第110話:黒歴史と邂逅しました。
「ありがとう。ここでいいわ」
女史に言われてとめたのは、とあるマンションの前に設けられた一時駐車場。
目の前にあるのは、颯爽とそびえるグレーのタワー。
手前はテラス、その先の入り口は大きなガラス張りで、中には大きめのホールがあり、奥には中庭のような物がうかがえた。
セキュリティにはうるさそうだし、サービスも良さそうだ。
そして値段も高いのだろう。
女史は、この上層階に住んでいるという。
つーか、驚いたことに、この辺りはミヤの家からも近いではないか。
ここから最寄りの駅の方に歩いて5分程度しか離れていない。
これ、なんかのフラグじゃないだろうなと、くだらないことを考えてしまう。
そんなラブコメ漫画みたいな展開はさすがにないだろうと思うが、なんとなく長居するとヤバい気がする。
ここは早めに立ち去った方がいいだろう。
今日はヘトヘトなのに、これ以上のいざこざは絶対に嫌だ。
「お疲れ様です、じょ……教子さん」
「ええ、お疲れ様。それとごめんなさいね。やっぱりやり過ぎたかも。気をつけるわ」
珍しく彼女の柳眉が力なくたれてしまう。
その声にも、いつものような力もない。
これは本気で後悔しているのだろう。
「…………」
オレはつい噤んでしまう。
いつもいつもそうだが、女遊びをしようとしていたわりに、こういう時にかける言葉をもっていない。
口も回らないのに、よくもまあナンパなどしていたものだと思う。
そう言えば、大学の頃につきあっていた彼女が落ちこんだ時でも、ろくな言葉をかけてやれなかった。
(つーか、それどころか『うざい顔するな』みたいなことを言ったような……)
思いだすと、背筋が寒くなる。
やはりオレは最低な奴だ。
ああ、黒歴史。
余計なことを思いだしてきたら落ちこんできたぞ。
「迷惑……かけちゃったわね」
そのオレの顔色のためか、女史の顔がよけいに落ちこむ。
これはヤバい。
なにか言わなければ。
だが何を言えばいいのだろう。
――迷惑じゃないです。
――嬉しかったです。
――問題ないです。
なんかどれも言い訳の慰めみたいだ。
せっかく女史が自分から言い寄ってくれたのだ。
オレからもなにか歩みよるべきではないのか。
「本当にごめんなさい、大前くん。私……」
「――アウトっす!」
歩みよるために思いついた言葉をオレは口にする。
「……はい? それは許さないってこと?」
「……あっ。そうじゃなくてですね!」
しまった。
これでは歩みよるというより、拒否しているみたいではないか。
言葉が足らなかった。
「オレのことは、プライベートではアウトと呼んでください!」
「……え? アウト? 大前くん、名前は
「オレ、あっちの世界でアウトって呼ばれているっすよ。なんか現人とアウトランナーが混ざって伝わってしまって……」
「そ、そうなの?」
「ええ。ミヤちゃんもオレのことはアウトって呼んでるんで。ただみんなの前では変だし恥ずかしいので大前でお願いします」
「そう。私だけじゃなく、神宮さんもすでにそう呼んでいるんだ……ふーん……」
(……あれ?)
なんか今度は打って変わって冷気をまとう尖った声色。
彼女は顔を背けたまま助手席のドアを開ける。
「教子さん!?」
無言のままで車を降り始める女史。
オレも慌ててシートベルトをはずして車を降りる。
ボンネットに手をつきながらヘッドライトの光を横切って、最速で直立している女史の横に立つ。
その横顔は無表情。
細い眼鏡の明眸が何を語っているのかわからない。
「あ、あの――!?」
声をオレがかけた瞬間だった。
彼女の手がオレのネクタイの根元を掴んで引っぱった。
前のめりになる上半身。
突きだされた顔。
重なる唇。
「……!?」
夢か幻か。
あの高嶺の花の容貌が目の前にある。
こんな事ありえるのだろうか。
「…………」
混乱したオレには、その夢幻の時が無限の長さに感じていた。
でも、実際はたぶん1秒か2秒か。
唇が離れ、ネクタイから手が離れてもオレは身動きが取れずにいた。
「…………」
しばらく無言で思わず見つめ合う。
そして先に口火を切ったのは、彼女の方だった。
「とりあえず今日は、スタート地点に並ばせてもらったところで勘弁してあげるわ。明日もよろしくね、アウトくん」
エントランスの照明に照らされた笑顔が赤らんでいるのがわかる。
オレはなんとか「うっす」と答えるのがやっとだった。
なにしろ会話はそれで終わり。
彼女はクルッと踵を返すと、あとは振りむきもせずに早足で建物の中に消えていったのだ。
(なんかオレ……ミヤちゃんにもこのパターンでやられたような……)
彼女の姿が見えなくなって、オレは自嘲気味に笑ってしまった。
なんだか不思議と「モテている」という感覚がなかった。
それどころか、有頂天になって大興奮してもおかしくない状態だというのに、むしろオレは怖かった。
どこか今の自分が自分じゃないような気さえしていた。
少し前までの自分と、今の自分が同じとは思えない。
いったい本当の自分は、どっちなのだろうか。
もしかしたら、オレは夢を見ているだけなのではないだろうか。
そんなことを考えながら、オレは運転席に戻ろうと踵を返した。
「相変わらずだね、現人……」
思わず、オレはビクッと体を震わせて息を呑んだ。
建物横の少し離れた薄闇から、女性が一人ゆっくりと歩みよってきた。
一瞬、まさかフラグ回収でミヤかと疑うが、見た目が全然違う。
エントランスの弱い光に照らされたのは、ショートヘアに丸めがね。
長袖のシャツに白いジャケットを羽織り、下はジーンズの長ズボンに運動靴を履いていた。
少し男っぽい服装だが、その声と大きめの胸から女性だと思う。
「まあ、アタシの事なんて覚えてないよね……」
その少し寂しそうな声には聞き覚えがある。
つーか、だんだんと近づいてきて、よく見えるようになった容貌でオレは確信する。
そう。オレは彼女を知っていた。
「
「あら、驚いた。覚えていてくれたなんてね……」
まちがいなかった。
彼女の名前は【
オレが後悔している黒歴史での一番の相方。
大学の頃につきあっていた、元恋人だった。
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