あの海を抱きしめて
頭上で、セミが鳴きわめいている。
うるさくてうるさくって、聞いているうちに気がおかしくなりそうだ。
「んっとにもう、何しとるんやろ。遅れるんなら遅れるって、連絡くらい、よこしゃいいのに」
鳴らない携帯に苛立ちながら、あたしは毒づいていた。もし今着信音が鳴ったなら、1コールと待たず即座に取って、電話の向こうの
公園なんかで待ち合わせをしたのが間違いだった。今日で三日連続の真夏日、あまりの暑さに、遊んでいる子供はほとんどいない。あたしは一人、ひたすら汗をぬぐいながら、強い日射しを避け木陰に避難していた。
セミだけはいつもにも増して元気で、耳障りなくらいわぁんわぁんと鳴いている。公園の白っぽい地面が、太陽の光を照り返してまぶしい。あたしのまわりにあるもの全てにいらいらして、祐一が来たらどれだけ文句を言ってやろうかと、心の中で非難の言葉を並べ立てていた。
〝――だいたい、あいつは気がきかんっちゃん。夏休みも部活が忙しいんかなんか知らんけど、あたしのことなんか、ほったらかしで。たまーに会う約束しとっても、今日みたいに遅刻してきよるし〟
並べれば並べるほど、どんどん腹が立ってくる。
〝そりゃーあたしは祐一と違って部活も何もしとらんけん、毎日暇やけど? やったら勉強せんね、来年は受験生やろ、なんて親からは突っつかれるし。あーもう腹立つわぁ〟
祐一は二年生ながら陸上部のエースで、校内でも結構有名人なのだ。それにひきかえ、あたしときたら、スポーツができるわけでも勉強ができるわけでもなく、ただこんなところでボーッとしているだけ。
結局、あたしはあたしに腹を立てているのだった。
〝
自分でも、もう自分の思考に歯止めをかけられない。頭の中が熱いものでいっぱいになって、堰を切ったように何かがあふれてきそうになったとき、
リィィン……
不意に聞こえた澄んだ音に、はっと我に返った。
涼やかな音色。高く透明で、それでいて深くて、どこか懐かしいような……
リィィン……
また、聞こえた。空間に長く引かれた音の尾を追うように、周囲を見回すと、
「いやぁ、今日も暑いですな」
いつの間にか公園内にいたおじさんが、汗をふきふき話しかけてきた。おじさんは後ろに屋台を引いていて、その屋台には、
「――風鈴?」
色とりどりの、透きとおったガラスの風鈴が吊り下げられていて、風に揺れるたびに
リィィン……
と気持ちのいい音を鳴らしているのだった。
「こんなにいっぱい、風鈴、どうするん?」
あたしが訊くと、おじさんは
「売って歩いているんですよ。ははは、あなたみたいな若い人には珍しいかな」
と、笑って答えた。
「へぇぇ……風鈴売りの屋台なんて、あったん」
あたしは素直に感動した。そんなあたしを見ながら、おじさんはにこにこしている。
おじさん、といっても顔を見るとそんなに年でもなさそうだったけれど、麦わら帽子に白いランニングシャツ、足には草履なんていう、ちょっと昔のセミとりみたいな格好のせいで、おじさんという言葉以外あたしには思いつかなかった。
「見ますか? 冷やかしで構いませんよ」
「え……じゃあ、ちょっとだけ」
あたしは木の下から出て、屋台に近づいた。
朝顔。金魚。波模様。花火。西瓜。
いろんな模様の描かれた、触ると割れるんじゃないかと思うほどに薄いガラスは、
「――あ、これ。いい音」
中でも特別いい音を立てているのは、海のような深い青いガラスの上に真っ白なかもめが描かれた風鈴だった。
「なるほど。それが、今のあなたの心に一番響く風鈴なんですな」
「え?」
不思議そうにあたしが顔をあげると、おじさんは
「しかし、この暑いのにこんなところで大変ですな。誰かと待ち合わせですか」
「――そう。そうなん」
祐一のことを思い出し、すっと気分が沈んだ。
「あたし、彼氏とここで会う約束しとったんです。なのにあいつ、時間になっても
