第21話 女神の思し召し

 天空城の玉座の間で、イワンは何時間も考えこんでいた。

 玉座に腰かけ、手のひらの上の花びらを見つめて。


「……何をお考えなのだ、女神よ。姫を導いたのも、あなたなのか。魔鳥が結界の中に侵入したのも、あなたのご意思だったというのか?」


 花びらは、たったいま摘みとられたかのように、みずみずしい光沢をしている。だが、それは、すでに何日も、そのままイワンの手元にある。


 彼は深いため息を放った。


「……フィオ……」


 両目を閉じ、沈思する。

 扉が開く音に、彼は目を開けた。


「陛下……! たったいま、殿下がお戻りになられました。姫君をお連れです」


 まだ若い侍従官だった。


「そうか。夜が明けるまで、あと三時間、休ませたら、祭礼殿に向かわせよ。余は先に行くと、伝えるよう」


「は!」


 侍従官は美しい敬礼をし、無駄のない動作で出て行った。

 イワンは花びらを袖に入れ、歩き出した。廊下に出ると、いつものように近衛兵がついてくる。それを不快に思っていた若い時期が、彼にもあった。ちょうど、さきほどの侍従官ほどの年齢のころに。


 だが、今はもう、慣れている。


 祭礼殿の入口まで、近衛兵を伴って行く。そこに着くと、彼は控えているように彼らに命じた。

「父上!」

 入るなり、ボリスの声が彼を迎えた。

 一瞬、言葉が咽喉でまごついた。


「ボリス! 夜明けまで休めと命じただろう」

「ええ。ですが、一刻も早く皆を目覚めさせたいと、エルダが望んだので」

 火球石の灯りの中、人影が動いた。


「姫……」


 数日ぶりのエルダは、旅立ったときとまるで変わっていないようだ。一本の乱れもなく肩から流れる金髪も、白い顔も、細い指も、春の空のような色の瞳も、それらの放つ、高貴で優しげな雰囲気も、変わっていない。ただ、ひとつ、瞳の中にある光の輝きだけが、増している。


 優美な敬礼をする彼女の手をとり、イワンは呟くような声で言った。


「よくぞ戻ってくだされた」


 彼女は、ゆるやかに首を横に振った。


「この地を追われたようなものである、そなたに、このような難事をおしつけることは心苦しい。だが、そなたを必要とする者たちのために、力を貸してくれ」


 瞳を潤ませ、彼女は大きく頷いた。


「エルダさま!」

「殿下! 姫!」

「サーシャ。ペトロフ」


 振り向くと、涙を浮かべた少年と鎧を着こんだ将軍が、祭礼殿に飛び込んでくる姿が見えた。


「エルダさまっ!」


 少年は、まっすぐにエヴァリードをめがけて走ってくると、細い身体に飛びついた。

「良かった、帰ってきてくださって、ほんとに良かった……!」


 エヴァリードは花が開くような笑顔になり、優しく少年の背に手をあてて撫でた。それは、まるで、我が子をいたわるようなしぐさだった。

 そこへ、追いついたペトロフがひざまずく。


「お待ち申し上げておりました」


 その顔が、エヴァリードには少し痩せて見えた。無理もない。彼の一人娘であるソーニャも不思議な眠りについているのだ。翳った表情に、不安と焦燥が見える。

 最早この地で起きている女性は、エヴァリードのみらしい。

 ペトロフは首を垂れた。いつもはよく響く声からも、張りが感じられなくなっている。


「ご無事でなによりと存じます、姫君。いまさらに、このような物言いは無礼千万とは心得ますが、しかし……」


 すると、エヴァリードは、そっとサーシャの身体を離し、身をかがめ、ペトロフの手の甲に軽く触れた。言葉を遮られた彼は顔を上げ、そこに微笑む美しい顔から窺い知った、彼女の感謝と悲哀に息をのんだ。


「姫……」


 彼女は小さく頷いてから手を引くと、ふわりと立ち上がって、ボリスの前に立った。ふたりのあいだに声なき短い会話がなされ、それからボリスは父王とペトロフに呼びかけた。

「父上、ペトロフ将軍。これからここに城下の女性たちを運ぶのでしょう。その間に、まずはリジアを目覚めさせます。彼女には、エルダに対する考えの誤りを正してもらわなくてはならない。先に彼女の庵にエルダを連れて行きます」


