たより(三)

 四詩は身を躍らせると、素早く帯のあとを追った。

「四詩!」

 藤世は驚き、露台の手すりに取り付いて見下ろす。

 四詩はするすると柱を伝い降りて、風に翻弄される赤い帯をくわえとる。振り返り、藤世を安心させるように高々と示してみせる。

 藤世はほっと息をついた。

 一矢を見ると、彼女は顔を赤くしてぶるぶると震えている。

「……一矢さま」

「さま、は付けるな」

 目をそらし、ぼそぼそと言う。

「……ですが……」

「そなたは雪獅子の伴侶。雪獅子のためにある巫祝に――いつくしの嶺の民みなに敬われるのが筋だ」

「……わかったわ。あの、帯のことは……」

「……四詩が――雪獅子が受け入れたことであれば……かまわぬ」

「でも……家畜のように扱われていると、思うひともいるかもしれないわ。あなたのように」

 一矢は藤世をぽかんと見た。

「……そなたが織ったたいせつなものだろう。雪獅子が、それをまといたいと思ったのなら、その意思を尊重するほかはない」

 村長の娘に扉を開けてもらい、四詩が露台に戻ってきた。

 くわえていた帯を下ろし、藤世に身をすり寄せると、鼻先で藤世の唇に触れる。

 藤世は四詩の耳の後ろに手をもぐりこませ、彼女がこころよいように掻いてやる。四詩はごろごろと喉を鳴らした。

「そうだ、ねえ、四詩の声は? あなたにもまだ聞こえない?」

 藤世は思いつき、一矢に聞くが、彼女は首を横に振った。

「……そう……」

 肩を落とす藤世に、短髪の少女はつぶやくように言う。

「清さまのときにも、ときおり声が聞こえなくなることはあった。体調がお悪いときか、ひどくふさぎこんでおられるときは……」

「……ふさぎこんで」

「伴侶のことを、思い出しておられたのだろう。そのときは、わたしにはなにもわからなかったが……。代替わりのとき上がった叫びは、清さまのもののように、わたしは思った」

 一矢は、瑠璃色の瞳を藤世に向ける。

「記録が残っていないから、確たることはなにも言えないが、おそらくは、四詩は先代の雪獅子の瘴気をまともに受けたのだ。そなたが言う、珊瑚がそれを引き受けるはずだったかもしれないが、それがあの場にはなかった」

 藤世は四詩と目を見合わせた。

「じゃあ」ぱっと顔が明るくなる。「珊瑚をここにもってくれば、四詩の声が聞こえるようになるの?」

「あるいは、そなたが先代の伴侶から聞いたように、ひとのすがたに戻ることもできるようになるやもしれぬ」

「それができたら、どんなにいいか……」

 藤世は両手を握り合わせ、目を潤ませた。

「でも、珊瑚は臨泉都の王さまが代々伝え持っているらしいの。嶺に渡すことを受け入れてもらえるかしら……」

「……」

 一矢はいちどうつむき、視線をさまよわせてから、ふたたび藤世を見た。

「わたしが、叡雨君に文を織ろう。いつくしの嶺の一の巫祝からの文だ。無視はさせぬ」

「ほんとう!?」

「そなたのためではない」

 一矢は無表情だった。

「嶺の――……いや、わたしのためだ」

 藤世はことばを吟味せぬまま、思ったままを口走った。

「四詩がことばを取り戻しても、あなたに告げることばは変わらないと思うわ」

「そんなことは」

 一矢は語気をつよめた。

「わかっている」

 瞳が、ともしびのように揺らめいてから、ふたたびひたむきに四詩を見つめる。

 それに胸を衝かれるような思いをしながら、藤世は一歩前に出た。四詩から、一矢をかばうように。

「四詩はわたしのものよ」

 藤世はゆっくりと言った。

 一矢はするどいまなざしを藤世に向けた。

「雪獅子はだれのものでもない」

「そんなことどうでもいいわ。四詩はわたしのものなの」

 淡々と、しかし声をおおきくして藤世は言う。

「わたしは四詩に、しあわせでいてもらいたい。そのためなら、なんでもする。四詩がわたしと一緒にいたいと思っている限り、わたしはそうする。だからいま、四詩はわたしのものなの」

「……」

「王さまに手紙を書くと言ってくれて、ありがとう。布のことで協力できることがあれば、なんでもするわ」

「自分で織る。そなたの手は借りぬ」

 一矢は睨めつけるように藤世を見ると、さっと身を翻し、露台を去った。


 藤世が露台の欄干の下に腰掛け、見下ろすと、一矢の一行が慌ただしく出立していくのが見えた。山また山のこの地を、東に向かうという。一矢は神殿に戻るのだ。

「……あんな言い方で良かった?」

 膝に頭を載せている四詩の首元を撫でる。四詩は身を伸ばし、藤世の頬をそっと舐めた。

「わたしたちも神殿に戻りましょう。印月さまから、文が戻っているかもしれないし」

 四詩のふわふわの毛並に顔をうずめる。

 四詩は絨毯に置いてあった帯を口で拾い上げ、ねだるように喉を鳴らした。

 藤世の頬に笑みが浮かぶ。四詩の願い通り、帯を首に巻く。金具で結び合わせ、端を垂らす。

 ――藤世。

 四詩の声を思い出す。目の前の彼女の、あまりにも変化してしまったすがたを見つめる。なによりも不安なのは四詩のはずだった。ならば、自分が常に前に出て、彼女を守らなければ。そう思って、藤世は立ち上がった。

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