第二章 闇夜の悲劇


    



 ミナシネミナシネミナシネミナシネミナシネミナワタシトオナジ――


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 深夜、人気のない道を歩きながら菜実は後悔していた。

「やっぱ、荒木君に送ってもらえば良かった――」

 きょうひとり残業していると、同僚の荒木も一緒に残ってくれた。彼に好意を寄せられていることは薄々感づいていた。

 帰り際、家まで送ると申し出てくれたのだが菜実は丁寧に断った。優しいだけが取り柄の荒木に興味がなかったのだ。承諾して好意を受け取ったと勘違いされるのは嫌だった。

 菜実は姉弟のように仲の良い従弟の顔を思い浮かべた。優しいだけじゃなくて芯の強い男。恋人にするならあんな男がいい。でも従弟は結婚した。もう以前のようには自分と付き合ってはくれないだろう。

 寂しさを噛みしめ、従弟の幸せを願う。

 電柱の薄暗い街灯が点滅し始めた。

 菜実はぶるっと震えると足早に街灯の下を通り過ぎた。

 このとき、先を急ぐことに気を取られ、路地に潜んだワゴン車に全く気が付いていなかった。


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「おい。見ろ」

 後部座席で煙草をふかしているヒロアキが前方を指さした。

 ハンドルに持たれて居眠りしていたコウジが顔を上げる。薄暗い路地を若い女が急ぎ足で横切っていった。助手席のユースケはスマホゲームに夢中で全く気が付いていない。

 コウジのワゴン車は何の意図もなくここに止めていただけだったが、たった今たくらみが生まれた。コウジはヒロアキの考えていることが手に取るように分かった。

「いいねえ」

 後部座席を振り返ってにやりとしたあと、エンジンをかける。車はゆっくりと発車して左折し、女の後ろ姿を離れて追う。

 ヒロアキが身を乗り出してコウジに顔を寄せた。

「どこでやる?」

「そうだな。なあ、あそこはどうだ。もうほとぼりも冷めてるだろう」

「あそこ? うーん。気が進まねえな」

「なんだよ怖いのか」

「別に怖かねえけどよ。お前は平気なのか」

「オレ? わくわくするよ」

「お前ら何の話してんだ?」

 ユースケがやっとスマホから目を離した。

 コウジが顎で女を指し示す。

「あそこへ行こうって言ってんだよ」

 ユースケは右手の甲を目の前にかざし、じっと見つめた。

「いいんじゃないか。おれもわくわくする」

 コウジは満面の笑みを浮かべ、ワゴン車のスピードを上げた。


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 車に乗せられてからどれだけ時間が経ったのだろう――

 菜実はずきずきと痛む頭でぼんやりと考えた。

 男たちに拉致された時、すぐ口に詰めものをされ悲鳴を上げることも出来なかった。後部座席に引きずり込まれると顔も体も拳で何度も打ち付けられた。手足の拘束はされなかったが逃げられるかどうかわからない。

 車が揺れるたびあちこちがひどく痛む。顔も腫れあがって目が開かず、詰め物が苦しくて泣くこともできない。

 菜実は微かな目蓋の隙間から車窓を見た。外はまだ暗かった。

 なぜ目隠しをしないのだろう。顔を見られてもいいということは、わたしは殺されるのかもしれない。

 その考えに至ると体が震えだした。

 隣に座る煙草臭い男の手がスカートの中に入ってきた。

 全身が総毛立つ。身を捩り、声にならない声を上げた。助手席の男が振り返ると隣の男は手を引っ込めた。

 流れる景色がどんどん山深くなっていく。

 菜実は自分の死に場所を見た気がした。


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 ユースケの右手、親指と人差し指の間には咬傷による古傷があった。

 コウジとヒロアキはこれを名誉の負傷と呼んでいたが、ユースケ自身は、「廃屋のクソ女に噛み千切られた不名誉な傷」だと思っていた。

 だが借りは返した。首を絞めた時の女の恐怖と苦しみに満ちた顔を思い出すと、未だに快感が体を駆け抜ける。あの瞬間自分が特別な人間になったと感じた。

 死体は床下に放り込んできたが、もし発見され警察が自分たちにたどり着いても別に構わないと思っていた。むしろ両親の驚愕と絶望の顔を見るのが楽しみだった。

 数日後、死体の発見を報道で知った。驚いたのは女のほかに四人の死体があったことだ。

 五人は同じグループの仲間だと早口のリポーターが現場で報告していた。ということは、四人は置いてきぼりを食らわせた奴らで、戻って来たあとに何事か起こったということか。無関係な殺人の罪まで背負わされてはかなわないと、ユースケは気色ばんだ。

 だがその後、事件自体がなかったかのように報道されなくなった。捜査がどうなっているのか、自分たちの存在は把握されているのか、不安はあったが一年以上過ぎた今も警察が来る気配はない。自分たちは上手く逃げおおせたのだとユースケは思った。

