邪神の進撃

第1話「王宮に向かって」

 薄暗い冥界から急に真昼のテーベに戻り、まぶしさに目をしばたかせているカルブの耳に、覚えのある物語が流れ込んできた。


「「「父から奪った王位の返還を求める正当なる後継者たるホルス神に、邪神セトは正々堂々と力比べをして決めようと提案し、ホルス神を水辺に連れ出す。しかしそれは邪神セトの罠だった。邪神セトは卑怯な手を使い、ホルス神を溺死させようとしたが、駆けつけたイシス女神から受け取った銛で、ホルス神は邪神セトを退けた」」」


 オシリス神話の一節だ。

 目をこすると、通りすがりの町の人達が、カルブが倒れた時に落とした巻物を読み上げていた。


 カルブの頭の下には丸めた麻袋が枕代わりに入れられている。

 誰かが手当てをしてくれたらしい。

 近くに居た青年が声をかけてきて具合を尋ねる。

 その声の向こうでは、人々の悲鳴と、とりとめのない祈りの言葉と、護符が破裂する音が交錯している。


「何だありゃ!?」

 ツタンカーメンが悲鳴のような声を上げた。

「?」

 ファラオの視線をたどっても、カルブには青空しか見えない。

「くそ! 王宮に向かってやがる! アンケセナーメンに近づくんじゃねエ!!」

 杖なしでは歩けもしない少年王は、無理に走ろうとして転倒し、パニックになってそのまま這って進もうとする。

「ツタンカーメン様! 飛べるのを忘れてます!」

 カルブの声を受けたファラオは、そのまま振り向きもせずに飛び去った。


 あそこまで取り乱すなんて、いったい何が起きているのか。

 カルブがポカンとしている間に、手当ての青年は朗読の人々の群れの中に戻る。

 この時代のエジプトの識字率はまだまだ低いが、首都の、それも王宮にほど近い区域なので学のある者は多い。

 ホルス神とセト神の戦いの物語、くり返される戦いでセト神が負け続ける物語を、巻物の聖なる力を信じて心を込めて読み上げる様子は、遠い未来の人間が見ればきっとお経のようだと表現するだろう。


「「「邪神セトは木陰で眠っているホルス神に近づき、その両目を斬りつけた。えぐり取られた右目は女神ハトホルが太陽の力で、切り刻まれた左目はトート神が月の力で癒した。ホルス神の新たな瞳は太陽と月のように輝き、その美しさにあまたの神々が魅了され、邪神セトは地団太を踏んで悔しがった」」」


 朗読をかき消すようなファラオの叫びは、カルブにしか聞こえなかった。

 風にあおられたツタンカーメンは、地面にたたきつけられる直前に体勢を立て直し、そばにカルブが駆けつける。


「ツタンカーメン様! 何が起きているんですか!?」

「来るな!! セト神の姿が見えないのか!?」

「風が荒れているようにしか……」

「町の人達もそうみたいだな……」


 ファラオは空の一点を睨んだ。

「あそこにセト神が浮いている。で、町中のかエジプト中のか、とにかく大量の悪霊がセト神に吸い寄せられてる。とんでもない数で、ちょうど蜂が巣の周りに集まっているみたいな感じだ。悪霊どもはセト神の子分なんだ。

 悪霊の群れが固まったり広がったりして、群れの一部が地上に触れると、その場所に居る人間を邪悪なエネルギーから守ろうとして、身につけている護符が力を使い果たして破裂する」

「大変じゃないですか!」

「いや、そうでもないな」


 慌てるカルブに対し、ツタンカーメンは説明しながら気持ちが落ち着いてきたらしい。

「セト神は後ずさりしている。みんながオシリス神話を読んでる声が聞こえてるんだ」

 よどんだ風が通り過ぎていく。

 カルブは友人の巻物屋の言葉を思い出した。

「ターイルが言った通りだ……聖なる力が邪神セトに……」

「過去の失敗談をあげつらわれてドンヨリしてる」

「そーゆーことなんですか!? 聖なる力とかじゃなくて!?」


 ナイル川の方角からバシャーンと水しぶきがとどろいた。

 この音はカルブにも、町の人達にも聞こえた。

 ツタンカーメンは様子を見るために再び浮遊の高度を上げた。


「やった! セト神も悪霊も、みぃんな水の中に沈んでいく!」

 地上のカルブに聞こえるように大声を張り上げる。

 いまだ不安げな人々の中でカルブだけが笑みを漏らす。

 しかしそこにまた別の……今度はザバアアアアアアと……波の音が響き渡った。


 ザバアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア―――いつまで続くのだと思うほど長く……


「何だ……? カバか……? デカい!! すげえデカい!! くそっ、陸に上がってきた!!」

「ちょっ、待ってください!? それってまさか……セト神が巨大なカバに変身したってことですかっ!?」


 そもそもカバとは大きな動物だ。

 四つんばいのくせに頭のてっぺんの高さは、二本足で立っている人間とそう変わらない。

 しかも四つんばいなのだから体は前後に長く、顔からおしりまでは八キュビド(約四メートル)にも及ぶ。

 それがさらに大きくなったと言われても、見えていないカルブに緊迫感が伝わるまでにはしばらくかかった。


「悪霊は消えてる……群れごと全部、セト神が自分の体内に吸い込んだんだ!! また王宮に向かって歩き出した!!」

「歩いてる……?」


 飛んでいるのではなく、歩いている。

 ツタンカーメンは、周囲の建物の何倍も高い位置を飛んでいる。

 それでもツタンカーメンの首の角度は、見上げる形を取っている。


 カバの姿の巨大な邪神は、生きている人間の目には見えないし、足音も聞こえないが、強大なエネルギーだけはカルブにも感じられた。

 風が、湿気ではない、湿気よりも嫌なものをはらんでいた。

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