神託

第19話 奇妙な病

 エヴァリード。エヴァリード。エヴァリード。


 ボリスの心の中に、その音は世界で最も美しい音楽と同じ響きをはなった。


 細い指がボリスの指に絡んでいる。

 冷たい、すべすべとした肌に唇をあてると、彼女の小さな吐息が聞こえた。


 半分をまぶたで覆われた、春の空のような瞳が、ボリスをじっと見つめる。彼は紅潮した頬を彼女の頬に寄せた。ふわりとした唇は、はじめて浮雲に飛び込んだときに顔に触れた、やわらかな水滴のように優しい。


 一瞬、感情の高まりに、ボリスは声をあげそうになった。

「エルダ……」

 城の者たちが知ったら、さぞ驚いただろう。


 動物や書物にだけしか目を向けず、男色だという風評までたったボリス王子が、人間の娘と心を交わしている。


 ──エヴァリード。


 心で心に呼びかける。

 もう彼女には、ボリスが声帯を使わずに発する声は届いていないだろう。地上に住む、ふつうの人間には、本来なら空気を振動させる音しか聞こえない。歌の魔力は、今の彼女には短時間しかもたせられない。


 しかし、彼女には、ボリスが望んでいることが分かっていた。


(ごめんなさい)


 そんな声が幾度となく聞こえて、彼は腕に力をこめた。


「謝ることなんてない。君の呪いを解くことが先決だ」


 穏やかで、快い響きの声色が、いつもエヴァリードを愛しげに包む。


 しかし、彼女の二つの名を使い分けるのは、思っていたよりも難しかった。

 思わず咽喉から洩れそうになるのを、すんでのところで何度も止めている。

 もう少し慣れれば、それも簡単になるかもしれないが……。そして、ボリスの気持ちとしては、呪いが解ける日は、そう遠くない。

 そこで、ボリスはエヴァリードに話しておかなければならないことがあるのを思い出した。


「エルダ」


 彼女の肩に手をおき、彼はそっと、かぼそい身体を離した。


「君に、話しておかなければ」


(なにをですか)


 全幅の信頼をこめた瞳。それを見て、ボリスは胸に痛みを感じた。


「君を連れ戻しに来たのは、僕の独断だ。だが、それは空人のみなが望んだことでもある。僕の気持ちが彼らを動かしたわけではないが、僕を彼らの気持ちが動かしたのでもない。それは、承知しておいてくれ」


 エヴァリードは頷いた。

「どういうことです、殿下」

 マーロウがわりこんできた。


「いまさら空人の方々が、我が主を必要とされるには、どんなわけがあるのです?」


 あたたかさが消えているわけではなかったが、その声には厳しいものが滲んでいた。


 ボリスは、真剣な瞳で黄金の瞳をまっすぐに見返した。


「僕が必要としているのは、エルダそのものだ。ただ、国民は救いを求めている」


(救い……私が、ですか……?)


 彼女はすぐに、何事かを察したようだった。


(私の歌が?)


「殿下」


「神託があったと、言っただろう?」


 彼は順序を間違えたかと思い、あわてて事の始まりから語ろうとした。


「君が旅立って、半時間もたたないうちに、奇妙なことが起こった」

 エルダの船が雲のむこうに消えて、すぐ。

 占術師、リジアが突然に倒れた。占いをしている最中に意識を失ったらしい。世話をしている弟子が彼女をみつけたのだが、その状況はきわめて不可解だった。


(花が?)


 ボリスはエヴァリードに頷く。

「彼女が倒れていたまわりに、花びらが積もっていた。まるで、何かのまじないをしていたかのようだと、弟子が思うほど」

 しかし、そんなことは、ありえなかった。


 その花びらは、空の大陸のどこにも咲かない花のもの。それどころか、地上にも咲いていないだろう。夜空を思わせる、深い暗青色をした、薔薇の花。蕾から、ボリスはそう判じた。


 そして、医師たちの見立てでは、彼女は健康そのものだった。にもかかわらず、目を覚まさなかった。弟子たちがさまざまな術で起こそうと奮闘したが、効果はなかった。


 丸一日が経っても、彼女は眠ったままだった。そして、ついに呼吸が止まった。


「だが、心臓の鼓動は止まっていない」


 エヴァリードが眉をひそめる。


「そして、それは彼女だけでは済まなかった」


 空人の女性が、つぎつぎと同じような状態になってしまった。わずかな時間でも独りきりになると、次に見つけたときにはリジアと同じように倒れている。花びらの中に身体を埋めて。


 幼い少女から老女まで、すべての女性が原因不明の眠りにとりつかれた。


「呼吸がなく、呼びかけにも反応はない。指先を針で刺激しても、まったく変化はない。ただ心臓だけが健康だ」


 当然、あらゆる病を癒せるボリスが、国民に救いを求められた。

 しかし、ボリスの力では解決しなかった。


「僕の力は役に立たなかった。いや、力をつかうことすらできなかった、というほうが正しい」


(どうして)


「花びらだ」


 眉間にしわを寄せ、彼は呟いた。


 掃いても燃やしても、花びらは消えなかった。蒼色の輝きが増していくのと一緒に、その量も増えていく。部屋中を舞い、床に積もった。

 病人の部屋に入ろうとしても、花びらが巻き上げられ、渦をまいて、阻んでくる。不思議なことに、その花の嵐は、ボリスだけを拒んだ。患者に近寄れないのでは、何もできない。彼は力を発揮するのを試みることすら、できなかったのだった。


 女性だけが眠ったまま目覚めない病。それは、ただの病気だとは誰も思えなかった。そして、イワンがオムネルトンの間に入った。


 巨大な虹水晶から光が放たれ、まっすぐに、エルダが旅立った方角を示した。


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