継承と喪失(一)

 朗唱の声だけが響く夜の神殿。

 一矢は木札を捧げ持ち、炉にくべる。暗がりに、炎と煙が沸き立ち、一矢の顔を熱する。

 自分は悪鬼のような顔をしているのかもしれない、と思う。

 煩わしいとすら感じなくなった苦悩は、一矢のこころのすべてを支配している。

 聖山から戻った自分を迎えたのは、二映だった。老いた彼は断固とした口調で、谷底で保護した四詩をしばらく静養に下がらせたこと、四詩とは別に自分たちふたりは先に神殿に戻ることを伝えた。

 四詩の名を耳にしただけで、胸にねじり上げられるような痛みを感じる。

 二映はおそらく四詩とのあいだになにがあったかを知っている。そのことはどうでもよかったが、弱々しく反論しかけた自分を、しかりつけるような強引さで旅立たせたことは、認めがたいがありがたいことだった。

 雪獅子のため、嶺のために生きることで、民を率いる巫祝が、色恋のためにいざこざを起こすなどとは、あってはならないことだった。

 そう、これは、ただの恋だった。

 切り立った峠の道を、寒さに扉を閉ざした村々を、木一本生えない雪原を、分厚く凍った川の上を自分の足で歩き進んだとき、一矢の胸を凍り付かせるように吹き抜けていった峻烈な風は、彼女のこころに、ある諦念をもたらした。

 わたしは、一矢だ。

 もういちど四詩を目にしたとき、自分のなかになにが生まれるかはわからない。しかし、神殿には、彼女の権威と出自によって集まった貴族たちと、赤子のころに、立ち上がって歩き出すことから自分の世話をしている従者たちがいた。彼らのすがたを目の隅に見たとき、自分の立つ場所があまりにも高いことを悟った。

 ここから降りる方法を、わたしは知らない。

 悪鬼に身を乗っ取られているとしても、わたしはこの場所でしか生きられない。

 神殿から戻って一夜も明けないうちに、二映と三叉は矢継ぎ早に一矢に祭事をさせた。

 こころはそれに動かされなかったが、からだは滑らかに祈祷をなした。

 そうして忙殺されているうちに、眠れなくなった。

 夜は札を焚き上げて過ごすことにした。

 それから何日が過ぎたのかもわからない日に、一矢は二映と三叉から、四詩が雪獅子を殺すつもりであることを知らされる。



 四詩はいま、藤世という名の少女とともにあること。

 その少女が、雪獅子を代替わりさせる短剣をもたらしたこと。

 その短剣は、古い布帛の記録に見える「剣」であり、四百年前に失われ、いまになって藤世の住んでいた島に再度現れたこと。

 少女が言うには、雪獅子には「伴侶」が必要で、いまの雪獅子は伴侶と遠く引き離されているため、人間のすがたになれないこと。

 臨泉都で病床にある伴侶は、藤世に彼女こそが次の雪獅子の伴侶であると告げたこと。

 藤世は、短剣を拾った夜から、四詩に夢によって深く結びつけられていること。

 それから考えられることは、四詩が藤世の伴侶であり、すなわち、四詩が次の雪獅子であること。

 雪獅子を、次の雪獅子が殺すことで、代替わりがなされなければならないこと。

 二映と三叉は、布帛庫に残された記録と、短剣、蝉翅織の布を示しながら、一矢に説明した。

「それを、本人ではなく、そなたたちがわたしに説明するのか」

 一矢は椅子から立ち上がった。

「いかように申し上げても」二映は眉ひとつ動かさず淡々と言った。「一矢さまはお怒りになられることは、承知しております」

「ふざけるな!!」

 叫び、感情の行く先も思い当たらぬまま、一矢は震えた。

「その、藤世という女は」

 その名前は、一矢の脳裏に繰り返し響いた。回嶺行の露営の暗闇で、温かな四詩のからだに触れながら、彼女が唇から漏らして聞いた名前と同じであることに、頭蓋を鉛の塊に叩き潰されるようなここちがした。

「わたしから雪獅子も、四詩も奪うということか!!」

 蓬髪の三叉は、まっすぐに一矢を見つめてきた。

「一矢さまは、なにも奪われませぬ」

「なにを」

「雪獅子も、四詩も、もとより一矢さまのものではありませぬ」

 一矢は目を見ひらいた。

「御身の情も、慈しみも」

 二映も静かに一矢を見つめた。

「祈りも、願いも。御身のなかにだけ、あるものでございます。現し世のさだめは、それとは別にあります」

「一矢さまのご祈祷は、雪獅子に届きましょう。しかし、みこころを満たすのは、ただご自身のみのわざです。一矢さまは、なにも奪われませぬ。その執着は、喪失ではありません。こころ楽しく得られるものではありませんが、それはたしかに収穫であるはずです」

 ふたりはひれふし、二映は穏やかに話を結んだ。

「雪獅子に、意を伺いましょう」

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