四、鸚鵡は青空にはばたく

 女王の御披露目を翌日に控えた六月二十一日の、夜。

 陽が落ちるとリュリは『白金の小鳥』を開いた。机に向かう彼女に湿った夜風が吹きつけて、手元を照らすろうそくの炎を揺らめかせる。体温がすっかり奪われぬよう、彼女は自身の体に毛布をきつく巻き付けた。


 シファナ姫の窮地を救ってくれたのは、タイムと言う少年でした。彼はお母さんの病気を直す薬とお父さんの本を探しにお祭りに来ていると言いました。

「一緒に露店をまわってみるのはどうだい? 綺麗な石とか珍しい剣も売っているし」

「それが良さそうです。どちらも二人が気に入りそうなものですし!」

 二人ははぐれぬように手を繋いで露店を見て回りました。見たいものがある時には、握る指を少し強めて主張しました。最初は手を繋ぐことも恥ずかしがっていたお姫さまですが、少年の大きな暖かい手のひらに次第に安心感を持つようになりました。

 疲れたときには、美味しいレモネードを買ってきてくれて、それはシファナ姫にとってはじめてのレモネードでした。しゅわしゅわとはじけるあまずっぱさに真っ赤な瞳を白黒させながら味わいました。

 少し狭い道に入った時、骨董商のような露店の前を通りました。すると、店番が二人に声をかけました。

「お嬢ちゃん、ちょっとどうだい。綺麗だろ?」

 彼が見せてきたのは、銀色の細い筒のついたネックレスでした。暗がりでもキラキラと光っているのは、その筒に模様が彫ってあるからでした。

「珍しい、音のしない笛だよ。ちょっと吹いてたしかめて見ないかい?」

 お姫さまはタイムの方を窺いました。彼は穏やかにほほ笑んでいたので、彼女も意を決して露天商の手からネックレスを受け取りました。そして、かるく銀の筒を咥え、そうっと息を吹き込んでみました。確かに何も音はしませんでした。

 するとタイムは何故か笑いだして露天商に話しかけました。

 露天商は面喰って眼を丸くしました。

「なあんだ。ちゃんと音が鳴るじゃないか。おじさん、ぼったくろうとはしてないかい?」

 お姫さまも驚いてタイムから目が離せなくなりました。

「これは幾らなんだい? 値段の半分でなら買うよ。見た目にきれいだしね」

 タイムは露天商にお金を払うと、そのネックレスをお姫さまに渡しました。

「お姫さま、君にも聞こえなかったんだね? だとしたら、これは君にあげるよ。僕のことを思い出したら、吹いてほしい」

 夕暮れ時、あんなにあった露店はすっかり畳まれて、城下町の通りはすっかり見通しが良くなりました。ですが、一向にお姫さまの友人は見つかりません。

「先にお城に帰ってしまったのかしら?」

「まさか。あの二人が、君を置いていくはずがないよ」

 街灯が灯され始めた街並みに、二人はぽつんと取り残されてしまいました。

 冷たい風が吹いて、気持ちまで冷えてしまいそうな夜がやってきました。

「夜は危ないから、僕がお城まで送っていこう」

 そう言うと、タイムはお姫さまの手を強く握り、二人はお城の旗が見える方へと歩き始めようとしました。

「止まりなさい。姫さまをどうする気です?」

 すると、二人の後ろから凛々しい声が聞こえてきました。お姫さまにはなじみのある声でした。お姫さまは振り向いて嬉しそうに声をかけました。

「ネルボ! やっと会えました! いままでどこに?」

「それはこちらの台詞です、シファナさま。私たちその賊に捲かれていたのです」

「そんな、まさか。この人はわたくしと一緒にあなたたちを探してくださいました」

 ネルボが自慢のサーベルを引き抜き、タイムにその切っ先を向けました。彼はそれにも動じず、お姫さまと握った手を離しませんでした。彼はひとつ深呼吸をすると、語りだしました。

