Act.3
店に連れて来られた時は、一時間程度で切り上げるだろうと思っていたのに、気付くと三時間以上も粘っていた。
いや、夕純に帰る気配がなかったから、途中で帰ることが出来なかったのだが。
しかも、本当に夕純に全額奢らせてしまった。
結構な金額になったから、涼香も悪いと思って財布を出したのだが、「いいから!」と強引に引っ込められてしまった。
「言ったでしょ? 今日は私の奢りだ、って。それに、強引に誘ったんだから、ちょっとでも出させてしまったらいたたまれないわ」
そこまで言われると、素直に従うしかない。
「それじゃあ、ごちそうになります」
深々と頭を下げると、夕純は満面の笑みを浮かべた。
「素直が一番よ」
そう言いながら、夕純は女将にお金を払う。
会計を済ませると、ふたりは「ごちそうさまでした」と女将と旦那に挨拶してから店を出た。
春先の夜は冷える。
しかし、だいぶアルコールを呷ったから、そのひんやりとした空気がとても心地良く感じる。
「酔い覚ましにはちょうどいいわね」
夜空の下を歩きながら、夕純が大きく背筋を伸ばす。
とても酔っ払っているようには見えないが、もしかしたら、量を飲んでもあまり顔に出ないだけなのかもしれない。
そんな涼香も、顔に出ない方ではあるのだが。
「やっぱりいいわね」
唐突に呟いた夕純を怪訝に思いながら、「何がです?」と涼香が訊ねる。
夕純は涼香を見上げ、目尻を下げながら口元を微かに綻ばせた。
「お酒強い女の子と飲むの。というより、男の話を全くしない女の子と、ね」
「――それって私が男性に縁がなさそう、ってことですか?」
「そうじゃないわよ」
涼香の皮肉に、夕純は肩を竦めながら苦笑する。
「山辺さんも言ってたじゃない。『媚びる女は嫌いだ』って。普段はこっちが引くぐらいガサツなくせに、ちょっといい男が目の前にいるだけで態度を180度変えちゃうのってどうよ、って思うのよね。まあ、ある意味凄い特技だと思うけど。男も男で馬鹿だから、そういう女にすぐ引っかかって、本性を知ったとたんにポイ。どっちもどっちよね」
何故、夕純がこんな話をするのか涼香には理解不能だった。
もしかしたら、酒の勢いで本音を漏らしているのだろうか。
(この人、愚痴を零せる相手がいなさそうだしね)
涼香も同様なのに、自分のことを棚に上げてそんなことを思う。
夕純は自分に強い誇りを持っている。
それは涼香から見てもよく分かる。
ただ、それだけに、周りに頼るということが出来ない不器用さがある。
(損な性格だよね。って、これこそ人のこと言えないけど、私も……)
涼香は俯き加減で歩きながら、ひっそりと苦笑いする。
また、不意に紫織のことを想い出した。
「山辺さん」
名前を呼ばれ、ハッと我に返る。
顔を上げて夕純を見ると――正確には、見下ろしているのだが――、眉根を寄せて少し哀しげに笑みを浮かべる彼女と目が合った。
「山辺さんは今、恋とかしてる?」
予想外の問いに、涼香の心臓が跳ね上がる。
いや、予想外という以前に、『恋』という単語に過剰反応してしまった。
「恋、ですか?」
動揺を悟られまいと努めて冷静に訊き返す。
そんな涼香を夕純は真っ直ぐに見据えながら、ゆったりと言葉を紡いでゆく。
「うん。山辺さんって男っ気がないから。山辺さんの見た目だけで、『男泣かせな女』なんて茶化していた馬鹿な男もいたけど、実は異性に警戒心が強いんじゃないかって」
「――間違ってはいませんね」
嘘を吐く必要もないと思った涼香は、正直に頷いた。
「男性不信じゃないですけど、あまり得意じゃないのも確かです。昔からこの外見だけで、『お高く留まってる』とか、『取っ付きにくい』とか言われてうんざりしてましたから。まあ、女子も女子で、親友以外はほぼ、私と距離を置いていたような感じでしたね」
そこまで言って、自分こそ酔っ払っているのだろうか、と涼香は思った。
苦手だと思っていた上司なのに、ここまで自分を曝け出してしまうなんて。
紫織にすら、本当の自分を見せるまでに相当な時間を要したというのに。
(それとも、唐沢さんも色々話してくれたから安心してしまったの、かな……?)