初対面の、見ず知らずのおじさんに、何こんなこと喋ってるんだろう。そう思ったけれど、話し始めるとあたしの口は止まらなかった。
「祐一、あ、彼氏の名前なんやけど、すっごいモテるんですよ。あたしのほうから告白したんやけど、正直言ってOKしてもらえるなんて思っとらんやった。あたしなんか何のとりえもないし、何で祐一があたしなんかとつきあっとるんやろうって思っとる子、いっぱいおる筈やし。やから……っ」
心が、揺れる。
不安で不安で、ずっと考えないようにしてきた言葉が、こぼれ落ちる。
「もしかしたら、祐一もそう思っとるんやないかって……っ
あいつ、もうあたしに会いたくないんやないかって、そう思って……っ!」
それ以上喋ると泣きそうで、必死にあたしは唇をかんでうつむいた。
みっともない。
情けない。
こんなところで何やっとるんやろ、あたし……。
「――風鈴を、聴いてみませんか」
おじさんが、静かに語りかけた。
「風鈴の音は一つ一つ違って、どの音が好きかは人それぞれなんですよ。
この風鈴があなたの心に響くのなら、きっとこれは世界にたった一つの、あなたのためだけの風鈴なんです」
「あたしのためだけの……?」
「目を閉じて、耳を澄ましてごらん」
おじさんに言われるままに、両の目を閉じる。不思議と、あんなにたくさんあった他の風鈴の音が全部消えて、あの青い風鈴の音だけがあたしの中に染み入ってきた。
リィィン……
リィィン……
鳴っては消え、消えては鳴るその音を聴いているうちに、閉じた目蓋の奥に海が見えてきた。
どこか遠い遠いところからやってきたゆるやかな波が、寄せては引き、引いては寄せ、静かに波打ち際を洗っていく。あたしの身体中が海になる。
そのリズムに身を任せているうちに、周囲の目とか、それを気にしていた自分とか、そんなものは洗い落とされて、海の底に沈んでいた本当の本当の気持ちが……
「会い……たい。
祐一が、あたしに会いたくなかったとしても。
あたしが、あいつにふさわしくなくっても。そんなん関係ないの。
あたしは祐一が好きなん。会いたいんよ……!」
「――そう。だったら、あなたのその気持ちを大切にするといい」
ティルル……
突然、バッグの中の携帯が鳴り、急いであたしは電話を取った。
「はい、もしもし……祐一!
今、部活が終わった? ――うん、わかった。待っとうけん。そんじゃ」
電話が切れて、あたしは
「おじさん! 祐一来るって……」
あたりを見回したが、おじさんも、風鈴売りの屋台も、どこにも影も形もなかった。
「……おじさん?」
頭上でわぁんわぁんと大音声で騒ぐセミ。
そのときあたしは、おじさんと話していた間、風鈴以外の音が全く聞こえなかったことに気づいたのだった。
しばらくして、祐一が公園にかけつけてきた。
「
さっきまで部活でも走っていたんだろうに、また全速力で走ってくる。
「怒っとるか?」
「――ううん、いいんよ。祐一が来たけんね」
あんなに膨らんでいた苛立ちが嘘のように、笑ってそう言うことができた。
「あ。いけね。あんま振り回すと割れる」
そう言うと祐一は、スポーツバッグの中からごそごそと何か取り出す。
「来る途中で、風鈴売っとる屋台とすれ違ってさ」
「え?」
「プレゼントに一ついかがですか、とか言われて思わず買っちまった」
照れくさそうに、あたしのほうに差し出したそれは、あのかもめの風鈴だった。
「祐一……何で、これ……」
あたしが驚いて訊くと
「いや、お前、
「……案外、安易な選び方やね」
「悪かったな」
その言い様に、あたしはくすりと笑った。
「けど、うれしい。ありがとう祐一」
あたしの手の中で鳴る、風鈴。
その澄んだ響きに耳を傾けながら、あたしは、心の中のあの海を抱きしめていた。
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