第5話
妖魔が指を弾いた瞬間だった。
少年の視界に、光があふれた。
圧力さえも伴う強烈な光は、少年の頭を弾き飛ばす寸前の妖魔の指を、白いさらさらとした粒子に変えた。
そして、覚醒は始まった。
「あああああああああ!」
光の中、少年が咆哮を上げる。
少年は、ゆっくりと立ち上がった。
立ち上がり、光に包まれたまま一歩踏み出す。
力強い一歩だ。
そのたびに、少年の身体は大きくなり、逞しくなった。
成長しているのだ。
着ていた粗末な着物は、数枚の布きれと化して、足下にわだかまっている。
そして眼は、鋭い輝きを宿し、真っ向から妖魔を睨みつけていた。
次々に仲間が消滅していく、その信じられぬ光景に金縛りにあったように動けぬ妖魔たちを呑み込み、若者――そう、すでに少年ではなかった――は、小屋の外に出た。
そして、村の中心にいる青銅鬼を見つけ、再びゆっくりと歩き出したのである。
そのとき、若者は光のオーラを身にまとっていた。
「どうやら、貴様が神の戦士らしいな。だが、目覚めたてで悪いが、貴様にはここで死んでもらうぜぇ」
青銅鬼が、血と内蔵にまみれた牙を剥き出しにして、凄絶な笑みを浮かべた。
「……さない…」
顔を下に向け、握った拳を震わせながら、若者が何かを呟いていた。
若者はこの瞬間、何があったのか、その全てを理解していた。
「――何だ? 安心しろ、お前もこいつらのもとに送ってやるよ」
青銅鬼が嗤う。
「今すぐになぁ!」
あの、何人もの村人たちを一瞬のうちに切り刻んだ拳が、今度はたった一人の若者に向けて放たれた!
風を巻いて繰り出される巨大な拳。
それは空間に断層を生み出し、そこから真空の刃を放つ。
その眼に見えぬ鋭利な刃が、若者に容赦なく襲いかかる。
全身を切り裂かれ、若者の姿が血の霧に包まれる。
その血煙をも払う勢いで、拳が迫る。
咄嗟に両腕を十字に組み、顔面への直撃を防いだ若者に、青銅鬼の全体重をかけた拳が叩きつけられた。
妖魔の全体重を乗せた拳は、凄まじい重圧――破壊力を彼に見舞うだろう。
如何な神の戦士と言えど、良くて、両腕は叩き潰される。
いや、それはない。
あるのは、腕のガードごと顔面を潰されて迎える絶対の死。
その筈だった。
「――馬鹿な!?」
それがまさか、受け止められようとは!?
青銅鬼の拳を、若者はその場から一歩も動くことなく受け止めていた。
そして、さらに信じられぬことに、無数のかまいたちによって切り裂かれ、血を流していた皮膚が、徐々にふさがりつつあった。
「貴様等、許さない!」
そのとき、若者のまとうオーラが、炎のように激しく燃え上がった。
青銅鬼が、思わず若者から跳び退いていた。
「許さんぞ、鬼ども!」
「ゆ、許さんだと!? 人間は虫けらだ。弱いものが強いものに駆逐されるのが、支配されるのが摂理なら、俺たちが人間を殺して何が悪い」
青銅鬼は気を奮い立たせるかのように叫んでいた。事実、彼は気づいていないかも知れないが、若者が一歩近づくたびに、彼は同じだけ退いていたのである。
「――悪いな」
「なに!?」
「お前たちは、俺の全てを奪ったんだ。俺を育ててくれた爺ちゃんと婆ちゃんを、そして村のみんなを殺した。そんな貴様等が、悪くないわけがないだろう!」
若者が叫ぶ。刹那、彼を中心にゆっくりと風が動き始めた。
何だ!?
何が起きるんだ?
