「ここなら、いいんじゃないかしら」

 そう言うと由良は、校舎の屋上に通じるドアを開けた。真っ青な空から降る、強い陽射し。こんなに天気が良すぎる日は、日焼けを嫌って、普段なら萌は屋上に上がってこない。

 昼休みに二人で話がしたい、と誘ったのは萌のほうだった。それなら、と由良が萌をここに連れてきたのだ。転校してきてまだ日の浅い彼女だが、既にこの屋上は勝手知ったる場所らしい。軽い足取りで真ん中まで歩いていくと、振り返る。

「それで、なあに、萌さん。話って」

 あまりに屈託のない笑顔で尋ねるので、萌は言葉に詰まってしまった。

「……あのさ、その」

 手探りといった感じで、萌は口を開く。「ウワサを、聞いたんだけど」

「噂?」

 由良は小首を傾げる。

「その……乾さんが前いた学校で、行方不明になった子がいるって、本当?」

「ああ、弥生やよいのことね」

 思いのほか、あっさりと答えが返ってきた。

「弥生のことで、何が知りたいの?」

 噂どおりならば、その弥生という子と由良とは仲が良かったはずだ。だが由良は相変わらずにっこりと微笑んでいて、友人の失踪を哀しんでいるようには見えない。ただ、眼差しには何とも理解のし難い色が浮かんでいて、見つめられて居心地の悪さを感じた。

 それでも、訊かないわけにはいかないのだ。

「乾さんが、その子は『鳥になって飛んでいった』って言ったってのも、本当?」

 ――萌は、今日も、あの夢を見たのだから。

「ええ」

 由良はうなずく。

「……それって、どういう意味なの」

「言葉のとおりよ。弥生は、本当に鳥になったの。いや、〝鳥だった〟のね」

「それじゃわからな――」

「ねえ、萌さん」

 萌の言葉を遮るように、由良が話し始める。

「萌さんは、思ったことはない? 自分は、生まれてくるところを間違った。本当に自分がいるべき場所は、きっとどこか他にあるって」

 唐突な問いに、萌は返答に困った。

「ない、ことはない、けど……」

「弥生は、よく思うって言ってたわ。

 そして弥生の場合、それは〝正しかった〟のよ」


 ――ざわ

 急に、空気が変わったかのように萌は感じた。晩夏の太陽の下にいるというのに、冷水を浴びせかけられたような寒気がする。風が吹いて、由良の長い黒髪が青空を泳いだ。

「あの日、夜中に弥生から電話がかかってきた。学校の屋上にいるって言うの。慌ててわたしが駆けつけると、目の前で弥生は飛び降りて……そのとき、だったわ。

 弥生の背中に、翼が生えたのよ」

「うそ……でしょ」

 まるで、由良の後ろに、黒々とした夜闇が広がっているかのようだ。

 訊くんじゃなかった。不可解な眼差しで話し続ける由良を、殴ってでも止めたいと思った。だが、射すくめられたように身体が動かない。背中だけが、ざわざわと疼く。

「嘘じゃないわ。真っ白で大きな翼だった。その翼で弥生は、月明かりの中、どこか遠くへ飛んでいったの。それでわたし、思ったのよ」

「やめて……」


「『ああ、弥生がいつも見るって言ってた〝鳥になる夢〟は、このことだったんだ』って」

「やめてえぇっ!」


 ――叫んだ瞬間、青空が戻ってきた。

 ぷつっと全身の糸が切れ、萌は屋上にへたり込む。陽光を浴びたコンクリートが熱い。

 宣告するかのような由良の声が、頭上から響いてきた。

「鳥になる夢を見たのね、萌」

「!」

 びくんと萌は顔を上げた。そのそばに、由良も屈み込む。親しげな口調で、言う。

「初めて会ったときに、弥生と同じ感じがするって思ったの。やっぱりそうだったのね」

「な……によ、それ」

 荒々しく、由良の両肩を掴んだ。

「あんたがっ……あんたのせいじゃないの? あんたに会った日からなのよ! あたしは、あの夢を……っ!」

「萌は、鳥になりたくはないの?」

「あ、当たり前でしょ!」

「誰もが翼を持っているわけではないのよ。鳥が、あなたの〝本来の姿〟なの。だから、今の生活は生きにくいでしょう? 翼が目覚めれば、萌はここから抜け出せるのよ」

「……そりゃ、逃げ出したいけどっ! ここにいたくないとかそういうことはよく思うけどっ! でもそれは、そんなんじゃなくてっ!」

 混乱しながら、必死に否定する萌。それを聞いて、由良はふう、とため息をついた。

「そうね。翼を持っているからって、みんなが飛びたがっているとは限らない、のよね」

 前にも聞いた言葉を呟くと、由良は萌の両手を外して立ち上がる。

「でもね、萌。望もうと望むまいと、あなたは鳥なのよ。わたしに会わなくたって、いつかは鳥になる夢を見始めたはずだわ」

「そんなっ……じゃあ、あたしはどうすればいいのよ!」

「――世の中、思い通りにはならないのよ、何も」

 哀れむような声でそう言うと、由良は、一人屋上から去っていった。


 五時限目の授業、萌は少しも頭に入らなかった。地理の長谷川はせがわは生徒をねちねち叱る嫌な教師で、普段なら目をつけられないようノートをとる振りだけでもするところだが、今日は全く手が動かない。

 真ん中の列の一番後ろの席からは、ちまちました字で黒板を埋めている長谷川の姿も、一言一句逃さぬようノートに書き写していくクラスメイトの姿も、全部見える。だが、それはただ目に入るだけ。萌の思考はぐるぐると、昼休みに聞いた言葉の周りを回っていた。

「――聞いてるのか見城!」

 大声に、はっと我に返る。いつの間にか、長谷川が萌の席のすぐそばに立っていて、机の上の閉じたままのノートを見下ろしていた。

「ずいぶん余裕だな、見城」

「あ……すみません」

 離れた席から、心配そうな顔で尚美と咲子が振り向いているのが見えた。

「まぁ、お前はT大現役合格した〝あの〟見城茜の妹だもんな、俺の授業なんて聞かなくていいと思ってるんだろう」

「そんなこと……」

 城東の教師は、大半が姉の茜を知っていた。出来の良い姉と比べられるたびに、萌はこの高校に来なければよかったと思った。

 だが母は、姉同様に萌も城東に入学するものと、何の疑いもなく信じていたのだ。萌にどうすることができたろう?

「その割には、一学期の成績は何だ。姉妹でも、姉と妹で偉い違いだな、ああ?」

 ――もういやだ!

 思わず内心でそう叫んだとき、萌は不意に気づいた。

 左側の窓から差し込む、午後の陽射し。

 これは……あの夢と、同じだ。



 萌の背中で、何かが、ごきっと音を立てた。

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