第1話 鷲の青年 01

 星。男は最初それを星だと認識した。星だと認識した少し後、これには覚えがあると男は考えた。日の当たらぬそこには今にも消えそうな光の集団が瞬き、蠢いていた。あれは星ではないと男は考えた。星があのように動くものか。星でなければ何だ。男は目を凝らす。よく見ればそれらは一つ一つが意思を持ってどこかに向かい少しずつ動き続けていた。

 あれは何だ。男は考える。あれは誰だ。男は足を動かす。そこに地面は無い。だが男の体が落下することもない。急がなければ。正体不明の焦りが男にしみこむ。急がなければ。光が男を見つめている。辿りつかなければならない。あの光を――



 男はゆっくりと目を開く。あたたかく熱を含んだ日光が、顔に、手に、降り注いでいる。よく日に焼けた腕が見える。手首には木をくりぬき装飾を施した白い腕輪が嵌まっている。男が身じろぎすると、その腕もぴくりと動いた。男はそこでようやく、それが己の腕だと認識した。

「王、……王?」

 はっと顔を上げる。男の座る石の玉座の横には、一人の従者が控えていた。

「聞いておられましたか、アクィラ王」

「あ、あー……」

 責めるような目で軽く睨まれ、男――アクィラはまどろみの淵から一気に引き戻された。

「すまん。寝ていた!」

 爽やかに笑ってそう言うと、従者の男は深くため息を吐いた。

「まったく、あなたという人は……!」

「ははは。許せ、ケルウス」

 椅子に預けていた背を丸めて、頭上から降りかかる小言を軽く聞き流す。その姿を見てケルウスはまた、「王としての威厳が」だとか、「すぐに中身を変えろとは言わないからせめて見た目だけでも」だとかと小言を降らせ続けた。

 適当に相槌を打ちながら、アクィラは軽く目を閉じる。多少煩くはあるが、自分を思っての言葉は心地良い。既に内容も忘れてしまった夢の気持ち悪さも、徐々に薄れていく。アクィラ王は上機嫌だった。

「なあ、ケルウス。その「王」と呼ぶの止めにしないか?」

 降り続ける小言の間隙を縫って、アクィラはそう切り出した。

「そうはいきません。あなたの御父君はあなたを留守中の王として選び、旅立たれたのですから」

「だから私が王か?」

「はい。御父君が戻られるまではあなたがこの国の王です」

「私は承知した覚えはないのだがなあ」

「御父君が旅に出られるよりずっと前から決まっていたことではないですか」

「それはそうだが……。だからって二人でいる時まで「王」と呼ぶ必要はあるのか? 私とお前の仲じゃあないか。むず痒いぞ、お前に「王」だなんて呼ばれると」

「いくら昔馴染みであろうとなかろうと、あなたは王で私は臣です。あなたがどう思われようと私はあなたを「王」と呼び続けますよ」

「……実際は、この国の実権も、臣の心も、ほぼ全てを兄上が握っているのにか?」

 不意に意地悪な言葉をかけてやると、ケルウスは顔を強張らせて沈黙した。

「くれてやればいいのに。王の座なんて」

 ケルウスは俯く。悔しさからか、拳を強く握るのが見えた。

「それでも、あなたが次の王だ」

「……ん。そうだろうな」

 絞り出すようなケルウスの言葉に、アクィラは素直に同意する。兄ではなく自分が王にならなくてはならない理由をアクィラは知っていた。

「ああそうだ。確か、今日は兄上に食事に誘われていたのだったな」

 思い出したようにそう言うと、ケルウスは伏せていた顔を上げた。

「なあケルウス」

「はい」

「父王が消息を絶たれてから、今日でどれだけだ?」

「――三の季節と六十七日です。御父君が神の住処を探しに旅立たれたのが、ちょうど季節の境目の日でしたので……」

「あと二十日余りで私が王となる、か。兄上も焦るわけだ」

 長く息を吐き出した後、アクィラは小さく笑う。

「分かっているとは思うがな、ケルウス。くれぐれも兄上の前で私を「王」などと呼んでくれるなよ」

「……はい、我が王よ」

 アクィラは痛みを耐えるように目を閉じる。閉じられた瞼の裏で、消えそうな無数の光が幽かに揺れていた。



――――――――――――――



 兄王との会食に向かうべく、ケルウスらほんの少しの護衛を連れ、アクィラは己の住む居住群を発った。

 アクィラの住む居住群のすぐ近くには境界があった。何か大きなものによって線引きされたかのようにはっきりとした境界だ。

 近くでよく見てみれば、それらの植物の葉の形は向こう側とこちら側で同じであるのに、その色だけが明らかに違うことが分かる。まるで、その向こう側だけが、異なる時が流れているかのように。