青銅鬼はこのとき、生まれて初めて「恐怖」というものを感じた。
しかし、その不安定な、今にも全てが崩壊してしまいそうな感情のことを恐怖というなどと、今までそれを感じたことのない彼が知る筈がなかった。
ただ、とにかくそれから逃れたい、少しでも長く生き延びたいがために、彼は連れてきた妖魔を若者に飛びかからせた。
奇声を放って、妖魔たちが若者に襲いかかる。
そのとき、若者の声が妖魔たちの身体の向こう側から聞こえた。
「俺の名は桃太郎! その虫ケラの力、思い知るがいい!」
叫んだ。
そして――
再び、光が放たれた。
まばゆい光。
若者――桃太郎に飛びかかった数十の妖魔の醜い身体が、その光に触れた途端、その部分から白い粒子になって崩れ去っていく。
「…ああ…」
それを見て、青銅鬼はまた知らず退いていた。
やはり、これは神の光だ。
悪しきもの全てを浄化し、塩と化す聖なる光。
「う、わああああ!?」
死。
それを感じた瞬間、青銅鬼は絶望の叫びを上げていた。
そのとき、妖魔は見た。桃太郎の放つ光から、三つの小さな光が分かれるのを。
「何だ?」
その光は青銅鬼の周りを取り囲むようにまわり、やがて人間のような形になった。
「――!? な、何者だ!」
青銅鬼の正面に降りた光が言った。
「俺は、桃太郎様に使役される三聖獣の一〝
その、人のような形をした光は、狼の相貌と人の強じんな肉体を合わせ持った聖獣となった。
狼牙の前に突き出た口唇から、鋭い呼気が放たれ、青銅鬼をも凌ぐパワーの拳が打ち出された。
拳が腹に吸い込まれた途端、青銅鬼は「ぐうっ」と唸って、自分の巨体が地面から引き剥がされるのを感じた。
事実、青銅の妖魔の身体は、一瞬の内に高々と空中に舞い上がっていたのである。
「馬鹿な!?」
空中でくるくると回転しながら、青銅鬼はそう叫んでいた。
そのとき、彼は自分の位置よりもさらに上に、もう一つの気配を感じていた。それは、殺気であった。
そこにも、桃太郎から分離した光のうちの一つがあり、それは、大きな翼を持った人の形を取りつつあった。
「おなじく、天翔!」
光の翼が大きく羽ばたいたとき、そこから無数の光のかけらが射ち出され、うまく逃げることもかなわぬ青銅鬼の全身に雨あられと降り注いだ。
桃太郎の放つ光が神の光なら、そこから離脱した聖獣の光もまた神の光。
迸る閃光に貫かれた箇所が、塩の粉と化して崩壊していく。その様を見て、青銅鬼は気が狂いそうになった。
眼を射抜かれ、世界は急に暗転した。
そのとき、青銅鬼はついに恐怖の叫びを上げていた。
地面に落下した後も、眼が見えぬための暗闇と、全身を疾り抜ける激痛、そして、身体を塩に変える光への恐怖に狂い、叫び、のたうちまわっていた。
無惨であった。
「ひぃぃ…し、死にたくねぇ…た、助けてくれぇ」
四つん這いになり、辺りを探るように必死で両腕を動かす。
全くみじめであった。
「弱いものが強いものに駆逐されるのが自然の摂理だとか言っていたな」
青銅鬼は、空洞と化した眼窩を声のした方向に向けた。
彼には見ることは出来なかったが、そこには、純白の毛に覆われた大きな猿が立っていたのである。
「俺は、羅猿。ならば、お前の死も自然の摂理というわけだ。自分で言ったんだ、文句はなかろう」
風の唸り。眼の見えぬ恐怖。耳の奥でゴオゴオと風が鳴る。
羅猿が、手にした杖を自分の頭上で激しく回転させているのだ。
それがわからないから、青銅鬼の恐怖は嫌でも増し、その場に縛りつけてしまう。
「哈あっ!」
羅猿が裂帛の気合いを放ち、振り回していた七尺ほどの杖を、青銅鬼の背中へ振り下ろした。
ぐええ、と無様な叫び声を上げ、蛙のように地面にへばりついた青銅鬼に、一瞬の猶予も与えず、再び羅猿は杖を打ち下ろした。
今度は、左の踵に突き刺したのである。
「ぎゃああああ!?」
