。今でも、少し羨ましい。


 こうして青春を回想するのも、かつての憧れを思いだすのも、最後列の高校生のおかげだろうか。


 春休みの真っただ中の筈なのに制服で登校している彼に感謝。


 新生活に必要のない学生気分は旧居に置いてきた私だが、地元で憧れを思い出せたのは僥倖だった。



   ○



 途中の停留所でバスは一度停まり、新たに一人乗客を迎えた。おばあさんだと思う。乗り口は後ろに位置しているので、どんな人が乗ったかまでは見えない。まじまじと見るものでもないだろう。乗客は一人を除いて皆後ろにいて、おばあさんも後ろの席を選んだようだった。前は不人気なのだろうか。私も最後列万歳なので、気持ちは分からなくもない。


 心地いい揺れ、車内の暖かさ、これで眠くなるなというのも無理な話で、例に漏れず目を閉じて十数分の道のりを過ごす。


 目を開けると、後方でかちゃかちゃと小銭をいじる音が聞こえた。厳密には、その音で私は目を開いた。


 乗客からの到着の合図だった。


 バスが駅前のロータリーで停車した。


 皆、百円玉を数枚と十円玉を数枚握って、一人二人、三人目は高校生。後ろ姿を凝視してみても、あの赤縁の襟がめずらしい。


 そして四人、五人、六人と降りて、私は最後に降りた。


 値段を確認すると、どうやら六年前と比べるといくらか値上げしたらしい。微かに残る記憶よりも小銭を必要とした。嘆息も不可避。


 ロータリーからショッピングモールに行くには、一度駅に入らなければならない。エスカレーターに乗って昇り、切符売り場をスルーして連絡通路を歩けば、ショッピングモールの二階に直接入れるようになっている。


 まさかこんなことになっていたとは、地元もなかなかやるじゃないかとは思うが、都会と比べればなんてことはない、とは、空気を悪くするので口が裂けても言うべきではないだろう。


 ショッピングモールの中に入ると、いきなり書店が目に入った。目的は食料品の買い物だが、買い物だけが目的ではないので、書店にも寄ることにした。


 まずは少年漫画コーナー。買うお金はないけれど、棚にずらりと並ぶ背表紙を見るだけでも結構な満足感が得られるもので。パソコンや携帯端末に向かってネットショッピングをしていては感じられないものが書店にはある。高校生時分にはほぼ毎日本屋に通っては、何を買うでもなく、立ち読みするでもなく、ただその雰囲気を味わうことを楽しみにしていたくらいなのだから、私は本屋が好きなのだろう。


 少しして、文庫コーナーに移動することにした。


 レジの近くでは、何やら、女性店員と男性警備員、客と思しき男性が深刻そうな面持ちで話しあっていた。あの男性が万引きでもしたのだろうか。だとしたら、そういういざこざの解決は他の客に見えないよう、裏でやるべきだろう。客としては気持ちのいいものではない。と、そんなことを考えてながらレジ付近を通り過ぎる。


 すると。


「あ、た、確かあの人です。俺、あの人がやってるの見ました」という声が聞こえた。


 振り返ると、警備員の隣にいる男性が、私の方を指差していることに気付いた。女性店員も警備員も同じ方を見ている。


 小首を傾げつつも、彼らとの無関係ぶりを誰よりも知っている身としては、気にしないように足を前に踏み出すべきだろう。


 だが。


 二歩も進まないうちに、肩に大きな手が置かれたのを感じた。力が入れられている。前に進めない。


 突然のことに「へ?」と声に出してしまい、少し恥ずかしい思いをした。


 男性警備員と女性店員がすぐ傍にいる。何も理解出来ないでいる私の顔を、小走りでやってきたであろう女性店員が腰を屈めながら覗いて、


「レジ、通してないものありますよね?」と言った。


 その一言が、私には何のことやら分からなかった。


「な、なんのことですか?」と尋ねる他にない。


「ええから、ちょっと裏来てもらおか」還暦は超えているであろう警備員がドスをきかせてくる。


 手首を掴まれ、私は裏という名の事務所に連れて行かれた。


 とりあえず、何かあったら裏に行くのは、この店でも常識らしい。


 ところで、何かって、何?

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る