第44話 大学1年生 新居の夜

 アパートに戻り、すぐに和室に備えつけのエアコンのスイッチを入れた。

「まだまだ寒いね」

と春香はコートを着たままで、段ボールから電気ポットを取りだして軽く中を洗うとそのままお湯を入れてコンセントを差し込んむ。


 俺もブルゾンジャンパーを来たままで、買ってきた洗剤とかを流しに運んだり、トイレットペーパーをセットしたりしていると、ようやくエアコンが温風を出し始める。


 それを見ながら、

「う~ん。リビングはガスストーブの方が良いかもしれないな」

とつぶやくと、春香が、

「ここって都市ガスだったよね?」

と言った。そう。大家さんに前に確認したとき、灯油はNGだったけれど、ガスファンヒーターはOKとの返事をもらってある。

 幸いにガスの口はキッチンから引っ張ってこれるので、さほどの問題はない。早速、明日の買い物リストにガスストーブとメモをしておこう。

 ただ夏場はどうするか考えないとまずそうだ。う~ん。


 春香が寒そうにしながら、

「とりあえずご飯にしよっか」

と言いながら、電気ポットのお湯が沸くのが待ちきれずに、ヤカンに水を入れて火にかける。


 俺はその間にお弁当をテーブルの上に並べた。

「「いただきまーす」」

 二人で向かい合ってお弁当の蓋を開けた。今日は二人とも唐揚げ弁当だ。


 やかんのお湯も少量だったのですぐに沸き、春香が湯飲みにお湯を注ぐと、緑茶のティーパックを入れて持って来た。じんわりと温かい湯気が立ち上る。

 弁当を食べ終える頃には、ようやくダイニングも暖かくなってきた。


 ゴミを袋にまとめていると、

「お隣さんと下の人には挨拶しといた方がいいね」

と、キッチンを整理している春香から声がかけられた。

 引っ越し挨拶は、一人暮らしの場合など危険だからしないことも多い。それに大家さん情報では、一人暮らしが多いからしなくていいということだ。

 念のため、挨拶用に日持ちのする菓子折をいくつか持ってきてあるが、まあ大家さんにだけしておけばいいだろう。

 その旨を春香に伝え、俺は浴室を洗ってお湯を落とし始めた。


 時間は、夜の7時過ぎ。

 まだまだ段ボールが並んでいるが、早めにお風呂に入って埃を落としたい。

 春香と相談して、とりあえず生活するのに必要な物を先に開け、大学の勉強に使う物はとりあえず勉強部屋に突っ込んでおくことにした。

 こっちは3月中にやればいいだろう。


 バスタオルを脱衣所に運び、お湯が入るまでリビングでテレビの調整を行う。

 地上波デジタル放送の移行までは、まだ何年も先だ。リモコンを片手に、マニュアルと睨めっこをしながら設定を弄り、なんとなく上手く行ったと思う。


 その間、春香はダイニングのイスに座って、俺の様子を見ていた。

 視線に気がついて目を向けると、ほおづえをついた春香がニコニコしていた。

「どうした?」

「ん~。なんだかいいなぁって思って。この雰囲気」

 妙にうれしそうな春香の声に、テレビの設定を暫定的に終わらせ、俺も隣に座った。

 春香の言いたいこともわかる気がする。なんていうか……。

 微笑んで、

「新婚さんって雰囲気?」

ときくと、春香はこくりとうなづいた。


 お湯を落とし始めて10分が過ぎたのでお風呂を見に行く。お湯が張っても自動では止まらないし、音も鳴らないから要注意だよね。


「春香。先に入っていいよ」

と声をかけると、春香が、

「ね? 一緒に入る?」

と、どこか期待するような表情できいてきた。思わずごくりとのどが鳴る。

 けれど、一緒に入っちゃったら我慢できないような気が……。まだ部屋の片付けも終わってないし、ちょっとまずいかなぁ。


 一人で葛藤していると、春香がそっとやってきて俺の手を握り、

「ほらほら。行くわよー」

と言いながら風呂場に向かって俺の手を引っ張る。お、俺の理性が……。

「限界突破。……降参」とつぶやくと、春香がくるりと振り返って、

「ん? 何か言った?」

と首をかしげた。


 春香の長い髪がふぁさっと揺れ動き、俺を上目遣うわめづかいで見てくる。春香も少し上気して、頬が朱に染まっていた。

 ……うん。お風呂の中の話はしないよ。だって、春香は俺だけの春香だから。


――――。

 お風呂上がりに、二人ともパジャマ姿になっている。


 それで今なにをしているかというと――、

「ね。ドライヤーってどこだっけ?」

「ドライヤーか? ええと……」

 あわてて2、3の段ボールを開けるが見当たらない。俺はともかく春香は今、バスタオルで長い髪を包んでいる。


 それから、あっちこっちの段ボールを開けて、

「あったぁ!」

と見つけたのは、洋室に運んだ文房具の段ボールの中だった。

 ……なんでこんな所に入れたんだ?


 ともあれ今はダイニングでテレビを見ながら、春香がドライヤーを髪に当てている。

 湯上がりの春香の匂いが鼻腔びこうをくすぐる。

 もうずっと一緒にいてかぎなれた匂いだが、不思議と落ち着く。

 ま、こんなこと口に出して言ったことはないけどね。……だって、変態だと思われたくないから。


 そんなことを考えていると、春香がくいっとこっちを見て、

「ん~。夏樹っていい匂いするよね」

と言ってきた。な、なに? 春香も同じようなこと考えていたのか?

 動揺しながら、

「は、春香だっていい匂いがするよ」

と答えてしまってから、思わず口を手で押さえた。やべっ。

 ところが春香はうれしそうに微笑むと、ドライヤーをテーブルに置くと、ぎゅううっと抱きしめてきた。


「ほらほら~。いつでも匂いをかいでいいよぉ。……くんくん」

 俺の胸元でくんかくんかしている春香と、直近で目が合う。

「「ぷっ、……くすくす」」

 二人同時で笑い声をあげながら抱きしめた。笑いながら腕の中の春香に、

「まるで変態だな」

と言うと、春香も笑いながら、

「ん~。でも落ちつくんだよね」

といって背伸びをしてキスをしてきた。


 それから、俺はキッチンでコーヒードリッパーを取りだして、ヤカンでお湯を沸かしながらコーヒーの準備をする。


 今日の豆はフレンチローストの深煎りの豆を細挽きしてある。

 いつもの手順で豆を蒸らし、お湯を置いていく。ぽたぽたとコーヒーがサーバーに落ちていき、香りが立ち上って部屋に広がっていく。


 隣でいつものようにのぞき込んでいた春香が、カップに牛乳を少量入れて、レンジで温める。

 ドリッパーをサーバーから取り外し、温めたカップの牛乳に砂糖を入れ、コーヒーを少しずつ入れていく。

 完成したカフェオレを手にしてテーブルに座った。


 手の中のカップがじんわりと温かい。

 そっと口をつけると、やさしい甘さが口の中に広がった。

「……いつもながらおいしいね」

と春香が幸せそうに、ちびりちびりと飲んでいる。

 ふっと笑んで、

「ま、風呂上がりにコーヒー牛乳は鉄板だろ? ホットだけどさ」

と言うと、

「ちがいない」

と春香も笑った。


 二人暮らしの夜は、たくさんの段ボールとカフェオレのやさしい香りに包まれながら更けていく。

 さあ、明日も荷物の整理を頑張ろう。

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