 ごそごそと後部座席から何度も音がして、そのたび女の呻き声が聞こえてくる。

「おい、ヒロアキ。てめえいい加減にしろよ。もうちょっと待てねえのか」

 ハンドルを叩いてコウジが怒鳴る。

 不満げな舌打ちをするヒロアキを嗤って、ユースケは視線を前に戻した。

ヘッドライトにあの時と変わらない廃屋が浮かびあがった。


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 エンジンが停止し静かになると、ヒロアキと呼ばれる男の荒い息だけが聞こえてきた。

 菜実は車から降ろされる時が最後のチャンスだと逃げる隙を伺っていた。体を動かせるのか不安だったが、貞操と命を守るために気力を奮い立たせるしかない。

 助手席の男がダッシュボードを開けて懐中電灯を取り出し、スイッチを入れた。車内に広がる光の輪を菜実の顔に当て、「ぶっさいくになったなあ」と声を上げて笑う。

 菜実は瞼の隙間から男を睨んだ。

 ヒロアキが先に降りてすぐ菜実は髪を鷲掴みにされ引きずり出された。痛さのあまり呻き声を上げてもお構いなしに廃屋へと引っ張られていく。これでは逃げられないと絶望感が広がった。

 いや、まだ大丈夫。きっとチャンスはある。

 菜実はそう自分に言い聞かせた。


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 懐中電灯の光に浮かび上がる廃屋の内部は以前と変わらず荒れ放題だった。

 ユースケはゆっくりと光を移動させて適当な場所を物色し始めた。埃をかぶった欄間の龍が自分たちを見下ろしている。

「薄気味悪いな」

 ヒロアキがぽつりとつぶやく。髪をつかんだまま女を足元にひざまずかせていた。

「お前やっぱりビビってんだろ」

 コウジがぷっと吹き出し、「五人も死人が出た場所だから、しょうがねえっか。なっ」とユースケの肩を叩いた。

「他人事みたいに言うな。そのうち一人はおれたちが殺ったんだからな」

 そう言ってコウジたちに光を向ける。

 女が見て取れるほど震えだした。

「それが怖ぇんだよ。あと四人誰が殺ったんだ」

 ヒロアキの声も震えている。

「おいおい、お前怖くねぇって言ってたじゃねえか」

 コウジが大笑いした。

 一緒に笑っていたユースケは、今までそこにいた女がいなくなっていることに気付いた。


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 菜実は痛みをこらえて玄関まで出てきた。早くどこかに隠れなければと、気ばかりが焦る。

 人を殺したと言う男の言葉を聞いて、もうだめだと思った。だが、怯えるヒロアキがつかんでいた髪を放した。

 菜実はチャンスを逃さず隙をついて抜け出した。

 ここでつかまればもう終わりだ。

 口の詰め物を取り出して捨てる。心臓が痛いほど高なっていた。

 周囲を取り巻く雑木林を星明かりがほのかに浮かび上がらせている。あの中に入れば姿を隠せるかもしれないと思ったが、木立の奥は真っ暗だった。

 何をしているの。早く行くのよっ。

 自分を叱咤し進もうとしたその時、後頭部に凄まじい衝撃が来た。その場に崩れ落ちた菜実に男たちが怒声を浴びせ、何度も蹴りを入れる。

 意識が遠のいていく。目の前が雑木林の闇よりも濃くなっていった。


           8


「また殺っちゃう?」

ユースケの手元に懐中電灯の光を当て、コウジがにやけた。

「当たり前だろ」

 古縄を拾ったユースケは強度を確かめるため、それを左右に引っ張った。

「なんか背中がぞくぞくする。やっぱここ怖ぇーわ」

 ヒロアキが暗闇に視線を巡らせて立ち上がった。ズボンを上げチャックを締める。

「お前ね、怖ぇ怖ぇ言いながら何回ヤッてんだよ」

 コウジがへらへらと笑うヒロアキの頭を小突く。

 ユースケは腐った畳の上で力なく横たわる女にまたがると古縄を首に回した。コウジが横に座り込んでライトを当てる。

 縄をつかんだユースケの拳にぐっと力が入った。

「オーエス。オーエス。右手がんばれっ左手がんばれっ」

 ヒロアキが上から覗き込み、子供のような声を出してふざけた。

 古縄が柔らかな喉に食い込んでいく。ぐぐっと呻き声を上げ、女の口からよだれが流れた。

 ユースケの胸が高鳴る。

 おれはまた特別な人間になる。

「お、おい。そこに誰かいるぞ」

 突然ヒロアキが暗闇を指さし、怯えた声で叫んだ。

 ユースケとコウジが同時に顔を上げて指した方向を見た。暗い壁際に影が佇んでいる。

「誰だてめぇ」

 コウジが立ち上がり、光を向けた。

 うつむいた女が立っている。抑揚のないつぶやき声が聞こえてきた。

 突然、ヒロアキが喉を掻きむしり苦しみ出した。膝が崩れて倒れ込み転げ回る。喉の皮膚を裂き、指の間から血が溢れ出した。

「首、首、が、締――まる――た、助け、て――」

 充血し膨らんでくる目でコウジとユースケに救いを求める。

「どういうことだ。これ」

 コウジが光で照らしてみても首を絞めている者などいないし、紐もない。首の締まる原因が何一つ見えなかった。

 掻き破った喉の間からひゅうと音がして、ヒロアキの動きが止まった。

「嘘だろ? おいヒロ――っ」

 しゃがみ込もうとしたコウジが次に苦しみ出した。懐中電灯がユースケの足元に転がってくる。素早くそれを拾うとコウジに向けた。ヒロアキと同じように苦しみもがき、喉を掻きむしっている。

