第8話 なぜ日本には怨霊が多いか
「なーるほど……首の絆創膏はそーいうわけかあ……」
とサダコ。もうかなり酔いが回っている。
「痛々しいだろ」わたしはあまり酔っていなかった。「でも、そんなの……聞いたことある? 幽霊が噛み付いてきた、なんて話、初耳だろ」
「いやあ、お腹に乗っかってきて首を絞められた、とか足首を引っ張られた、とかいろいろ、そーいう話はあるじゃん。ああ、ユーレイにレイプされた、って女 のヒトもいるみたいだけどね~……それはどうだか。単に欲求不満からきた妄想だと思うんだけど……全身にキスマークがついてたり、痣ができたりすることも あるんだってさ」
「……おれの場合も、そういう感じだ、って言いたいわけ?」
「あり得るかもよ……無意識のうちに潜んでいる、罪悪感の表れとか。あはは」
「それはないな」わたしは笑った。
「それはないよね」サダコも笑う。
「ただまあ……おれにしてみれば、生命に関わる問題だよ……もう少しで、殺されるとこだったんだぜ」
「そしたら、あんただってラクになれたのに」
「いや、おれは別にラクになんかなりたくない……別に苦しくないし……生きていたいんだよ」
サダコが煙草に火をつけて、呆れたような顔でわたしを見た。
ああ、確かに。ムシのいいことを言っているのはわかっている。
「で……その子の幽霊を、祓ってほしい、とかそーいうわけ? ……さっき言ったけど、それ、ムリだから」
サダコは二杯目のビールを半分ほど飲み干していた。まだ酔ってはいない。
「それは……」おれはまだ一杯目。でも、煙草は四本目だ。「道義的、道徳的にできない、ってことかな。それとも、スキル的にできない、ってことなの?」
「……いや、確かにあんたの言ってることは道義的にも道徳的にも、ほんっとハナシになんないけど……道義的とか道徳的とか、どうせあんた、そんなのどうで もいいでしょ? てか、スキルの問題とか、そーいう問題じゃなくて、あたし、お祓いとかしたことないし。おばあちゃんも見えるだけだったから……お祓い はできなかったんじゃないかなあ? ごめんね。アテが外れて。あたしを殺す?」
「……いや、それは……どうかな」
まだ、生かしといてやる。
「非情なんだかそうじゃないんだか、どっちだんだろうね、あんた」
どうせ、この女を怖がらせることなどできないのだ。
幽霊たちが、わたしを怖がらせることができないように。
しばらく沈黙が流れた。
サダコは二杯目のビールを片付けて三杯目を注文し、煙草を吹かしながら次のジョッキの到着を待っていた。
視線はぼんやりと遠くを見ている。
一体、このホールには何人の幽霊がいるのだろうか。直接的にせよ、間接的にせよ、誰かのせいで死に追い込まれ、彷徨っている幽霊が。
わたしの背後のオバサン幽霊は、まだ俺の耳元で『死ね! 死ね! 死ね! 死ね! 死ね! 死ね!』と叫んでいるのだろうか。
いや、わたしは死なない。死にたくはない。
死ぬには人生は愉しすぎる。
まだやりたいことが多すぎる。
何とかならないものだろうか……わたしは黙ってサダコの横顔を見ていた。
と、突然、サダコがわたしのほうに向き直る。
「お祓いはできないけど……あんたにぴったりの方法、ないこともないよ。完璧な方法じゃないけど」
「ほんと?」
思わず、前のめりになってしまった。
「……いくら払う?」
「……いくらで教える?」
「……いくら払える?」
「……いくらが相場?」
サダコの次のジョッキが来る前に、わたしたちは情報の値段交渉をした。
わたしがいくらでこのたわごとを競り落としたのかは、秘密にしておきたい。
「…………で、どんな方法なの?」
「……まあ、簡単に言うと……」新しく来たジョッキに口をつけるサダコ。「幽霊を他人に押し付けるわけ。あんたを呪ってる幽霊を、誰かほかの人に押し付ける……どう? あんたみたいなゲスにぴったりでしょ?」
「……そ」余りに奇妙で、荒唐無稽な話だ。「……そんなことができるの?……幽霊を他人に押し付ける? ……幽霊は、おれに怨みを持っておれを恨んでるんだろ? それを、何の関係もない他人に押し付ける? そんなことできるの?」
「それって道義的な意味で言ってんの? スキル的な意味で?」
サダコは意地悪な笑みを浮かべて、わたしの興奮を楽しんでいる。
「もちろん……後者だよ。聞くまでもないだろ? で……なんで、なんでそんなことができるわけ?」
「……意外に思うかも知れないけど、幽霊がこの世をうろうろしたり、人に取り憑いたりするのって、あんまり生前の怨みとかムネンとかとは関係ないの……ま あ、あんたの場合は特別だけど。おもいっきり恨まれるようなことしてるわけだから……まあそれはいいとして、ほとんどの幽霊は、誰かに怨みを晴らしたいとか、思いを伝えたいとか、そういう理由でこの世をうろついてるんじゃないの」
「じゃ、じゃあ……何のために?」
「みんな、憂さを晴らしたいのよ」
「憂さ?」意外な答だった。「なんだそりゃ?」
「わかる?……日本には何で幽霊が多いか?」
“わかる?”と言われても……わたしも幽霊は見るが、サダコほど幽霊に詳しいわけではない。
「いや……そもそも『日本は幽霊が多い』ってのも初耳だけど。他国に比べて、ってこと?」