「その、まさかなんだ。お姫さま」

「嘘、嘘をついてらっしゃる?」

「僕は君に嘘なんかつかないよ」

 大勢の人間が走ってくる音がしてきたと思うと、兵隊たちがタイムのことを取り囲みました。

 ネルボがすかさずお姫さまをその輪から連れ出そうとしました。

 ですが、二人は手を固く繋いでいたのでなかなかうまくいきませんでした。強引に引き剥がしてしまうとお姫さまの体に傷がつくので、ネルボはお姫さまに言いました。

「シファナさまを白昼堂々、拉致するような悪い奴の手です。御放しになってください」

 お姫さまはすっかり短くなってしまった髪を乱しながら、首を嫌々と横に振りました。

「お姫さま、ごめんな。僕が振り回したばっかりに。楽しかったよ」

 タイムは手の力をすっと抜いて、お姫さまの小さな手を離しました。

 お姫さまは必死に掴もうとしましたが、一瞬の隙を見逃さなかったネルボによってあっさり引き離されてしまいました。

 タイムは、城内からシファナ姫を誘拐した犯人として、地下の牢獄に入れられました。

 身元を引き受ける人物が来るまで、ずっと彼は暗い地下牢に居なくてはならなくなりました。

 それを聞いたお姫さまは、うち沈んだ気持ちで自分の部屋に閉じこもってしまいました。

 その手には、小さな銀の笛がいつもありました。

 夜がやってきて、たったひとりになるとそれに優しく息を吹き込みました。

 けれど、お姫さまには何も聞こえません。

 本当に彼に笛の音が届いているのか、彼女には全くわかりませんでした。

 満月の晩、お姫さまの部屋の扉を叩く音が聞こえてきました。

「姫さま、姫さま。ジョイです。開けてくださいな」

 若い女中は、口を尖らせて言いました。

「姫さまが毎晩吹かれる笛で、ジョイは寝不足になってしまいました。なにかジョイにできることがあれば言ってくださいな」

「それは気の毒です。そうですね、わたくしを地下牢に連れて行ってくださる?」

 お姫さまがそう言うと、彼女は体を一つぶるっと震わせて言いました。

「暗くて怖いですよ。ジョイは行きたくありません」

「わたくしは行きたいのです」

 お姫さまの意思があんまりにも固かったので、ジョイはランタンを持つと、そうっとお姫さまを地下牢に連れて行きました。

 あんまり平和な国だったので、地下牢はほとんど使われていませんでした。

 ですから、居るのはタイムたった一人でした。

 彼の牢獄の前に行くと彼は壁に寄り掛かったままじっとしているようでした。

 暗くて顔は見えません。

「人が居ても居なくても、ここは暗くて怖いです。姫さま、ジョイは入り口でお待ちしていますから、早く戻ってくださいね」

 そう言うとジョイはランタンをお姫さまに託し、速足で入口に戻ってしまいました。

 その軽い足音が聞こえなくなると、タイムが顔を上げてお姫さまを見て言いました。

「今夜は笛が聞こえないと思ったら、来てくれたのか、お姫さま」

 タイムの疲れきった顔を見て、お姫さまはドレスが汚れるのも構わず屈みこみました。

「ネルボの言っていたことは本当なのですか?」

「そう。わざと君を友達から引き離した」

「それはなぜですか?」

「それは……」

 お姫さまは鉄格子の中に腕を差し込み、タイムの手を取ろうとしました。

 すると、彼もそっと手を伸ばし、彼女の細い腕をとりました。

「少しでも長く、一緒に居たかったんだ、君と」

 タイムは嬉しそうに口元を緩めると、お姫さまの手の甲に優しくくちづけました。

「いとしい小鳥さん、いつも君を見ていたんだよ。籠の外から」


 リュリが次のページをめくると、物語の終末ではなく、破かれた跡が目に飛び込んできた。

 頭から最後まで本のページをパラパラとめくってみたが、どこにもそれらしき紙は挿み込まれておらず、リュリは『白金の小鳥』を最後まで読むことが出来なかった。

 続きが気になって仕方ない、はやる気持ちがリュリの中に駆け巡る。

 ロゼちゃんはこの物語を最後まで読んでいたのかな?

