第二百七話 留守番できないペットの巻

 一人部屋をでたイルルは、その足で屋敷の外へと向かった。

 シュリからは、一人で敷地の外に出てはいけないと厳しく言いつけられては居たが、屋敷を出ることは止められてはいない。


 中庭かどこかで虫でも捕まえて遊ぼう、と屋敷の玄関の大きな扉を開けて外へ出れば、門の近くにルバーノ家の馬車が止まっているのが見えた。

 そして、その馬車を鼻歌交じりに洗っている、最近なんだか妙に艶めかしいと噂の、中年のおじさん御者の姿もある。

 退屈だったイルルは、深く考えもせず馬車へ近づいていく。

 そして、



 「馬車を洗っておるのか?感心じゃのう」



 と、妙に偉そうに御者をねぎらった。

 驚いたのはおじさんだ。

 彼はいきなり背後からかけられた声に飛び上がり、慌てて振り向いてひざまづく。


 このお屋敷の敷地内で、こんな風に偉そうに声をかけてくる相手は、彼と同じ使用人ではあり得ない。

 となれば、相手は貴族様だ。

 声に聞き覚えが無いから、恐らくルバーノの屋敷の方では無いだろうが。


 そう思いつつ、御者のおじさんは頭を下げ続けた。

 だが、一向に頭を上げていいという許可の言葉が聞こえない。

 これはもしや、興味本位に声だけかけて、貴族様はもうどこかへ行ってしまったかと、そろそろと顔を上げてみると、彼の前に立ったままきょとんとこちらを見ている赤い髪の少女が視界に飛び込んできた。

 それを認めた彼は、再び慌てて頭を下げる。

 だが、



 「ん?せっかく顔を上げたのに、何でまた頭をおろすのだ??もしや、体の具合が悪いのか??」



 心配そうに問いかける。

 尊大な口調ではあるが幼く屈託のない声に、おじさんは慌てて首を横に振る。



 「い、いえいえ。滅相もない。私はいたって健康でございます」


 「ぬ?じゃあ、なぜ顔を上げないのだ??ん~……はっ!もしやお主……」


 「は、はい!!」


 「妾が余りにかわゆいので、照れておるのだな!?」


 「は!?」


 「む、違うのか?」


 「いえ、その、まあ、なんと言いますか……その、顔を上げてもよろしいのでしょうか??」


 「お主が顔を上げて、何か問題でもあるのか??」


 「……そう言うわけでもないのですが……では、問題が無いようですので、顔を上げさせて頂きますね……」



 あまりに彼の知る貴族という生き物と違う反応に、おじさんはちょっと疲れたようにそう答え、恐る恐る体を起こした。

 まあ、とはいえ、彼の仕えるルバーノ家の皆様は、比較的つき合いやすいお貴族様で、いつもこうやって平伏して過ごしている訳ではなかったが。

 特に、ルバーノ家の跡継ぎと目される少年は、使用人達がそうやって過剰な礼を取ろうとすることをひどく嫌っていて、こんな風にひざまづいて平伏しようものならきっとひどく怒られてしまうだろう。


 目の前の女の子もまた、シュリと近い人種のようで、彼が顔を上げても怒るでもなく、まじまじと彼の顔を見つめてきた。

 彼女はとっても興味深そうに彼を見つめ、それからにまっと笑うと両手を伸ばしてぺちぺちと彼のほっぺたを叩いた。

 それはそれは楽しそうに。



 「おお~、いい年をした男のくせにお主のほっぺはすべすべじゃのう。髭も見あたらん」


 「は、はあ。ひ、髭は数時間おきにこまめに剃るように気をつけております。す、すべすべなのは、その、知り合いのメイドさんに、肌の手入れ用の化粧品をわけて頂いておりまして」


 「ふむふむ。なるほどのう。少々男らしさには欠ける気もするが、まあばっちいよりきれいな方がいいしの。妾は良いと思うぞ!」


 「はあ……その、ありがとうございます??」



 赤い髪の女の子……イルルのほめ言葉に、おじさんは微妙な顔で礼の言葉を述べる。

 その言葉を受け、イルルは満足そうに頷いた。



 「うむ!!それにしても、お主は職務に忠実な男じゃの?馬車は毎日洗うのか??」


 「はい。この馬車は毎日シュリ様の送り迎えに使われる馬車ですので、出来るだけ気持ちよく乗っていただければ、と」


 「……ほう。シュリの送り迎えに、のう」



 イルルの目がきらーんと光った。

 おじさんは、そんなイルルの様子には気付かずに、ただ彼女がシュリを呼ぶ捨てにしたことに驚いた。



 「あ、あの、お嬢様はシュリ様のお知り合いで?」


 「ぬ?妾のことはイルルで良いぞ?シュリは知り合いでもあるが、そうじゃの~、より正しくいうならば、シュリは妾の飼い主、じゃな!!」


 「かっ、飼い主!?」


 「そうじゃ。まあ、妾の主であるということじゃの~」


 「主……イルル様は、シュリ様のご婚約者様かなにかで??」


 「婚約はまだしておらぬな。じゃが、まあ、シュリが妾の魅力に参ってしまうのも時間の問題じゃ。そう言う意味では、婚約者といっても過言はないかもしれんのう」


 「そ、そうですか。イルル様はシュリ様のご婚約者様なのですね……」


 「まあ、好きなように思ってくれて構わんぞ?」



 イルルはそんな、シュリが聞いていたら、なに適当なこと言っちゃってくれてんのさ!?と目をむくような事を平然と口にし、御者の反応を鷹揚に認めた。



 「所で、お主はいつシュリを迎えに行くのじゃ?」


 「え?ああ、馬車を洗い終わったら向かおうと思っていたのですが……おや、そろそろ向かいませんと。ではイルル様、馬車を引く馬を連れて来ますので、私はそろそろ失礼させて頂きます」


 「うむうむ。職務ご苦労!ではの!!」



 イルルに頭を下げ、急ぎ足で厩舎へと向かう御者の後ろ姿を見送る。

 そしてその後ろ姿が見えなくなった瞬間、イルルは大急ぎで馬車の中へ入り込んで、御者台から見えないように座席の足下へ小さく丸くなった。

 そうして小さくなったまま、くふふと笑う。

 このままここにいれば、シュリのいる学校へ自動的に案内してもらえるという寸法だ。


 イルルはこのまま馬車に隠れ、学校までシュリを迎えにいこうと思いついたのだ。

 いい事を考えついたとほくそ笑みながら、イルルは小さくなったまま馬車が動き出すのを待つ。


 それから程なく。

 仕事熱心な御者のおじさんが連れてきた馬に引かれ、馬車は動きだした。

 がたんごとんと動き始めた馬車の中で、イルルは再び、くふっと笑うのだった。


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