 境界のこちら側はヒトの世界であり、境界の向こう側は「森」の世界なのだ。

 この「森」は生きている。比喩ではなく、本当に生きているのだ。

 そして「森」は人が立ち入ることを決して許さない。「森」の中に住まうのは「森」に許されたものと、神々だけだ。許されざるものが立ち入れば、「森」は容赦なくそれを殺す。「森」の周りに住むものは、寝物語としても経験としてもそれをよく知っていた。

 人は季節によって拡大し収縮する「森」の領域へと決して立ち入らぬよう、国を分け小規模な集団を作り、その居住群を移動させ続けていた。

 「森」との境界を沿うように進み、最も大規模な居住群、かつて父王が住まい、今は兄王が君臨するその場所にアクィラたちは足を踏み入れた。

 兄王との会食の場には、有力な臣も多く集まっていた。アクィラの姿を見るや、兄王は親しげに声をかけてきた。

「よく来たなアクィラ」

「お久しぶりです、兄上」

 アクィラは兄王に対して、臣下の礼を取る。両腕を顔の前に軽く持ち上げ、頭を垂れた。

「止めなさい。私はお前の王ではない」

「……いいえ、兄上なくしてこの国は立ち行きません」

 ちら、と窺った兄王の顔には確かに優越が浮かんでいた。多くの臣の前で、先王に代理を任じられた私が兄王に頭を垂れていることに対する優越だ。顔に浮かびかけた寂寞とした思いを無表情によって覆い隠し、アクィラは顔を上げる。

「変わらないな、お前は」

「はい。兄上もお変わりないようで」

 欺瞞に満ちたやり取りを終え、アクィラは漸く食事の席に着く。

 アクィラは数度食事を口に運び、兄王と当たり障りのない言葉を交わした。

「兄上、一つお聞きしても?」

「なんだ? 何でも聞きなさい」

「何ゆえ私を食事に誘われたのですか?」

「おや、兄が弟とともに食事をしたいと思うのはおかしいことか?」

「いいえ。ですが、態々お呼びになったということは何か私にお話があるのではないかと思いまして」

 アクィラは探るように兄王を見る。兄王は少し躊躇った後、杯を置いた。

「父上が「森」に入られたのはお前も知っているな」

「はい」

「父上は神域に向かわれた。曰く、神からあるものを授かるために」

「……存じ上げております」

 王が、神域である「森」に赴く。それはすなわち自死を意味していた。この国の王は代々いかなる賢王であっても、ある時期になると何かに誘われるかのように「森」へと消えていく。父王の父も、そうであったらしい。そして「森」へと向かった王は、今まで誰一人として帰ってくることはなかった。

「私はまだ諦めていない」

 周囲の臣は沈黙した。アクィラもまた黙ったまま兄王を見て、話の続きを促した。

「あの父上がそう簡単に死ぬものか。きっと「森」のどこかで足止めを食らっているだけだろう。私は「森」のどこかにいるはずの父上を探し、連れ帰りたいと考えているのだ。……それが叶わぬとしてもせめて、せめて父上の亡骸だけでも」

 兄王は辛そうに顔をしかめた。同席する臣たちは皆、父親想いの良い息子だ、と感銘を受けている。その様子を背後に控えるケルウスは冷めた目で見つめているのだとうと思い、アクィラは微かに苦笑した。

「では、「森」に兵を送られるのですか」

「ああ。だが問題もある。「森」は未踏の地だ。地図どころか、父上が向かわれた神域が「森」のどこにあるのかさえも分かっていない。だから神域へと辿りつくためには、お前のその……"先見"の力が必要だろう」

「貴様何を……ッ」

 何を言われたのかアクィラが理解する前に、背後に控えていたケルウスが激昂した。

 立ちあがり怒る声。次いで何かがぶつかる音。ケルウスが兄王の兵に押し留められているのだと知った頃になって、漸くその言葉の意味をアクィラは理解した。

 つまり兄王は、私もまた父と同じように神域に赴いて死ね、と言っているのだ。

「座れ」

 振り返らずにアクィラはそれだけを言った。少しの沈黙の後、背後でケルウスが座る衣擦れの音が聞こえた。

 アクィラは感情を出さぬよう努めながら、兄王を見た。

「この国にはまだ、父上が必要だ。"先見"であるお前が、この国にとってどれだけ重要であるかも理解している。だが、父上の居場所を知ることができるのもまた、"先見"であるお前だけなのだ」

 誠実そうな眼差しが、アクィラを真っ直ぐに見返した。

「行ってくれるな、アクィラ」

 形の上では問いかけだった。だが、アクィラは今、兄に賛同する臣に囲まれていた。そもそもアクィラを支持する臣は少なく、ここで拒否しようともどうせ結果は同じであることは分かっていた。アクィラには、拒否する権利は最初から与えられていなかった。

「……謹んで拝命致しましょう、兄上」

 アクィラは兄王に対して、臣下の礼を取り、答えた。

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