「その必要はございませぬ、王子よ」


 背後からの声に、全員が驚いた。


 そこには、リジアが立っていた。


 サーシャが小さく、短い悲鳴をあげ、エヴァリードにしがみついた。

「リジア……」

「リジア殿! 勝手に踏み入ってはならんと、何度注意すればよいのだ!」

 彼女の後ろから、近衛兵を連れたナボコフ大臣が現れた。肥った体を揺らし、息を切らしている。だが、老女は全く乱れていない。両眼に謎めいた光を宿している。微笑とも威嚇ともつかない、光を。


 ボリスは身を硬くしたが、エヴァリードとイワンは表情を変えなかった。


「此度の変事、確かにこれは、春の女神の思し召し。その娘を死なせてはならぬという神託に相違ないと、認めよう」


「リ……リジア殿……?」

 ナボコフと近衛兵はうろたえ、顔を見合わせた。当然だろう。エルダの命を神に捧げよと、あれほど強く主張した彼女が、こうも穏やかに前言を撤回するとは。誰も想像していなかった。

 占術師・リジアは、厳酷な表情のまま、周囲を見渡した。


「我がまじないも皆を目覚めさせることはできず、それどころか女神の花弁に力を封じられたようだ。当然のように、城の侍医たちも無力である」


「そなたは、どうやって目覚めたのだ?」


 言葉もない人々の中から、冷静な問いをイワンが発した。


「エルダ姫の力なしに」


 ところが、その質問に、リジアは唇を噛みしめた。

「無礼な……! 陛下にお答えせんか!」

「待て、ナボコフ」

 顔を真っ赤にした大臣を静かに諫め、イワンは柔和な表情を保ったまま、言葉を続けた。


「まあ、良い。それも女神のなされたことであろう。まずは、そなたが無事に目覚めて良かった」

「しかし、陛下。それでは、エルダ姫に歌っていただかなくとも、皆、目覚めるのでしょうか」

 目を細くしているペトロフの言葉に、ボリスは息をのんだ。

 ところが、それに応えたのはナボコフだった。


「リジア殿が目覚めてから、既に半時間も経っておりますが、他の者に目覚める気配はありませぬ。リジア殿のまじないも、まったく効果はなく……」


「繰りかえさずとも良いわ、たわけ! 先ほど私自身が申したであろうに」


 憎憎しげな言葉を叩きつけてきたリジアにナボコフは顔をしかめたが、何事かを言おうとしつつも、思いとどまった。

 国王への侮辱は、決して許さない彼だったが、自らへの攻撃には反応しないと決めているのだ。それが、彼なりの、誇りなのだろう。


「……では、やはり、エルダに目覚めよという歌を?」


 そこにいる全員が、同時にエヴァリードに目を向けた。

 静かに佇む彼女は、かすかに困惑の表情をうかべていた。

 女神が望んでいることが、誰にも分からないからだ。


「それで皆が目覚めるという保証はなかろうが、試すのならされるがよい。春の女神は本来ならば雄弁であるはずだが、此度は何の説明もされぬ。ただ、その娘の死を望んでおられぬようだ。愚かなことだが」


「……命を重んじることが愚かと申すか」


 不意に空気が凍りついた。

 ボリスは一瞬、呼吸を忘れた。

 ペトロフもナボコフも、近衛兵たちも、一様に目を見開いている。

 サーシャはエヴァリードのスカートを握ったまま、唖然として国王を見上げた。

 そして、リジアですら、硬直した。

 イワンの両眼に、燃えさかる怒りが渦を巻いていた。一体、彼女のなにがそれほどの猛りを招いたのか、他の者には理解できなかったが。


 イワンの心は寛大すぎるほどで、息子であるボリス以上に、簡単には冷静さを失ったり欠いたりなどしない。だが、このときは自制が外れていた。


「父上……」


「女神のお考えがなんであれ、また、姫の力が皆を目覚めさせられずとも、生贄などという野蛮な考えは許さぬ。今後、そのような言葉を、一度でも口にした者には厳罰を下すゆえ、それを肝に銘じよ」


 冷厳で容赦ない命令を下したイワンは、それでも次の瞬間には瞳から火炎を消していた。


「ペトロフ。ナボコフ。兵たちに命じ、城下の女性たちを運んでくるのだ。近衛兵は侍従官らと、この床に織物を敷きつめよ。その上には、羽毛入れを並べるのだ。急げ」

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