涼香はまじまじと夕純を見つめる。
涼香の視線をまともに受けた夕純は、「どうしたの?」と困ったように微苦笑している。
「いえ、何となく」
そう答えると、夕純は苦笑いしたまま首を傾げる。
こうして見ると、やっぱり可愛い。
普段の夕純を知らない人がこの仕草を目の当たりにしたら、仕事を男性並みにバリバリこなしているとはとても信じられないだろう。
「で、さっきの質問の答えは?」
「恋のこと、ですか?」
「もちろん」
大きく首を縦に動かしながら強調され、涼香は内心辟易した。
プライバシーの侵害もいいところだ。
「人の恋愛話を酒の肴にでもするつもりですか?」
つい、棘を含んだ言い方をしてしまった。
だが、上司だろうと人の心に土足で踏み込むような真似はされたくない。
涼香は心の底から思った。
そこでようやく、夕純も涼香の気持ちを察したらしい。
夕純にしては珍しく、「そんなつもりじゃ……」と気まずそうに口籠った。
「ごめん、確かに無神経だったわ……。でも、別にただの興味本位で訊こうとしたわけじゃないのよ。それだけは信じて?」
夕純は足をピタリと止め、「ごめんなさい」と謝罪する。
謝られると思わなかった涼香は、すっかり面食らってしまった。
「あ、いえ。私も言い方がきつかったですから」
涼香は少し悩み、「頭を上げて下さい」と静かに促した。
ゆっくりと、夕純が頭を上げる。
その表情は、涼香の機嫌を覗うように怖々としていた。
(なんか調子狂うなあ……)
十歳も上の人なのに、涼香の方が身長が遥かに高いから、逆に華奢な可愛い女の子を苛めているような心境になる。
幸い、この辺は人通りがないから良かったものの、誰かひとりでもこの現場に遭遇していたら、間違いなく、涼香が夕純を苛めていると勘違いされていただろう。
「私もダメね……」
夕純は溜め息を吐くと、再び歩き出した。
涼香も倣って隣に並ぶ。
「好きな子を前にすると見境なくなっちゃって。それをよく分かってるから、気を付けようとしてたのに、また墓穴掘っちゃったわ……」
「――え?」
涼香は思わず、眉をひそめて夕純を睨んだ。
その視線に気付いた夕純は、「あ、違う違う!」と慌てて否定した。
「この場合の〈好き〉は恋愛とは無関係だから! えっと……、〈妹を溺愛する姉〉とでも言った方がいいかしら?」
「私が、唐沢さんの妹、ですか……?」
「――迷惑?」
「いや、迷惑とかそういうわけじゃ……」
「なら、友達は?」
「――唐沢さんを〈友達〉として見るのは難しいんですけど……」
「――そう……」
淋しそうに微笑まれてしまった。また、意地悪をしている気分にさせられる。
「友達、というか、こうしてたまに一緒に飲みに行くならいいですよ?」
そういう関係こそ〈友達〉じゃないか、ともうひとりの涼香が突っ込んできたが、あえてそれは無視した。
だが、夕純に『一緒に飲みに行く』はてきめんに効果があったらしい。
パッと表情を輝かせ、先ほどとは打って変わって満面の笑みを向けてきた。
「飲みに付き合ってくれるだけで充分。それじゃ、また今度違う店も教えるわ。そうそう、私のことは下の名前で呼んでくれていいから。プライベートぐらいは苗字はやめてもらいたいし。私も『涼香ちゃん』って呼ばせてもらうわ」
「りょ、涼香、ちゃん……?」
普段、〈ちゃん付け〉で呼ばれ慣れない涼香は、全身に鳥肌が立つのを感じた。
「もしかして私、調子に乗り過ぎた……?」
恐る恐る訊ねてくる夕純に、涼香は「そうじゃないですけど」と続けた。
「ただ、ちゃん付けはちょっと……。それなら呼び捨ての方がいいです」
「呼び捨て? 下の名前でもいいの?」
「ちゃん付けじゃなければ、下の名前で呼ばれるのは全然構いません。ちゃん付けじゃなければ」
〈ちゃん付け〉を断固拒否している涼香は、強調するために二度繰り返した。
さすがに涼香の必死さは夕純にも伝わったらしい。
苦笑いと同時に肩を竦めながら、「分かったわ」と納得してくれた。
「なら、お言葉に甘えて『涼香』って呼ぶわね。あ、私は好きなように呼んでいいから。呼び捨てが楽なら呼び捨てでも」
「――いや、呼び捨ては出来ないので私は『夕純さん』で……」
さすがに、年上に呼び捨てもないだろう。
夕純を見ている限り、呼び捨ても受け入れてくれそうだが、涼香もそこまで礼儀知らずではない。
「なんか嬉しいわねえ。今の職場で下の名前で呼んでくれるのって涼香以外にいなかったもの」
夕純の腕が涼香のそれに絡まれる。
考えてみたら、涼香は全く同じ行為を紫織にいつもやっては怒られていた。
(今度は私がやられる側になるとはね……)
相手が相手だから邪険に振り払えなかった。
いや、振り払う気もなかったのだが。
(手間のかかる〈姉ちゃん〉だ)
涼香は口元を歪めながら、夕純のなすがままにされていた。
[第一話-End]
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