 しかしそれを聴くことは不可能だった。

 二人の少女はこの時すでに、別々の道を歩み始めていたのだ。

「リュリ。読書はもういいかな? 待ちくたびれたよ」

 ビロードのようになめらかなテノールが、彼女の後ろから聞こえてきた。リュリに話しかけるときにだけ甘さを孕むそれは、彼女の兄、シュウのものだった。またの名を、仮面の魔術師ジークフリート。彼は、普段身につけている異国の衣装ではなく、薄手のローブを身にまとい、リュリの寝台に横たわっていた。今日からリュリと寝台を共にするつもりでやってきていた。

「明日からは夫婦なんだ。兄妹でいられるのは、今夜だけなんだよ……」

 いよいよその時が来た、とリュリは思った。

 本を閉じた手のひらがじんわりと汗ばむ。彼女はそれを悟られまいと、緩く拳を握った。

「お兄ちゃん、ごめんね。続きがどうしても気になって……」

 リュリは立ち上がり、申し訳なさそうに言うと、彼の寝転ぶ寝台へ腰かけた。

 シュウは素直なリュリの態度を見て少しだけ瞳を見開いたが、すぐに口元を喜びで綻ばせた。そっと彼女の毛布を床に落とすと、腰に腕を回す。だが、その腕は彼女の両手によってやんわりと押し返された。彼女の弱い拒否に、瞳を丸めた。

 いつもなら接触に関心がないかのように、彼にされるままだったはずだが。

 リュリは、シュウの方を見まいとして、寝台の上に広げられた衣装を見た。絹でできた異国風のドレスの上に、同じ絹糸で編まれたレースのベールがふんわりと乗せられている。結婚の衣装じゃなければ、好みのデザインなのになあ、とリュリは少し残念に思った。

「ドレス、出来たんだね……」

 リュリのため息のような呟きに、シュウも同様にして重ねる。

「そうだよ。気に入ってくれると良いけど」

 シュウの採寸の元作られたドレスは、七歳の彼が見た花嫁衣装が元となっていた。彼の養母が乙女時代を終える瞬間に着ていたものを、彼は忘れてはいなかったのだ。そしてその後の、愛し合う二人が交わした《ギフトの交わり》も。それは、憧れの女性が最も美しかった瞬間だったから。

 シュウが、記憶の呼び覚ました感傷に浸っていると、リュリは言いにくそうに呟いた。

「き、きて……着て、みても、いいかな?」

「こ、ここでかい?」

 シュウは、リュリの思わぬ申し出に瞳を見開いた。あまりに驚いたものだから、その体が勝手に寝台から跳ね起きたほどだった。彼に背を向けて俯いていたため、彼女の表情は全く彼にはわからない。だが、その耳が紅潮していることから、その頬も薔薇色に染まっているだろうと想像できた。彼は、できることなら、その様子を正面から見たいと思った。

 彼が青年兵士ルロイ・トマジをその手で処分してからというもの、リュリは頑なにシュウを拒み続けた。そこからの、彼女の手のひらを返したような態度である。

 彼は、リュリがやっと、心を溶かしてくれたのだと思うと、浮足立つのを感じた。口元が緩んでしまうのを、彼は必死に引き締める。何かを言おうにも、言葉が出てこない。

「あの、お兄ちゃん……。恥ずかしいから……見ないで」

 リュリは恥ずかしそうに顔を俯かせたままそう小声で言った。

 シュウはいじらしいリュリの様子に、自身の理性が揺らぐのを感じた。消え入りそうな儚い声音を、歓喜の嬌声にしてやりたい。そしてその時に見せるであろう、女性が一番美しくなる瞬間を独占したい。彼の欲望はとどまるところを知らなかった。しかし、初めて聞く彼女の申し出を断るくらいなら、と大急ぎで体の正面を壁に向け、彼女から視線を外す。

