まひるのはまべ
まひるのはまべ
真昼の浜辺が、果てしなく続いていた。
誰ひとりいない浜辺を、せなはどこまでもどこまでも走った。息は、少しも切れなかった。白いノースリーブのワンピースと麦わら帽子が、風を受けて大きくはためいた。
どれだけ走っても、砂浜には終わりが見えなかった。白い砂が、日の光にまぶしくきらめいていた。その上に影を落とすものは、せな以外何ひとつなかった。
せなは立ち止まった。
誰もいなかったはずの浜辺に、動くものの姿が見えたから。
「やあ」
砂の上に座っていた若い男が、そう言って立ち上がった。白い服を着た、驚くほど華奢な身体をした男だった。
「とうとう、来たね」
微笑んでせなの顔をのぞきこむ彼の瞳は、不思議な色をしていた。やさしさと、淋しさと、哀しさをまぜて、青に溶かしたような。
「僕は、君が来るのを待っていたんだよ」
せなは帽子をぬいで、胸の前で抱えた。彼の背はせなの倍くらいあった。彼が身をかがめても、せなはまだ彼を見上げねばならなかった。彼の、透けるように細い髪が、日の光を浴びて金色に見えた。
「私を待っていたの?」
せなが尋ねると、彼はうなずいた。
「ずっと、ずっと?」
「そうだよ。何年も前から、この浜辺でね」
彼は砂の上にひざをつくと、せなの手をとった。白くて長い指をしていた。血がかよってないんじゃないかと思うくらい、白くてひやっとしていた。
せなは少しはずかしかったけれども、手をひっこめたりはせず、そのまま彼の手に預けていた。
「もう、十歳になったんだ。早いな……でも君は、たったの十歳なんだ」
せなの耳に心地よくひびく、やさしい声。でも、やさしさだけじゃない何かが、微妙に声をしめらせる。
気づくと、彼の顔がせなのすぐ近くにあった。そばで見ても、彼は非の打ちどころがないくらいにきれいだった。肌も、色白と言われるせなでもかなわないくらい、白く透きとおっていた。
「僕の名前はリオル」
彼はせなの目を見つめて言った。せなは、自分も名前を言おうかどうしようか、少し迷った。けれども、
「君のことは知っているよ、せな。ずっと、見てきたから」
彼はそう言って、目を細めた。
「ずっと、見ていてくれたの?」
「ああ」
「……そう、なんだ」
せなははにかんだような笑みを浮かべた。
「リオル。リオルっていうのね、あなた」
「そうだよ」
リオルは身体を起こした。
「……少し、歩こうか」
せなが小さくうなずくと、リオルは歩きだした。せなは片方の手に帽子をもって、もう片方の手をリオルとつないで歩いた。砂の上に、大きいのと小さいのと、ふたつの足跡が並んで伸びた。
浜辺の遠くのほうは、白くぼうっとかすんで、輝く空の中に消えていた。終わりのない砂浜のはるかな向こうに目をやりながら、ふたりは歩いた。歩きながら、いつのまにかせなは、自分のことを話していた。
「あのね、私ね、小さい頃からずっと病気だったの。ベッドに寝たきりで、病院からほとんど外に出たことなかった」
そんなのは別に変わったことでも何でもない、というふうに、淡々とせなは言う。聞いているリオルのほうも、穏やかに笑ってうなずいているだけだった。
「でもね、お父さんやお母さんに話したらそんなはずないって言われるんだけどね。私、前にも一度、この浜辺に来たことがあるの」
一瞬、リオルがせなに目を走らせた。せなはそれに気づいているのかいないのか、遠くを見つめたまま話し続ける。
「もう、何年も何年も前の話よ。私、今よりもっとちっちゃかったから。でも、その時のことはよく覚えてる」
白い砂浜。日の光は真上から照らしているけれども、日射しの暑さは感じない。ただ、何もかもが、まぶしいくらいに白い。涙がでそうなくらいに、まぶしい。
「――その時もこの浜辺は誰もいなくて、どこまでも明るくて、しんとしてた。どうやってここまで来たのかはわからないけど、私はひとりで砂の上を歩いてたの」
