春風 ~四季の想い・第二幕~
雪原歌乃
第一話 飲んで飲まれて
Act.1
『それだけ美人だったら、相当男を泣かせてきたんじゃない?』
入社した当初、彼女は酔っ払った男性上司にそんな不躾な質問を投げかけられた。
彼女は、「そんなことないですよう」とヘラヘラ笑いながら躱したものの、内心は腸が煮えくり返りそうだった。
何故、見た目だけで人間像を勝手に作り上げられるのか。
彼女自身、顔の作りがそこそこ良いのは自覚しているものの、だからと言って、自分に自信があるわけではない。
むしろ、人一倍コンプレックスの塊だと思っている。
だが、他人に弱い部分は見せたくないから、強い自分を演じ、仕事も男性並み――いや、男性からも一目置かれるほどこなしてきた。
仕事は大変だ。
しかし、大変な分、やりがいもある。
何もすることがないと考え込んでしまう癖があるから、彼女にとっては毎日仕事に追われている方が気が晴れるので良かった。
◆◇◆◇
定時で仕事を終え、彼女――
そこには涼香だけでなく、同僚や、他の部署の女性もチラホラいて、それぞれ話をしながらダラダラと着替えている。
「てかさ、あいつすっげえ鬱陶しいんだけど」
「チョームカつくよねえ」
同じ部署内にいる上司の悪口でも言っているのだろう。
涼香は彼女達のキンキンと響き渡る声を聴きながら、眉をひそめてひっそりと溜め息を吐いた。
(あんたらが一番鬱陶しいわ)
口にはさすがに出せないので、心の中で彼女達に言い放つ。
本当に、この場にあの煩い口を塞げる針と糸があったなら、迷わず手に取ってこいつらの口を封じてやるのに、とも涼香は思った。
(とっとと帰ろう)
私服に着替えた涼香がロッカーを閉め、バッグを肩にかけた時だった。
更衣室のドアが、カチャリ、と静かに開いた。
とたんに、それまでキンキン声で溢れ返っていた室内がシンとなった。
入って来たのは、150センチあるかないかの小柄な女性。
一見すると愛らしいが、周りは彼女の本性をよく知っているだけに警戒心を露わにしている。
(あーあ、〈お局様〉にビビッちゃってんわ)
彼女達のあからさまな態度の豹変に、涼香は呆れるのと同時に、そういうことか、と即座に分かった。
ついさっきまで彼女達が話のネタとして挙げていたのは、まさにこの〈お局様〉だったのだ。
「お疲れ様です」
全く彼女達に便乗していなかった涼香は、当然、疚しいことなど全くなかったので、ごく普通に〈お局様〉に挨拶する。
〈お局様〉は、自分よりも20センチ近くも差がある涼香を見遣ると、口元にほんのりと笑みを乗せて「お疲れ」と返してくれた。
涼香が挨拶したのをきっかけに、それまで固唾を飲んで黙っていた彼女達も、ボソボソと〈お局様〉に挨拶した。
ただ、涼香と違って全く心が籠っていない。
それは〈お局様〉にも伝わったらしく、涼香に向けた優しい微笑みを引っ込め、皮肉めいた苦笑いをお見舞いしていた。
「あ、私達そろそろ。すいません、お先しまーす!」
さっきまでウダウダしていたくせに、〈お局様〉が現れたとたん、そそくさと行動し、追われるように帰ってしまった。
更衣室には、涼香と〈お局様〉が残された。
どちらも共通して無駄話は好まない方だから、耳鳴りが煩く響くほど静けさに包まれる。
着替えはすでに終えていた。
だが、完全に帰るタイミングを失った涼香は、何となく、〈お局様〉が着替えるまで待ってしまった。
〈お局様〉は最初、涼香がいたことに気付いていない様子だった。
しかし、ロッカーの鍵を閉め、バッグを肩にかけた頃になって、ようやく、「あら」と驚いた様子で涼香に視線を注いできた。
「山辺さん、待っててくれたの?」
まさか、単純に帰りそびれたとは言えなかったので、「はい」とだけ答えた。
そんな涼香を〈お局様〉はどう思ったのだろう。
