澪標
わびぬれば今はた同じ難波なるみをつくしても逢はむとぞ思ふ
「逢えなくて、淋しくて、とても苦しい思いをしているのだから、今はもう身を滅ぼしたと同じようなもの。だから、難波の河口の水路の目印の
そんなような、意味よ」
何も見ないですらすらとそう言うと、
女子高の、放課後の教室だった。二人きり、向かい合って、瑶子とわたしは一緒に明日の古文の予習をしていた。教科書に出てきた「みをつくし」という単語がわからず訊いたわたしに、「そう言えば、百人一首にこんなのがあるわ」、と彼女は暗誦してみせたのだ。
瑶子には、そういう高貴で、風雅な感じがとても似合う。色白の肌に、長い黒髪。ぜひとも着物姿を見てみたいと感じさせる、日本人形のような美少女。さらには、成績もものすごくいいのだ。わたしなんかとは根本的に人間の出来が違う、と思ってしまう。
わたしだけじゃない。何百人もの女生徒が同じセーラー服に身を包んでいるというのに、彼女一人だけ、光でもまとっているかのように浮かび上がって見える。立つ、歩く、微笑む、首を傾げる……そんな、何気ないひとつひとつの仕草に、同じ高校生だとは思えないくらい、ゆったりと大人びた匂いを漂わせている。
――もしかするとその匂いは、彼女の秘めた想いに、由来するのかもしれない。
「あのね、久美」
こんな平凡なわたしのどこを気に入ってくれたのかわからなかったけれど、瑶子とわたしは高校に入学して出会って以来、仲のよい友だちだった。瑶子は多分、他の誰にも話したことがないようなことを、わたしに話してくれたと思う。
「わたし、好きな人がいるの」
その相手は、二十歳以上も歳の離れた男の人なのだ、と瑶子は言った。
瑶子の父親の古くからの友人なのだという。遠くに住んでいるけれども、年に何回か瑶子の家に遊びに来るのだそうだ。幼い頃からずっと、「おじちゃん、次はいつ来るの?」と彼の来訪を心待ちにしていて、来ている間は片時もそばから離れなかった。そんな瑶子を、その人も可愛がってくれるらしい。
「でもね、所詮は片想いなのよ」
そう言って瑶子は、黒い瞳を揺らす。自嘲気味に、ふっと笑う。
どんなに可愛がってくれても、それは「友人の娘」としてでしかない。恋愛対象として見てくれるはずもないのだ。家に帰れば彼には妻も、瑶子とほとんど歳の違わない子供もいる……。
「どうしてなの? どうしてあの人じゃなきゃいけないの?」
わたしの前で訴えたこともあった。微かに、目の端に涙をにじませて。
「どんなに想い続けても、きっと一生報われることはないのよ。こんな、苦しいだけの恋ならやめてしまいたい。
でも、好きなの。逢いたいの。きりがないのよ、このままじゃ」
美しい瑶子の瞳をこんな風に曇らせるなんて、と、わたしは、会ったこともないその男に怒りを感じる。そんな男は瑶子には相応しくない、と思ってしまう。
――でもその一方で、わたしは、密かに昏い喜びを感じるのだ。
瑶子がその男を想い続けている限り、彼女は他の誰のものにもならない。
わたしが、このわたしだけが、瑶子を独り占めすることができるのだから。
わびぬれば今はた同じ難波なるみをつくしても逢はむとぞ思ふ
透きとおった声で歌を詠む瑶子をじっと見つめながら、黄昏の中、わたしも静かに微笑を浮かべている。
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