 リュリは、シュウが自身に背を向けたことをそうっと確認すると、異国風のドレスに手を伸ばす。純潔を表す真っ白な絹のレースが、しゅるりと爽やかな音を立ててそこから滑り落ちた。そっと拾い上げて、埃を払う。

 家族と結婚なんて、と少女は苦笑を零す。もう、家族として繋がっているのに。

 それなら、と彼女は一人の男を思い描く。

 もう一度。

 手にした絹のベールに願った。

 あの大きな手に触れたい。

 あの低い声を聞きたい。

 あの笑顔をずっと近くで見ていたい。

 それから―。

 シュウの耳には、衣擦れの音が大きく響いていた。ボタンをゆっくりと外す音、肩からそっとワンピースを床へ落とした音、そして寝台に手をついて衣装を持ちあげる音が、どれひとつ耳からこぼれることなく集められる。

 待つ時間が長ければ長いだけ、その間にシュウの想像の翼は羽ばたき続けた。翌日の挙式を終えれば、すぐにでも過去へ行こう。そして憎きイグナートの手から家族を守って、幸せな記憶を取り戻したら、ずっと彼女と生きてゆこう。

 長い時間が立ったように思えた後、ベッドに腰掛けたリュリはおずおずと声をかけてきた。

「変じゃないかな……?」

 その声に合わせてシュウがすぐさま振り返ると、彼の目の前には婚礼衣装を着こなしたリュリが恥ずかしげに座っていた。照れくさそうにほほ笑む妹に、シュウは堪らず腕を巻き付けた。

 彼女の体は、すっぽりと彼の中に収まった。彼女の髪から香る、優しいカモミールの香りを鼻腔いっぱいに吸い込む。草花の青臭さが、彼の幸せだった一瞬をまた呼び起こした。それは、乾燥したステップで、乾いた風と土埃に視力を奪われたリュリが大泣きしていたのを、ファイナがカモミールのジャムで泣きやませたことだった。

 じんわりと気持ちが暖かくなると同時に、彼の視界が歪みだす。しかし彼は何とかしてその一滴を溢さなかった。

「とっても似合ってる……! かわいいよ……」

 感極まって声を震わせるシュウに、リュリは黙って抱かれていた。そっと両腕を持ち上げ、シュウの腕にそっと触れる。するとシュウは思わぬリュリの行動に体を跳ねさせ、彼女を抱きしめる腕を一層強めた。

 さみしかったんだよね、お兄ちゃん。

 彼の心からの抱擁を受け、リュリは彼の求めている愛情の本質を垣間見た気がした。そして、それについてシュウが理解していないことも、うっすらと勘付いていた。

 静寂が、雨の屋根を叩く音で包まれる。

 ロゼはすでに市街に出たのだろうか、とリュリは思った。もし、未だ城内に居るなら雨に対策を打てるだろう。だが、そうでなければ。雲の様子を見てから、彼女に雨が降ることを伝えておけばよかったと、ほんの少し後悔した。

 リュリはおもむろに尋ねる。その声は不思議と穏やかだった。

「ねえ、お兄ちゃん……教えてくれる? お兄ちゃんのこと、私のこと。……それから、お父さんとお母さんのことも……全部」

 シュウは、リュリを抱く腕を少し弱め左腕を解くと、その手で彼女の頭を撫でた。

 二人の過去は、ある一時期を除いて、決して明るいものではなかった。だが、彼女が知りたいと言うなら、教えようと思っていた。しかし〈孤児院事件〉の真実は、彼の不利にしかなり得ない。何とか伏せなくては、と彼は計算をし始めた。うまくいけば、彼女の信頼を一手にすることも不可能ではないのだ。瞳が翠色に閃きだす。

 まさか撫でられるとは思っていなかった彼女は、体をびくつかせた。それを見て兄は、彼女に口元をくいっとあげてみせた。リュリにはそれが何のサインだか、まったくわからなかった。それよりも、彼女は兄の瞳がくるりと翠色に輝いたことが気になった。

