黒百合の記憶―裏切りと破滅―

 荷物の中に、俗に言う給料三ヶ月分なんていう、そこそこのブランドものである指輪を忍ばせる。

 約束の時間までには、まだ少し余裕があって。

 待ち合わせ場所である喫茶店に向かう道すがら、静流は若槻市内の商店街をぶらぶらと歩いていた。

 休日の若槻市内では、仲良く買い物中と思しき親子連れや、デート中であろう若者のカップルなど、たくさんの幸せとすれ違った。自分も近い将来、奥さんと――願わくは紗織と。そして香澄や新しく生まれてくるであろう子供と、そんな幸せの仲間入りをしたいと強く思う。

 佐川の家族を見守る優しい表情が、今でも脳裏に残っている。

 これから起こることが楽しみであるような、けれどやっぱり少しだけ緊張するような。どきどき、そわそわ。不思議な気分だ。

 人の多いデパートやスーパーマーケットの並ぶ、賑やかな商店街を抜けると、ホテル街に続く路地裏が微かに見える。夜になるとひとたび活性化するそこは、まだその鳴りを潜め、静かにぼんやりと、誰にも気づかれることなく確かに存在していた。

 普段の静流なら、きっと気づいていなかった。そのまま、何事もなく通り過ぎていたかもしれない。

 向こうの方から手をつないで歩いてきた若い親子連れが、少し近道でもしようと話したのだろうか。何も疑うことなく、路地裏の方向へ足を踏み入れようとした。

 そして、何気なくそちらへ目を向けた静流は――見てしまったのだ。

 薄暗い路地裏の奥、熱烈に唇を重ね合う男女。

 女は男のたくましい首へしなやかな両腕を絡め、男は女のはだけた胸元に手を這わせている。

 もちろんそれが普通の、面識もない男女のカップルであったなら、きっと彼もさほど気には留めなかったに違いない。

 口づけに夢中で気付いていない女は、静流にほぼ背を向けている。けれど、そのシルエットは見紛いもしない。これから会う約束をしていたはずの、自身の恋人で。

 余裕ありげにちらりと、瞼を上げた男と目が合った。向こうは静流の存在に小さく目を見開いたが、やがて諦めたように瞳を閉じ、女の――紗織の、腰へと腕を回して引き寄せる。

