第五十六話 姉様とぼく③

 いつものように、父様の書庫へ入り浸っていたら、小さな侵入者が入ってきた。

 数日前にこの屋敷にやってきた弟のような存在。

 将来は、もしかしたら結婚することになるかもしれない相手。

 シュリ、という名の小さな男の子は、リュミスにとって珍しく気になる相手だった。


 小さくて可愛くて、なんだか愛おしい。

 見ているとなんだか鼻の奥の方がむずむずする。

 人付き合いが苦手なリュミスは、家族以外にそれほど親しい相手も無く過ごしてきた。

 はっきり言って他人にそれほど興味はないし、人と話すより本を読んでいる時間の方が余程有意義だし楽しかった。


 そんな彼女が、シュリと出会って少しだけ変わった。

 どんなに面白い本が手元にあっても、何故かシュリの方が気になるのだ。

 気が付くとついついシュリの動きを目で追っている自分がいる。そんなことは初めてだった。


 そして、今日もやはりシュリが気になって仕方がない。

 リュミスが通り抜けた書庫のドアの隙間から、よちよちと上手に歩いて入ってきたシュリは、文句なしに可愛かった。

 リュミスは、それまで夢中で呼んでいた高等魔法の応用について論じている書物を閉じて、シュリの様子をじっと伺う。


 シュリは目の前の本棚を見上げて目を輝かせ、それから何を考えたのか、本を引っ張り出しては積み重ね始めた。

 しかも重たい本ばかり。

 まだ赤ちゃんなのにものすごい力である。



 (すごい。さすが私の未来のお婿さん)



 ぽっと頬を赤らめて、リュミスは音もなくシュリに近づいていく。

 そして後ろから声をかけた。



 「本で遊んじゃ、ダメ」



 びっくりしたように振り向いて、まん丸な目でこちらを見上げるシュリがたまらなく可愛くて、リュミスは持っていた本を傍らに置くと、いそいそとしゃがみ込んでシュリの銀色の髪を思う存分撫でた。

 シュリの髪は柔らかくさらさらで、指の隙間を通る感触がなんとも気持ちいい。



 (ああ。いけない。癖になりそう……)



 そんなことを思いつつ、怒られたと思ったのか、ちょっと不安そうにこちらを見上げるシュリを安心させるように、



 「本で遊んじゃダメ、だけど、シュリは可愛いから許す」



 さっきの言葉を速攻で訂正する。

 本をおもちゃにしていたのが、アリスやミリシアなら許しはしないが、シュリの可愛さは正義だった。

 怒ることなど、出来そうにない。

 むしろ、もっともっとなで回して、シュリの手触りを余すことなく感じたかった。


 それに、シュリが本を積み上げたのにはきっと理由があるはず、とリュミスは確信していた。

 故に問いかける。何か見たい本はあったのか、と。

 頷くシュリに、やっぱり、とそんな思いが浮かび上がる。

 きっとその本はシュリの背が届かない高いところにあるのだろう。

 シュリは、届かない分の高さを積み上げた本で補おうとしていたのだ。



 (私の未来のお婿さんは、頭も良い)