青銅鬼の弱点――それは、左の踵の皮膚が異常に薄いこと。
そこを貫かれれば、たちまちのうちにその傷口から、彼を構成する霊体が漏れだし、青銅鬼は死に絶えるのだ。
数秒後、青銅鬼はひからびた
一方、桃太郎の発した光は、昇り始めた太陽の光よりもまばゆく、そして神々しく広がり続け、妖魔を次々に塩の柱と変え、村人の死体を浄化し、やがて、村全体を包み込んで消えていった。
村は静寂を取り戻した。
生きているものは一人もいない。
桃太郎たちを除いて。
彼等は、全てが無に帰した寂静の地で、ただ茫然と立ち尽くすのみであった。
神の光は、家屋だけでなく、半径三里にもわたって森や山、地上にある全てのものを消滅させていたのである。
「あの化物が、俺のことを神の戦士と呼んでいた…俺は何者なんだ…? この
桃太郎は地面に座り込んで、彼を取り囲むように立つ三人に眼を向けていた。
人と動物とが合わさったような姿。人間でもなく動物でもない存在――彼等は自らを聖獣と呼んでいた。
「あなたは、鬼ヶ島の鬼を討つという宿命を神より授かった戦士なのです」
鳥の顔をした聖獣『天翔』が、そう告げた。
「鬼を、討つ…?」
「そうです」
狼男――聖獣『狼牙』が引き取る。
「二年前、あなた様の村は、奴等『鬼』の手によって滅ぼされました。あなた様はその村の唯一の生き残り。母上様が命をかけて、あなた様をお守り下さったのです」
そう告げられて、桃太郎は初めて『母』という存在を実感した。
そうだ。俺には母がいたのだ。
微かに記憶がある。
母の胸に抱かれて過ごしたわずかな日々。
それを、奴等が無情にも奪っていった。
そして、今もまた――
「……母さんが。では、母さんは、もう…?」
「恐らく。そして、あなた様にも鬼の魔手は容赦なく迫りました。そのとき、先程と同じようにあなた様の身体から光があふれ出し、鬼どもは全て塩の塊と変えたのです」
「――川を流れてきた俺を拾ってくれた婆ちゃんが、俺は大きな桃の実に包まれていたとよく言っていたが……?」
「はい。桃の実は退魔破邪のしるしなのです。恐らく神の光が凝集して、あなた様をお守りしていたのではないかと」
そう答えたのは、聖獣『羅猿』であった。
「――そうか。それで、お前たちは?」
「我々は、あなた様に使役され、
と狼牙。
「艮の魔?」
「はい。艮とは北東の鬼門を指します。そこは遥かな昔より、人々の吐き出す怨念、妬み、怒り、憎しみなどといった悪想念の溜まり場となっていました。今、鬼ヶ島の鬼どもはその鬼門を開け放とうとしております」
「――開け放たれると、どうなるんだ?」
「この世に人が誕生して以来、永劫にも似た時の間に蓄積された悪想念が、一気にこの地上に放出されることになります。そうなれば、その凄まじい悪意の波動の前に、この地上に住むあらゆる生物が発狂することでしょう」
「まさに地獄だな」
「はい」
「そうさせぬための俺たちというわけか」
「はい」
狼牙が頷く。
「――しかし、俺には奴等と戦うための武器がない」
「――ございますよ」
羅猿が太い唇に笑みを浮かべながら言った。
「え?」
「手を、天にかざして下さい」
桃太郎は、羅猿に言われるままに、手を天に高々とかざした。その途端、手のひらが熱くなり、陽光にも似た鋭い輝きがそこから伸び上がった。
それは、細めの両刃を持った一振りの剣であった。
「…これは…」
桃太郎が、掌から現れた剣の手にして呟く。剣はまるで身体の一部であるかのようによくなじみ、重さをまるで感じさせなかった。
「あなた様の剣です。名を『青龍剣』」
天翔が言った。
いい名だ、と桃太郎は思った。
「――行くか。奴等をぶっ倒しに」
剣を一颯し、桃太郎はニッと笑った。
朝日が、彼等の身体を優しく包み込んでいた。
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