「そう。それは、日本人の国民性が大きく、おーきく影響してんの」ビールをあおるサダコ。喋りがさらに滑らかになっていく。「日本人は基本的に、他人の幸 福を心から喜ばない。喜ぶフリをするだけ。他人の幸福を、ひたすら妬むのが日本人。それだけならまだしも、自分が不幸に見舞われたときに、他人が自分と同 じ不幸を共有していないことを、リフジンだ、って感じるのが日本人。日本人は、自分が不幸だと、周りのみんなも、同じ不幸に引きずり込みたい、って考え る。たとえば……そうだなあ、わかりやすい例で言えば、ノーシを“死”と認めるか、ってことで、いろいろ論争があるじゃん……?」
「ノーシ?……脳死のこと?」
「そう、それ。国がゾーキ移植のために、ノーシ状態の人間を“死体”と認めるかどうか、って話になったとき、別に国がそれを認めた結果、ノーシ状態にある 人が国の都合でバラされて強引にゾーキを取られる、ってわけじゃないのに、ノーシ状態の人間を家族に持っている人は、ノーシを“死”と認めることに反対する。『うちの子供は“死体”なんですか!』って感じで……よく考えてみればヘンだよねえ? ……不合理だよねえ……?」
「……うーん……」
こういう話題はあまり得意ではない。
「別に、あんたんとこのノーシの家族を、ムリヤリ誰かが長生きするための“材料”にしよう、ってんじゃないことくらいは、家族にもわかってるわけで しょ? ……つまり、家族の本心は、こうなわけよ……『うちの家族がノーシ状態なのに、他人がこの制度のせいで健康になるなんて許せない!』……って感じ」
「それは、どうかなあ? ちょっと、穿った見方じゃないか……?」
「ウガってないウガってない。じゃあ、何で日本には死刑制度があると思う? あんた、こっちなら想像できるでしょ?……たとえばあんたが捕まって、裁かれて、死刑になったとしても……あんたに殺された人たちの遺族は、一瞬はスッキリするかもしれないけど、別にハッピーになれないよね? ……なんで遺族があ んたの死を望むのか、といえば……自分の家族が死んだのに、あんたが生きてるなんて許せないからよ」
“あんた”のところでビシっ、とサダコに指を突きつけられた。
「でもみんながみんな……そんなに醜い心の持ち主ってワケじゃないだろ?」
「人殺しのクセに何キレイ事言ってんのよ……誰の心だって醜いわよ。特に、死んじゃって幽霊になると、それが剥き出しになる……これはホントだよ。幽霊ってつまり、透明人間と同じだからね。あたしやあんたみたいに、特別な人間にしか姿を見られない。そして幽霊のやることは、もちろん法律に問われるわけ でもないし、警察だって絶対に捕まえられない。完全な自由だよ。誰にも存在を知られず、好き勝手に振る舞える、ってのは、ほんとうに完全な自由。誰だって 生きてるときには、いろんなことに縛られてるでしょ? ……法律はもちろん、世間体や、家族とかに……でも、そんなのから一気に解放されたとなると、どうな ると思う?……どんな酷いことだってやるよ。どんなに無意味で、理不尽で、不可解なことだってやるよ……自分が楽しければ、それでいいの。“死んでる”っ てことは幽霊たちにとっては不満なことだけど、生きてる連中にいやがらせして楽しむ、ってのは、幽霊の皆さんにとって、とーっても楽しいことなの。って か、唯一の楽しみなの。何だってやる……幽霊になってこの世をウロウロしてる奴なんて、結局みんなそういう奴なんだって…………あっ」
と、サダコがピタリと口をつぐむ。
「どうした?」
「あんたの耳元で喚いてたオバサンが、あたしのこと睨んだ」
そう言うと、サダコはケタケタと笑い始めた。
周りの客やホール係たちは、さぞ楽しい話題で盛り上がっていると思うことだろう……まさか、殺人と、日本人の心の暗部と、幽霊の話題でここまで楽しそうに笑っているとは思うまい。
「それと……幽霊たちを他人に押し付ける、って話はどうつながってるの?」
そろそろ核心に踏み込みたいとこだ。
「だから、幽霊さんたちにしてみると……ほんとは呪い殺す相手は、あんたじゃなくていいの。誰だっていいの。今は、あんたに殺されたから、あんたんとこ に出てきてるけど……あんたを呪い殺すことができたとしても、ジョーブツなんてするわけないよ。あんたを呪い殺すことができたとしたら……幽霊のみなさ んは、自分のパワーを認識する……自分が人を殺せて、しかも今、幽霊なんだから、誰に咎められることもなく、誰から罰を与えられることもなく、それを繰り 返せることに気づくわけ。だから、手当たり次第に生きてる人間を殺し始めるわけ……怖がらせてノイローゼにして、自殺に追い込んだり……朝のラッシュ時 に、駅のホームでどん、と誰かの背中を押したり……生まれたばかりの赤ん坊の息を止めたり……」
「恐ろしいなあ……」
理解できない話でもない。とくにわたしには。
「そう、みんなあんたと同類だよ」
サダコが満面の笑みを浮かべた。
そのとき、ぞろりと歯が剥き出しになる。
そのきれいな歯並びは、あの少女に似ていなくもなかった。
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