せなの話す声だけが、からからに乾いた空気をふるわせている。砂浜だというのに、他の音は何も聞こえない。砂を踏む音も、風の音も、遠い海の音も。
鼓動も、何も、聞こえない。
「そしたら、誰もいないはずの浜辺で、人に会ったわ」
不意にリオルが立ちどまった。けれどもせなは、彼を見上げたりはしなかった。ただまっすぐに、果てのない浜辺を見つめていた。
「すごくきれいで、すごくやさしそうなお兄さんだった。砂山をつくったり、貝を拾ったりして、ずっと一緒に遊んでくれたの。楽しかった。だって私、それまでそんなふうに遊んだことなかったんだもの」
ふっ、とせなは、夢見るように微笑んだ。それまで淡々としていた声の調子も、幸せな夢の中にいるかのように、ゆらゆらと深くゆれていた。遠くはるかなあの日の、宝物のような真昼の浜辺を、抱きしめる。
「ずいぶん長い時間遊んだような気がしたけど、浜辺はずっと明るいままだった。そしたらね、その人が言ったの。『君はまだ小さいんだから、今日はもうお帰り。あっちで、お父さんとお母さんが心配しているよ』って」
せなとつないだリオルの手に、かすかに力が入る。けれどもせなは、気づかないふりをしていた。ことさらに明るく、より楽しそうに、声をつくる。
「お父さんもお母さんもね、私は一度も海に行ったことはないし、そんな人のことは知らないって言うの。でもね、私はずっと、もう一度あの時の人に会いたいなあ、会えたらいいなって思ってたの。あの浜辺に行ったら、また会えるんじゃないかなあって」
そこでせなは初めて、リオルを見上げた。
「今日、とうとうこの浜辺に、来たわ」
せなはリオルの目を見つめて、言った。せいいっぱい、明るい声で。
「――私、死ぬんでしょう?」
「せな……」
リオルが息をのむ。
「本当はもっと早く死んでてもおかしくなかったのよね。でもあの時は、あなたが助けてくれた。そうなんでしょう?」
リオルの顔から、笑みが消えた。ひどくつらそうな、哀しそうな表情になる。
「――本当は、君がいつまでもここに来ないことを、願っていた」
「でも、いつかは私、ここに来ることになっていたんでしょう。だからあなたはずっと、私を待っていた」
リオルは何も言わなかった。
せなはリオルの手をはなした。数歩、波打ち際のほうへ歩いてから、明るく振り返る。
「どうせだったら、もう少し大きくなって、きれいになってから、あなたに会いたかったな。背だって、並んでも釣り合うくらいに」
涙がでそうになるのを、必死にこらえた。彼に、泣き顔は見せたくなかったから。懸命に、笑おうとした。
「――僕は、君を連れていかなければならない」
長い沈黙のあと、しぼりだすようにリオルは言った。ゆっくり、せなに近づいてくる。その青い瞳に、やさしさと、淋しさと、哀しさを溶かして。
「うん。知ってる」
せなは答えた。
「あなたが連れていってくれるのなら、私、どこだって怖くなんかないわ」
無理に笑う必要などなかった。本当に、心の底から、そう言うことができた。
リオルがせなを抱きしめた。せなの手から帽子がすべり落ちた。リオルの腕の中で、せなは瞳を閉じる。
そして、ささやく。
「連れていって、リオル。あなたの世界へ」
「――君は今でも十分にきれいだよ、せな……」
リオルの背中から真っ白な翼が現れると、ふたりをつつみこんだ。白い羽と白い砂が、あたりに舞い上がる。そしてふたりは、真昼の空に吸いこまれるように、消えた。
ただ、せなのいた場所の砂の上に、麦わら帽子だけが、落ちていた。
浜辺に波が打ちよせてくると、麦わら帽子をさらって、どこか遠く、海の向こうのどこかへと運んでいった。
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