水の中
どうしてみんな、気づかないんだろう。
水の中には、人魚がいるのに。
夕暮れ、静まりかえったプールサイド。七月のこの時期、普通ならインターハイを目前に控えた水泳部員が練習に精を出しているところだろうけれど、今は誰もいない。私は、教師たちの目を盗んでプール入口の封鎖を乗り越え、人魚に逢いにやってきたのだった。
私が人魚に初めて出逢ったのは、去年の冬。二月の寒風の中、私は、防火用水として水が張られていたプールに落ちてしまったのだ。あの水の、身を切るような冷たさ! 金槌ではないつもりだったけれど、思うように身体を動かすことができない。必死にもがきながら、死にたくない! 誰か助けて! と心の中で叫んでいた、そのとき。
水の中に、ゆらりと動く影を見た。
二月のプールに、誰かが泳いでいる筈はない。けれどもそれは、確かに水の中を、私のほうに近づいてきた。差し伸べられる白い手。漂う長い髪。そして……魚のような、青く光る尾?
覚えていたのは、そこまで。気づいたときには、私はプールサイドに引き上げられていた。水面を見渡しても、私が乱した波紋以外、変わったものは何も見当たらない。プールサイドにいた志保美たちに訊いても、他には誰もいなかったと言う。だから、あれは幻覚だったのだと思っていた。
六月になると、体育の授業で水泳が始まる。冬にあんな目に遭った私は、ものすごくプールが怖かったのだけれど、志保美たちがそんな私を引っ張っていく。嫌々ながら水に顔をつけた私はそこで、鼻がくっつくんじゃないかと思うくらい近くで私を見つめる、もう一つの顔に出くわした。
驚いて水から顔を上げる。そんな私を見て、志保美や規子がキャハハと笑う。私にもう一度顔をつけさせようとする。そうして再び潜った水の中で、今度こそ私ははっきりと、プールを泳ぐ人魚を見たのだ。
人間でいったら、十一、二歳くらいだろうか。長い髪をたゆたわせたその少女は、確かに魚の尾を持っていた。光の加減か、青い鱗がきらきらと光る。信じられない光景に目を見張る私を、人魚は見つめ返して、実に嬉しそうな笑みを浮かべた。
――プールにはこんなに大勢人がいるのに、私以外の誰も、彼女の存在に気づいていなかったのだ。
それから、私と人魚との交流が始まった。水泳の授業のたびに、彼女は私の周りにまとわりついた。詳しいことはよくわからないけれど、彼女は物理的にこのプールの中にいるわけではないらしい。ここは学校のプールであると同時に、どこか他の場所とも重なっているのだ。彼女はそんな境目に一人迷い込んでしまったらしく、元の世界に戻ることもできず、誰にも気づいてもらえず、一人でずっと淋しがっていた。
潜っている間は、志保美たちも、誰も、私を邪魔することはできない。水の中で、私と彼女はたくさんたくさんお喋りをした。彼女の名前は、ルシールと言った。
どうして私には、私だけには、彼女が見えるんだろう?
二月のあのとき、私も境目にいたからだろうか。生と死の。
――それとも私が、彼女に負けないくらい、孤独だったからだろうか?
でも今は、違う。私も彼女も、孤独なんかじゃない。
だって、こんなにも素敵な、友達ができたんだもの。
「ルシール」
プールサイドで名を呼ぶと、彼女が勢いよく頭を出した。亜麻色の髪、白い肌、青い目。こんな殺風景なプールなんかには勿体無いほど、彼女は綺麗だ。
「サヤカ! ズット、コナカッタネ」
「ごめんね、なかなかプールに近づけなくって」
私は手を合わせて詫びる。一週間前の体育の時間、一度に三人の女生徒が水死するという怪事件が起きて以来、ずっとプールが閉鎖されていたのだ。
死んだのは私のクラスの志保美、規子、千紗。去年から私が三人に苛められていたことを、クラスの誰もが知っていた。プールに突き落とされ、溺れる様子を笑いものにされていたことも、何人かは知っていたかもしれない。皆が、疑いの目で私を見た。
けれども、私は何もしなかった。その日私は生理で、プールには入らなかったのだから。神かけて誓ってもいい、私は何もしなかったのだ。
「ソレデ、ウマクイッタノ?」
ルシールは大きな目をくりくりさせて尋ねた。
「そりゃあもう」
私は大きく頷く。「ルシールのおかげよ、ありがとう」
「ダッテ、トモダチダモノ」
あどけない表情でにっこりと微笑んで、ルシールは言った。
「サヤカノタメナラ、ナンデモスルヨ」
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