モラルとポリコレ

 ここ最近良く話題になる言葉にポリコレって言うのがありますよね。正式にはポリティカル・コレクトネス――政治的に正しいとか何とか言うやつです。

 このポリコレ、確かに理念としては響きのいいものですが、その言葉を声高々に叫んでいる人が……こじらせフェミの方々だったりするのですよねえ。その方々にとってこの言葉、ちょうどいい武器を手に入れた感じになってるんですねえ。やってる事は一緒ですよ。多分。


 さて、そのポリコレですが、最近よく言われるのがポリコレ棒と言う言葉です。本人が気に入らない事柄があればすぐにこれはポリコレ的におかしいとイチャモンを付けるのです。アニメファンなら某ポスターの問題とかで一気にこの言葉の知名度が広がりましたよね。似たワードにまなざし村とかメタファーおじさんとか……。


 ポリコレを主張する方々の言葉はいつも一方的なんです。自分達が正しいから従わないのは悪。まぁなんて素晴らしい世界。無敵です。

 ポリコレ棒で叩く人が自分の行動を反省する姿を見た事がありません。反省するような人はポリコレ棒なんて握る事はないのでしょう。


 自分が不快だと言う個人的感情で動いているけれど、それを素直に主張すると火の粉が降りかかるのでそれは絶対言いません。虎の威を借る狐のようにポリコレと言う大義名分で武装しているからこそ言いたい放題傍若無人に振る舞えるんです。


 この状況、何も日本だけじゃないみたいで、何なら海外の方が酷いみたいですね。メリークリスマスが言えないとか何じゃそりゃと。他の信仰のある人がいるから?と言うのが理由みたいですが、じゃあクリスマスを祝いたかったキリスト教信者の気持ちはどうなるんですかねぇ……。一体誰の代弁者を気取っているんだろうって言う話ですよ。

 クリスマスはクリスマスで他の宗教のイベントは他の宗教のイベントでお互いに尊重すればいいじゃないですか。日本を見習いなさいよ日本を。色んな宗教のイベントが仲良く肩を並べて共存してますよ。こう言う風になるのが本当の意味で正しいんじゃないのでしょうか?


 ポリコレと言う言葉には謎の強制力と言うか独善的な圧があります。それはその言葉を行使する人達がそう言う性質だと言うだけなのかも知れませんけれど、その人達のお陰でポリコレと言う概念自体がそう言うものになってしまっているんですよ。その状況を誰も変えようとしていないように感じます。ポリコレを唱えれば気に入らない人をぶん殴っていいと。それでいいんでしょうか?


 ポリコレと言う言葉が流行る前、ポリコレ的な振る舞いをしようと言う運動にモラルと言う言葉がありました。モラルには言葉の圧はそれほどありません。人に優しく、差別をしないように高潔に生きようと言うだけならモラルだけで十分だと思うんですよ、個人的に。


 ポリコレの運動と言えばまず思い浮かぶのが言葉狩りですよね。差別的なものは変えるべきでしょうけど、すでに浸透して今ではそう言う意味で使われていないものまでも語源から言えば差別だから使いのをやめようとか、どんどん重箱の隅をつつく形になっています。実際に被害者がいないのに変える必要もないものまでどんどん対象になっている……行き過ぎだと思う人はいないんでしょうかね?


 次に性差別とか言うのもポリコレ屋さんの得意分野です。これは女性差別!見ていて不適切!とポリコレ屋さんに睨まれたものに反論はまず許されません。全て禁書扱いとなります。禁書って言葉が適切かどうかは分かりませんが。


 アメリカでは行き過ぎたポリコレ運動がトランプ大統領を生み出したとさえ言われていますが、日本のポリコレ運動はせいぜいアニメファンの神経を逆なでした程度で今のところ社会を揺るがすような大きな影響はないように思われます。私が感じた限りの感想ですが。


 何事も行き過ぎると反感を買うものです。加熱するポリコレ論争も永遠に平行線でしょう。何処かでうまく折り合いがついてくれるといいんですけどねぇ……。

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