どこどなく鋭い眼光を向けてくる。
小ぢんまりしているのに目力だけは凄い、と涼香は改めて思い、無意識に身を縮ませてしまった。
(やっぱ怖いよ、この人……)
さすがに、この場から逃げ出してしまいたい衝動に駆られた。
だからと言って、先ほどの彼女達のようなあからさまな行動だけは取りたくない。
そんな葛藤を心の中で繰り返していた時だった。
「山辺さんって」
真っ直ぐな視線はそのままで、〈お局様〉が続ける。
「お酒好きよね?」
突然の質問に、涼香は一瞬、答えに窮した。
だが、すぐに我に返り、「はい」と頷いた。
「嗜む程度ですけど、好きです」
酒が好きなのは本当だから素直に答えると、〈お局様〉は表情を和らげ、ニッコリと満面の笑みを浮かべた。
つい今までの鬼の形相が嘘のように、愛らしい笑顔だ。
かと思ったら、また、驚くことを涼香に提案してきた。
「ね、これから予定ないなら一緒に飲みに行かない?」
「――はい?」
この時の涼香の表情は、非常に間抜けなものだったかもしれない。
少し顎を突き出すようにポカンと口を開けながら、〈お局様〉をジッと見つめてしまった。
〈お局様〉は相変わらず、ニコニコしながら言葉を紡いだ。
「山辺さんって相当強いでしょ? 今年の新年会でガンガン飲んでる姿見てたら、一度ふたりで飲んでみたいな、ってずっと思ってて。でも、どうしても誘うタイミングが掴めなくてね。今日はラッキーだったわ」
「はあ……」
これは喜ぶべきなのだろうか。
涼香は曖昧に返事をしながら考えた。
確かに酒には惹かれる。
だが、〈お局様〉とふたりきりで飲むとなると気を遣ってしまい、楽しく飲めないのではないだろうか。
とはいえ、断る理由も見付からない。
この辺が、涼香は先ほどの彼女達と違って非常に要領が悪い。
帰るタイミングを失った時点で、それを見事に物語っている。
「あ、ごめん」
〈お局様〉が涼香に謝罪してくる。
涼香のような目下の人間に謝るなど想像出来なかっただけに、涼香はまた、驚いて目を見開いてしまった。
そんな涼香にお構いなしに、〈お局様〉は続ける。
「私の都合ばかり押し付けちゃって……。あ、予定があるなら無理しなくていいの! もし良かったら、ってことだから! うん!」
珍しく〈お局様〉が慌てふためている。
〈お局様〉の様子から、無理強いをさせる気がないのは何となく伝わってきた。
だが、ここまで必死になっている姿を見たら、断る理由を模索していたことに罪悪感を覚えてきた。
もしかしたら、飲みに行きたくても誘える相手がいなくて淋しい思いをしているのではないかと。
「いいですよ」
自然と涼香は答えていた。
多分、一緒に飲んで楽しくなければ二度と誘われることもないだろう。
そう考えたら、別にいいか、と前向きになれた。
「ほんとに、いいの?」
念を押すように訊ねてくる〈お局様〉に、涼香は「はい」と首を縦に動かす。
ちょっとしつこい、とは思ったものの、やはり口には出さなかった。
「それじゃ決まりね。あ、もちろん今日は私の奢りよ。それと、私の行きたい店になっちゃうけど、それでもいいかしら?」
「もちろんです。私は飲めれば充分ですし」
「あら、やっぱり飲んべえね」
カラカラと朗らかに笑う〈お局様〉の手が、涼香の手首を掴む。
小さいのに、握力はかなりなものだ。だが、相手が上司だと思うと強引に振り払えない。
(けど、奢りってのはかえって怖いわ……)
今、涼香も手持ちがないわけではない。
最後にでも、割り勘でお願いするつもりだった。
(ま、外で飲むのなんて久々だし、好きなだけ飲んじゃおっか)
〈お局様〉に引っ張られながら、涼香は店に着くまで楽しいことだけ考えるようにしていた。
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