 皮膚も肉も掻き破って血の泡を吹き出したあと、コウジもこと切れた。

 つぶやきがだんだん大きくなり、蜂の羽音のようにうねりながら闇に響く。

「ミナシネミナシネミナシネミナシネミナシネユルサナイユルサナイユルサナイ――」

 ユースケが光を当てると女が顔を上げた。白濁した左右の瞳が別々のほうを向いている。

「ミナシネミナシネミナシネミナシネミナシネユルサナイユルサナイユルサナイ――」

 その瞳がぐりっと動いてユースケに焦点を合わせた。頭の中で声が反響し始める。

「ユルサナイユルサナイユルサナイユルサナイユルサナイ――オマエハユルサナイ」

 突然、首に何かが巻き付いた。それがぎりぎりと締まっていく。両手ではずそうとしても指先には何も触れない。

 放した懐中電灯が床に転がる。

「おまえ。思い、出した――クソ女っ――」

 見えない紐が喉に食い込んでぶちぶちと肉を裂いていく。

 首から千切れたユースケの頭部は一度バウンドしてから、床板の暗い穴に吸い込まれていった。


           9


 闇の中で菜実を呼ぶ声が聞こえる。

 返事をしたくてもできずに、行ったり来たりを繰り返す。

 やがて目の前が明るくなってきた。


 目を開けると病院のベッドの上だった。

 傍らに父と母がいた。

 二人の細かな皺に囲まれた目に大粒の涙があふれている。

 それを見たあと、菜実は再び深い眠りに落ちた。


 柔らかな光が病室を満たし、開けた窓から心地よい風が入ってくる。

 菜実は半身を起こし、揺れるクリーム色のカーテンをぼんやりと見ていた。

「きれいな薔薇よ。荒木さんって方が届けてくださったの」

 病室に戻って来た母がピンクの花束を持ってカーテンの隙間から姿を現した。

 菜実の好きな花だった。

 荒木は病室まで来なかったらしい。菜実を慮ってのことだろう。荒木らしいと思ったが、ここに来たとしても会う気はない。仲の良い数人の同僚も見舞いに来てくれたが誰にも会わなかった。会社も辞めるつもりだ。

 もう誰にも会いたくなかった。たとえ大好きな従弟であっても。

 菜実は何度も我が身に起こった事を思い出していた。父も母も娘に何が起きたかすでに知っているだろう。警察官が何度か病室に来て両親と話をしている。

 だが、自分の口から何も語っていない。話そうとすればきっと心に溜まった怒りや悲しみが爆発するだろう。そうなれば自分を抑えられなくなる。そんな娘を見たら父と母がまた悲しむに違いない。二人の悲痛な顔を見るのはもういやだった。

 冷蔵庫のプリンを勧める母の明るい笑顔を見つめた。

 泣いてはいけない。泣くもんか。絶対泣くもんか。

 菜実はぎゅっと唇を噛んだ。

 母がそっと寄り添い、菜実を抱きしめる。

「泣いていいのよ。気が済むまで泣きなさい。大丈夫よ。ずっとそばにいるから」

 暖かく優しい声に菜実の視界がにじんだ。

 悲鳴のような泣き声が病室に響き渡った。



 どんなに泣いても涙はすべてを洗い流してくれないだろう。受けた傷はきっと忘れられない。でも、わたしは生きている。


 その後、事件はなぜか極秘扱いで捜査は打ち切りになった。もちろん父も母も納得できず、何度か警察へ訴えたが何事か事情を聞き、頷かざるを得なかったようだ。

 その事情をわたしは知らない。母は、生きて帰れたのは奇跡なんだよとだけ教えてくれた。

 奇跡といえば、不思議なことがある。

 どうやってわたしの居場所がわかったのかずっと気になっていた。

 母の話では「○○山中の廃屋にいる」というメールをわたしが送ってきたそうだ。それで警察に通報したという。

 駆けつけた警官が外で倒れているわたしを発見した。

 だがメールをした覚えも外に出た覚えもない。

 覚えているのは、首を絞められて微かに意識が戻ったとき、奴らの苦しみもがく声を聞いたことだ。そのとき、助手席にいた男の首が転げ落ちるのも見た。

 ああ、そうだ。女の人がわたしを覗き込んでいたのも覚えている。

 それが幻や気のせいなどでないのなら、その人がわたしを助けてくれたのかもしれない。


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