 うんうんと頷き、リュミスはシュリの体を抱き上げた。

 8歳のリュミスにはちょっぴり重いが、腕の中のシュリの抱き心地が最高なので、むしろ役得だろう。

 どれ?と問いかければ、打てば響くようにシュリの可愛らしい指が一冊の本を指し示す。


 それは昔、リュミスがもう少し小さかった頃に読んだことのある本だった。

 『誰でも簡単!初級魔法の基礎』という本をリュミスが初めて手に取ったのは、3歳の誕生日を過ぎた頃だったと思う。

 魔法を覚えるとっかかりとしては、中々に分かりやすい内容の本だった。

 魔法の天才児と呼ばれるリュミスが魔法に興味を持った年よりも更に早い、シュリの魔法への興味の発露に驚愕しつつも、思わず口元に笑みが浮かぶ。

 それでこそ、魔女の婿にふさわしいとそんな思いと共に。


 シュリを床へそっと下ろし、本を抜き出して手渡すと、シュリが天使のように笑った。

 雷に打たれたように体が硬直し、鼻の奥のむずむずが最高潮になる。

 いけない、と反射的に鼻を押さえた。

 つつぅ~っと生温かい液体が鼻からこぼれ落ちる。



 「いけない、鼻血が」



 そう呟いて、何か押さえるものをと片手でスカートのポケットを探っていると、



 「りゅみ?じょーぶ??」



 そんな可愛い声としぐさで心配してくれる天使の姿。

 煩悩が揺さぶられ、鼻血の勢いが増しそうなのを察知したリュミスは、



 「ありがとう、シュリ。私は大丈夫。変態な私のことは気にせず、ささ、早く本を」



 冷静にそう促した。

 シュリに構ってもらえるのは嬉しいが、今はまずい。

 下手をしたら、鼻血で出血多量に陥る危険性すらある、とリュミスはどこまでも真面目にそう考えた。

 ばかげた可能性だが、まるでない訳ではないという事が恐ろしい。


 リュミスの言葉に素直に従ったシュリが本を開くのを横目で確認し、急いで止血作業へ移る。

 早く止血を終えて、シュリと一緒に本を読むのだと、そんな一心で。

 驚異のスピードで止血し、やっとシュリに目を戻せば、開いた本を目の前になんだかがっくりと肩を落とすちっちゃな後ろ姿。



 (本が、気に入らなかったのかな?)



 きゅうっと首を傾げながら、その後ろ姿に見入る。

 丸っこい頭のてっぺんのつむじが見えて、それが何とも可愛い。

 思わずきゅんとして、気が付けば指を伸ばしていた。

 そして指先をつむじに押し当てて、そうっと力を入れてみる。



 「う?」



 頭を前に押されたシュリが、そんな声を上げる。

 くすりと笑って更に力を込めてみた。


 「う??おぉ???」



 前に倒れないように頑張るシュリが可愛くて、ついつい指先に力が入った。

 だが、思いの外シュリは力強く、流石に疲れてきたリュミスはぱっと手を離した。

 それが悲劇を呼ぶとも知らないままに。



 「うおっ??あうっ!」



 後頭部からの圧力に必死に抵抗していたシュリは、その圧力がぱっと消えた瞬間、勢いよく後ろに倒れた。

 それはもう、豪快に。

 ごんっ、と何とも痛そうな音がして仰向けに寝ころんだシュリが目をまん丸くするのをリュミスはじっと見守った。

 その大きな目にじわじわと涙がたまっていき、そしてついには泣きだすところも。



 (……泣いてるシュリ、可愛い)



 仰向けのまま、えぐえぐと泣くシュリのほっぺを恍惚とした表情でつつく。

 ふくふくしたほっぺたの感触は、病みつきになりそうで危険だった。

 しばらくそうしていたが、不意にはっとする。



 (いけない。このままではシュリに嫌われる!)



 それだけはどうあっても避けなければならなかった。

 なぜなら未来のシュリのお嫁さんになるには、シュリから一番に好かれなければいけないのだから。


 リュミスは慌ててシュリを抱き上げて、膝の上であやすように揺らす。

 それから最近修得した浮遊魔法で、小さい子にも分かりやすく、男の子も好きそうな英雄譚を自分の手元に引き寄せた。



 「ごめんね?シュリ。痛かった」



 言いながら、シュリの後頭部を優しく撫でる。

 すべすべのほっぺにもキスを落とし、涙を綺麗に舐めとると、シュリがくすぐったそうに笑った。



 (良かった。泣きやんだ)



 ほっとしながら、シュリの背中を自分の胸にぴったりくっつけるように座り直させて、本を開く。



 「これ、私の好きな英雄の話。読んであげる」


 「あう!」



 リュミスの言葉に、シュリが元気よく返事を返す。そんなシュリの様子に口元を優しく微笑ませ、リュミスはゆっくりと物語を読み始めた。

 きれいな声で、丁寧に、時間をかけて。

 少しでも長く、シュリと二人の時間を過ごせるように。

 そんな彼女の願いのまま、誰の邪魔が入ることもなく、本が読み終わるまでのしばしの時間、リュミスはシュリとの触れ合いを思う存分堪能したのだった。

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