第3話 最後の鷲王 03

 その目はずっと私を見ていた。

 生温かい水の中。全ての流れの中心。輪郭の無い神はそこにいる。

 ある者は言う。これは老いた竜だと。

 ある者は言う。これは未だ生まれぬ胎児だと。

 それら全ては正しくもあり、決定的に間違ってもいる。

 神には本来名前が無く、人格も無く、感情もない。神は見る者によって姿形を変える。ただそこにあって、全てに影響を及ぼす嗜好。これはそういうものだ。

 輪郭無き神の望みはただ一つ。

 いつまでもどこまでも、繰り返すこと。


「我等の試みはそれを止めることにある」

 アクィラ九世は己に言い聞かせるようにそう言った。

 神に見つかっている限り、神の姿を認識している限り、神の嗜好に反する者はどう足掻こうともその努力は無駄に終わる。

「だから我等は断絶せねばならない」

 アクィラ九世は何度も繰り返す。周囲のあぶく達もその言葉を歓迎した。

 認識。神の名。姿。

 神殿に刻まれた神の姿。

 名を知るアクィラが死に、神殿がこの王国もろとも崩れ去れば、神への認識は断絶する。

 その日は間違いなく来る。繰り返す歴史がそう示している。

 アクィラ九世は、その日に死ぬために生まれてきたのだ。



「うえ、げほっ……」

 今日もまた、こらえきれずに吐き戻した吐瀉物が床を汚す。

 「先見」の直後はいつも不快感に満ちている。代々の王達の記憶に、いずれ訪れる「私」の記憶に、腑の中を掻き乱されるのだ。

 床に這いつくばり、胃の中身を吐き出し尽くす。磨かれた石の床は冷たく、このまま倒れてしまいたい心地に王はなった。

 手足を弛緩させ、床に倒れこむ。冷たい床は程よく彼の体温を奪い、王は心地良さから目を閉じた。

 その時、懐かしい声がした。

「お、王!」

 声の主は一人の少年だった。顔には神殿の奴隷達がつける白布が、手には掃除の道具を持っている。驚きで思わず声を出してしまったのだろう。しでかしてしまった非礼に気付いたのか、顔を覆う布越しに口をふさぐと、慌ててひれ伏していた。

 王は起き上がり、少年に歩み寄った。

「顔を上げなさい」

「はっ、はい」

 少年の目が、布越しに王を見た。

「……うん」

 王は布越しに少年の顔に触れる。その輪郭を、鼻筋を、唇をなぞる。王は目を細める。

「懐かしい声だと思ってな」

 顔布をめくった。現れたその面影にはひどく見覚えがあった。

「お前、ケルウスの子孫だろう」

 微笑んでそう言ってやると、少年は顔を青ざめさせ、その場に再びひれ伏した。

「も、申し訳ありませんでしたっ!」

「……何故謝る?」

「ふ、父母に言われたのです。王は父祖の仇、この短剣で、こ、殺せと……。そのために私は貴方を……。貴方には「先見」があるというのに……!」

 王は少し黙って、ひれ伏した少年の頭を見つめた。

「これは驚いた」

「へ?」

「殺すつもりだったとは気付かなかったぞ。お前はそういうところが抜けているなあ」

「えっ、えっ?」

 少年は顔を上げる。涙と困惑でぐしゃぐしゃになった顔を見て、王はまた笑った。

「うん、許そう」

「えっ?」

「お前に殺されて死ねるのなら、少しはマシな死に方だと思う。殺してもいいぞ、私を」

「そ、そんな、で、できませんっ……」

「そうか。そうだろうな。お前はそういう奴だったものなあ……」

 王は訳知り顔で何度も頷いた。

「ほらお前。掃除をしなくていいのか? 掃除がお前の仕事だろう?」

「私を、許してくださるのですか」

「許すも許さないもお前は何もしていないだろう」

「でも王を殺そうとしました」

「私は知らない」

「は」

「私は何も見ていないし何も知らないと言っている」

「あ、ありがとうございます、ありがとうございます……」

 少年はひれ伏し、床に額をついた。王はそれを不思議なものを見る目で見つめていた。

「掃除、しなくていいのか」

「は、はい!」


 少年は床の汚れをたどたどしい手つきで拭き取っていく。それを見守るように、その近くに王は腰かけた。

「頭が痛い。何か話してくれ。できれば暗殺だのではない話を」

「は、はいっ! その、お、王は」

 少年は床を拭う手を止めた。そうして必死に言葉を選ぼうとしている様子を、王は好ましげに眺めていた。

「お辛くはないのですか。「先見」をするたびにこんな……」

「辛いさ」

 驚くほど素直にその言葉は吐き出された。

 王となり、先代達の記憶を得て以来、誰にも見せてこなかったものを、この少年相手であれば出せると思った。


「箱など存在しなければよかったのだ」


「そんなにお辛いのであれば、……逃げてしまえばよいのでは」

 

「はっ、すみませんすみません! 出過ぎたことを!」

「いいさ。お前なら許そう」

 そう言って、アクィラ王は微笑んだ。

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