 やがて、息を切らしながら二人は唇を離す。きらりと光る銀の糸が、昼下がりの街中に艶めかしく映った。

 紗織の横顔は、男をうっとりと見つめている。

 男は――先日、自身の家族について自慢げに話していたはずの浩介は、さも当然のごとくその肩を抱き、駐車場の方向へと消えていった。


 路地裏を出て、ふらふらと道を歩く。

 そこそこ人の多い路上に、ぽっかりと空いたスペースが見えてきた。その中心には、吐瀉物を撒き散らしながら泣きわめいている少女がいる。

 見覚えがある。かつて、佐川の家にいた可愛い娘だ。

 彼女も――帆波も、あの惨劇を見たのだろうか。

 先ほど見かけた親子連れは、佐川家の妻と娘だったのかもしれない。

 発展途上の柔らかな心に牙を立てられ、ひどく傷ついたであろう少女を哀れに思い、そっと手を差し出した。

 しかし。

 ――パシッ、

 錯乱していたのであろう、その手を帆波は乱暴に振り払った。そのまま脇目も振らず声が嗄れるほど泣き叫び、やがて疲れ切って倒れ込んでしまう。

 少女からの攻撃の効き目など、成人男性に対してはほぼないに等しいほど虚弱で、もちろん衝撃はなかった……はずだった。

 けれど、何故だろう。じんじんと痛い。

「帆波ちゃん、大丈夫!? 帆波ちゃん!!」

 母親と思しきヒステリックな叫びと、街の喧騒がざわざわと聞こえる中、少女から不要だと蹴散らされた手をぎゅっと握って、歯を食いしばる。

 声も出さずただ立ちすくみ、静流はそっと涙を流した。


 ――もう、やけくそだったのかもしれない。

 次の日、香澄を助手席に乗せて、静流は車を走らせた。

「おいちゃん、どこへ行くの」

 香澄から投げかけられた困惑気な質問にも答えず、ただ黙々と運転に集中する。信頼してくれているのだろうか、やがて香澄は何も言わなくなり、大人しく助手席に座っていた。

 市街地を離れ、徐々に道は暗く、人気もなくなっていく。これからどこに行くのか、自分たちは一体どうなるのか、そんなことはもはや静流自身にもわからなかった。

 対向車線から、一台の車が走ってくる。

 外車と思しき立派な見た目の車体は、何故か不自然なほどぐらぐらと揺れていた。今にも車線をはみ出してきそうな勢いだ。

 このままでは、ぶつかるのではないか。

 危険を感じた香澄がスピードを落とすよう静流に進言するが、彼は相変わらず淡々と車を走らせている。

 アクセルを踏んだまま、身じろぎもしない。

 香澄はだんだん怖くなってきた。冷や汗が、幼い頬を伝う。

「おいちゃ、」

 ――キィッ、

 高い音が上がったかと思うと、前方の車のスピードがぐんと上がる。それでも静流はスピードを落とさない。そのままの勢いで、徐々に二台の車が近づいていく。

「おいちゃ――」

 刹那、ライトが対向車の車内を眩しく照らした。二人の男が取っ組み合っているのが見える。助手席から身を乗り出した酔っ払いの男が、運転席に座る生真面目そうな明るい髪の男に、絡んでいて。

 そのせいで、この車の運転はおかしくなっているようだった。

 香澄が細かいところまで認識し、全てを理解しきる間もなく、やがて大きな音を立てて二台の車は衝突した。割れたガラスが香澄の頭を容赦なく切り裂き、生暖かい血が額から流れてくる。

 息が切れ、徐々に霞んでくる視界の中、ぼんやりと見える対向車は助手席――外車なので、運転席と助手席が通常とは逆のようだ――が潰れてしまっていた。しかし助手席にのっていた人間の身体は運転席へほぼ乗り上げているため、ほとんど傷はないらしい。

 痛みに耐えながら、香澄は反射的に横を見る。

 どうやらもろに運転席へとぶつかったらしいので、車体はほとんどぐちゃぐちゃになっていた。こちらとは比べ物にならないほど、ガラスや部品が飛び散り、運転席めがけて無遠慮に散らばっている。

 その中で静流は、全身から血を流し、ぐったりと力尽きていた。


    ◆◆◆


「……なるほどね」

 受けたヒントをもとに身辺をまんべんなく洗っていくうち、ようやく謎が解けた。家が近く幼馴染と言っても差し支えないほど近い位置にいたはずなのに、まったく知らなかったことだ。

 『本人』に打ち明けるべきかは、随分と悩んだところだが……。

「俺自身も、あの女に弱み握られちまったことだし」

 初恋の女性だと思って、との甘い言葉に、まんまと誘われてしまった自分自身が腹立たしい。

「……俺の中にも、あったんだなぁ。『悪意』ってやつが」

 彼女とは――佳月とは、全然違う女であったはずなのに。

 だからこそ……いや。いくらそうでなかったとしても、関係・・だけは決して持つまいと、決めていたのに。

「宮代の奴に、あんな偉そうなこと言えなかったわ」

 人間の心の奥底に眠る、悪意の具現化ともいうべき黒百合の腐臭の、何と甘美なことだったか。

 思い出すだけで、情けなくも下半身が疼いてしまう。

「まぁ、それより」

 交わされた情事の生々しい余韻が、未だに色濃く残るホテルのベッドを横目に、忍海は溜息交じりに呟いた。

「死んだ男の代わりに……道連れなんかに、されなきゃいいけどな」

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