三
「ここなら、いいんじゃないかしら」
そう言うと由良は、校舎の屋上に通じるドアを開けた。真っ青な空から降る、強い陽射し。こんなに天気が良すぎる日は、日焼けを嫌って、普段なら萌は屋上に上がってこない。
昼休みに二人で話がしたい、と誘ったのは萌のほうだった。それなら、と由良が萌をここに連れてきたのだ。転校してきてまだ日の浅い彼女だが、既にこの屋上は勝手知ったる場所らしい。軽い足取りで真ん中まで歩いていくと、振り返る。
「それで、なあに、萌さん。話って」
あまりに屈託のない笑顔で尋ねるので、萌は言葉に詰まってしまった。
「……あのさ、その」
手探りといった感じで、萌は口を開く。「ウワサを、聞いたんだけど」
「噂?」
由良は小首を傾げる。
「その……乾さんが前いた学校で、行方不明になった子がいるって、本当?」
「ああ、
思いのほか、あっさりと答えが返ってきた。
「弥生のことで、何が知りたいの?」
噂どおりならば、その弥生という子と由良とは仲が良かったはずだ。だが由良は相変わらずにっこりと微笑んでいて、友人の失踪を哀しんでいるようには見えない。ただ、眼差しには何とも理解のし難い色が浮かんでいて、見つめられて居心地の悪さを感じた。
それでも、訊かないわけにはいかないのだ。
「乾さんが、その子は『鳥になって飛んでいった』って言ったってのも、本当?」
――萌は、今日も、あの夢を見たのだから。
「ええ」
由良はうなずく。
「……それって、どういう意味なの」
「言葉のとおりよ。弥生は、本当に鳥になったの。いや、〝鳥だった〟のね」
「それじゃわからな――」
「ねえ、萌さん」
萌の言葉を遮るように、由良が話し始める。
「萌さんは、思ったことはない? 自分は、生まれてくるところを間違った。本当に自分がいるべき場所は、きっとどこか他にあるって」
唐突な問いに、萌は返答に困った。
「ない、ことはない、けど……」
「弥生は、よく思うって言ってたわ。
そして弥生の場合、それは〝正しかった〟のよ」
――ざわ
急に、空気が変わったかのように萌は感じた。晩夏の太陽の下にいるというのに、冷水を浴びせかけられたような寒気がする。風が吹いて、由良の長い黒髪が青空を泳いだ。
「あの日、夜中に弥生から電話がかかってきた。学校の屋上にいるって言うの。慌ててわたしが駆けつけると、目の前で弥生は飛び降りて……そのとき、だったわ。
弥生の背中に、翼が生えたのよ」
「うそ……でしょ」
まるで、由良の後ろに、黒々とした夜闇が広がっているかのようだ。
訊くんじゃなかった。不可解な眼差しで話し続ける由良を、殴ってでも止めたいと思った。だが、射すくめられたように身体が動かない。背中だけが、ざわざわと疼く。
「嘘じゃないわ。真っ白で大きな翼だった。その翼で弥生は、月明かりの中、どこか遠くへ飛んでいったの。それでわたし、思ったのよ」
「やめて……」
「『ああ、弥生がいつも見るって言ってた〝鳥になる夢〟は、このことだったんだ』って」
「やめてえぇっ!」
――叫んだ瞬間、青空が戻ってきた。
ぷつっと全身の糸が切れ、萌は屋上にへたり込む。陽光を浴びたコンクリートが熱い。
宣告するかのような由良の声が、頭上から響いてきた。
「鳥になる夢を見たのね、萌」
「!」
びくんと萌は顔を上げた。そのそばに、由良も屈み込む。親しげな口調で、言う。
「初めて会ったときに、弥生と同じ感じがするって思ったの。やっぱりそうだったのね」
「な……によ、それ」
荒々しく、由良の両肩を掴んだ。
「あんたがっ……あんたのせいじゃないの? あんたに会った日からなのよ! あたしは、あの夢を……っ!」
「萌は、鳥になりたくはないの?」
「あ、当たり前でしょ!」
「誰もが翼を持っているわけではないのよ。鳥が、あなたの〝本来の姿〟なの。だから、今の生活は生きにくいでしょう? 翼が目覚めれば、萌はここから抜け出せるのよ」
「……そりゃ、逃げ出したいけどっ! ここにいたくないとかそういうことはよく思うけどっ! でもそれは、そんなんじゃなくてっ!」
混乱しながら、必死に否定する萌。それを聞いて、由良はふう、とため息をついた。
「そうね。翼を持っているからって、みんなが飛びたがっているとは限らない、のよね」
前にも聞いた言葉を呟くと、由良は萌の両手を外して立ち上がる。
「でもね、萌。望もうと望むまいと、あなたは鳥なのよ。わたしに会わなくたって、いつかは鳥になる夢を見始めたはずだわ」
「そんなっ……じゃあ、あたしはどうすればいいのよ!」
「――世の中、思い通りにはならないのよ、何も」
哀れむような声でそう言うと、由良は、一人屋上から去っていった。
五時限目の授業、萌は少しも頭に入らなかった。地理の
真ん中の列の一番後ろの席からは、ちまちました字で黒板を埋めている長谷川の姿も、一言一句逃さぬようノートに書き写していくクラスメイトの姿も、全部見える。だが、それはただ目に入るだけ。萌の思考はぐるぐると、昼休みに聞いた言葉の周りを回っていた。
「――聞いてるのか見城!」
大声に、はっと我に返る。いつの間にか、長谷川が萌の席のすぐそばに立っていて、机の上の閉じたままのノートを見下ろしていた。
「ずいぶん余裕だな、見城」
「あ……すみません」
離れた席から、心配そうな顔で尚美と咲子が振り向いているのが見えた。
「まぁ、お前はT大現役合格した〝あの〟見城茜の妹だもんな、俺の授業なんて聞かなくていいと思ってるんだろう」
「そんなこと……」
城東の教師は、大半が姉の茜を知っていた。出来の良い姉と比べられるたびに、萌はこの高校に来なければよかったと思った。
だが母は、姉同様に萌も城東に入学するものと、何の疑いもなく信じていたのだ。萌にどうすることができたろう?
「その割には、一学期の成績は何だ。姉妹でも、姉と妹で偉い違いだな、ああ?」
――もういやだ!
思わず内心でそう叫んだとき、萌は不意に気づいた。
左側の窓から差し込む、午後の陽射し。
これは……あの夢と、同じだ。
萌の背中で、何かが、ごきっと音を立てた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます