第32話 話せばわかる

 稲葉にもう一ヶ月は連絡も取らないし、会わないとすばるが言い渡した翌日、俺は稲葉の部屋に呼び出されていた。


「俺にダメな所があるなら直すから! もうちょっと踏みとどまってくれ!」

「むしろそうやってすばるがお前の要望を聞くたびにお前はダメになってきてる気がするんだけど!?」


 ……まあ、こうなる。

 椅子に座る俺の前で稲葉が土下座する光景も、もう見飽きてしまった。


「確かに、俺はお前に甘えすぎていたかも知れない……でも、これからは気をつけるから!」

「お前が今気にかけるべきはすばるじゃなくて、しずくちゃんだろ」

「それは、そうなんだけど……」


 稲葉に顔を上げさせて床に座らせれば、稲葉は気まずそうに視線を逸らした。

 俺はため息をつきながら床に腰を下ろして稲葉の目の前に座る。


「雨莉は美咲さんと籍を入れるし、俺はかすみと恋人になって、稲葉はしずくちゃんとくっつく。大団円じゃないか」

 そう口に出してみると、自分で言っておいてなんだが、物は言いようというか、本当にそれで全てが上手く行きそうな気がする。


 実際にはいくらか不安な点もあるが、今はそれに目をつむることにする。


「将晴、結婚は人生のゴールじゃない。新たなスタート地点だ」

「どうしたんだよ、急に」


 直後、稲葉は急に低い声で語り出した。

 思わず俺はたじろぐ。


「むしろその後の人生を考える時、付き合っている時から結婚初期の過ごし方によって、その後の家庭生活や、親戚付き合いの大半が決定づけられる」


「お、おう……」

 深刻そうな調子で話す稲葉に、俺は困惑した。


「……って、前に誰かがツイッターで呟いてた」

「ソースはツイッターかよ」


 しかし、最後の締めくくりに、一気に俺の気が抜けた。

 誰の発言だかは知らないが、その人の人生が垣間見える言葉ではある。


「でも、最近俺はひしひしとそれを肌で感じている」

「……話してみろ」

 また何かあったのか、と俺はため息をつきながら稲葉に続きを促した。


「話すも何も、前に言った通りだよ。しずくちゃんとしずくちゃんの父親の押しが強すぎて、このままだと、1から10まで全てを決められる人生になりそうなんだよ。多分姉ちゃんレベルで甘やかしてくるだろうけど、俺はそれが嫌なんだ」


 更に話を聞いてみると、稲葉はしずくちゃんの父親からは卒業後の就職先やら、新居まで世話してくれると言ってきているらしい。


 際限なく甘やかしてくる美咲さんから早い所自立したいと願う稲葉は、それでは甘やかしてくる人間が代わるだけだと首を横に振る。


 いっそ反対してくれていたなら、まだ楽だったのに、とまで稲葉はこぼす。

 俺としては、このご時勢にもう就職が決定なんて羨ましいと思うのだが、稲葉に実力の無い人間がコネで入社し贔屓で出世というのは、一番現場で反感を食らうのだと強い語気で言われた。


 それで、一度美咲さんの経営する店の雰囲気がエライ事になったと稲葉は語る。

 恐らく稲葉の父親の事だろうが、相当にやらかさないとそうはならないと思うのだが、何をやったんだあの人。


「とにかく、俺は誰かのコネとかに頼るんじゃ無くて、一人の人間として自立したいんだ」

 稲葉は力説するが、俺はその言葉に首を傾げる。


「……思うんだが、それはあと数年すばると付き合ってどうにかなるものなのか? 大学出て、コネじゃないところに就職して、それで自立した事になるのか?」


「どういうことだよ?」

 稲葉が怪訝そうに俺を見る。


「卒業するまで猶予が欲しいなら、それこそお前が相手に直接言えよ。だいたい、その程度の交渉ができないようなら、将来就職しても、しずくちゃんをまともにするとか、その父親と交渉するとか、無理なんじゃないか?」


 だいたい、稲葉は本当に押しの強い木下親子に悩まされているのなら、それこそ何度でも自分の言葉で、相手にその気持ちを伝えるべきなのだ。


 就職してからとか、もう少し恋人として過ごしてからとか、問題の解決を先延ばししようとすればする程、後から言い出し辛くなるのではないか、とも俺は思う。


「大事なのは、お前の意志だ。最終的にどうなりたいか、そのためにどうしたいかを考えろよ。その場しのぎの方法じゃなくてさ。前に自分で言ってたじゃないか。『逃げた方が後々大変な事になる』って」


 解決すべきは、問題が見えてきた今、なのではないだろうか。

「……俺が、どうしたいか、か」


 稲葉は呟くように俺の言葉を繰り返す。

 そして、やがて顔を上げるとこう言った。


「とりあえず、しずくちゃんの父親は、学生結婚だ卒業後は本社に就職だとか言ってくれてるけど、俺としては雨莉がいつ殺傷事件を起こすか心配だから、都内には残りたいな」


 なぜ、ここで一宮雨莉の話が出てくるのか。

「いや、むしろ籍を入れて一宮も丸くなるだろうし、そこはそんなに心配ないだろ?」


 突然予想外の方向に転がった話に俺が困惑したが、稲葉は言いづらそうに言葉を続ける。

「だからこそ、俺は心配なんだけど……例えば、前にかすみが言ってたみたいに二人目の妹を迎えたりした日にはもう……」


「なんで二人目迎える前提なんだよ」

 さすがに、いくら美咲さんでもそれは無いと信じたい。


「前に姉ちゃんが雨莉のいない所で、考えてみれば養子縁組で籍を入れるという方法なら、女同士でも同じ苗字を名乗れるし、合法的にハーレムを作れるんじゃないか、みたいな事言ってたから……」


 あの時、姉ちゃん酒飲んでたし、本気かどうかはわからないけど、姉ちゃんならやりかねない、とも思う……。

 真面目な様子で言う稲葉に、俺は頭を抱えた。


「とりあえず、何かあった時にはすぐに駆けつけたい」

 まるで、事が起こる前提のように稲葉は語る。


 まず、稲葉と話し合うべきは、美咲さんかもしれない。

 いや、だとしてこの場合、どう切り出せばいいのか。


「さすがに考えすぎなんじゃないのか……?」

「だと、いいんだけどな……」

 独り言のように稲葉はつぶやいた。

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