「それは長い話になりそうだ。リュリ、こっちにおいで。昔みたいに膝枕をしよう」

 彼はそっと寂しそうにほほ笑むと、寝台の上にしっかりと座り、リュリを手招いた。

 彼女は言われるまま、彼の膝の上に頭を乗せた。細くて、骨ばっている太腿を感じ、またその正反対の肉体を持つ男のことを思い出してしまう。

 彼女の額を、シュウは子供にするように優しく撫ではじめた。雨風がろうそくを消してしまうと、塔の中は一瞬にして暗闇に包まれた。

 彼は静かに語り始めた。闇の中で翠の瞳がおぼろげに光を灯す。

「僕の記憶は痛みから始まるんだ。全身に刻みつけられた傷から、じわじわと侵食してくる、痺れるような痛みだったよ……」


 シュウは、終始穏やかに語った。養父アラムとの出会いも養母ファイナとの思い出も、イグナートと言う師匠を殺めたことさえも。

 彼は〈孤児院事件〉の真実を除く全てをリュリに話した。

 リュリが関わる場面においては、そっと涙を一粒こぼした。しずくがリュリの頬に落ちた数だけ、彼が復讐で固めた心を溶かしていた。


 雨の上がった朝もやの彼方から、一条の光がそっと暗闇を切り裂く。その光はまだ弱く、二人の居る塔には届かないが、夜明けを喜ぶ鳥の歌が確実に朝の気配を伝えていた。鳥の声に消えそうなシュウの呟きがリュリの耳に届く。それは、気取らない彼自身の独白だった。

 そう思ったが、リュリにたくさんの小さな疑問が芽生えたのも確かだった。一体、この疑問はどこから来るのだろうと彼女は眠たさに濁る頭を捻った。

「もう、君に会えないかと思った……。でも、リチャード・ボーマンが、君が生きているかもしれないというヒントをくれた。挙句の果てに、その弟が、君と僕を引き合わせてくれるなんてね……。運命は、不思議なものだよ……」

 紡ぎ手ファイナという名前、グレンツェン孤児院の不慮の火事、時を越えたリチャード・ボーマン伯爵、そしてその弟、アルフレッド。リュリをグレンツェンから助け出してくれた少年のことも知らない、と彼女は好奇心を燃やし始めた。

「リチャードさん……〈時の竪琴〉……!」

 少女の思考に、ちかりとひとつ閃きがあった。

 そうだ、わたしが過去に行けばいいんだ。

 アルフレッドの兄、時を越えた伯爵に話を聞けば〈孤児院事件〉の裏を取ることが出来るだろう。

 アルくんのお兄さんを探しに行こう、過去へ!

 そう思うと、すぐにでも行動しなければ、と気持ちが急くのがリュリだった。彼女は、眠たい瞳をこすりながら、兄に頼んだ。彼は彼女の計画に感づくだろうか?

 気取られぬようそっと、いつもどおりに、申し訳なさそうに。

「ありがとう、お兄ちゃん。私にも竪琴って直せるかなあ……?」

「そうか……! すぐに取ってくるよ。結婚……〈ギフトの交わり〉をしたらすぐに時間を飛んでゆけるようにしておかなくちゃいけないからね」

 彼が何も疑わず快諾するのを見て、リュリは強張っていた肩の筋肉を一気に弛緩させた。シュウにとってリュリは、無計画で無防備なかわいい妹であり、ちょっとした駆け引きもできないと思っているのではないか、と彼女はうがった。

 わたし、もう大人だもんね。

 シュウが、心の中で舌を出すリュリの頬にそっとくちづける。

 それと同時に、室内に赤毛の兵士が飛び込んできた。

「ここでしたか、ジークフリート殿! 女王陛下が何処にもいらっしゃいません!」

 もう気付かれちゃった!

 リュリが思ったそばで、太陽はゆっくりと昇り始めていた。


 六月二十二日、早朝。

 御披露目の当日に、女王がこつ然と姿を消したことで、城内は騒然とした。

 城中を兵士や女中が駆け巡る、予想よりもすさまじく混乱した状況にリュリは瞳を丸くしていた。主謀者の一味なのに。そんな中、優れた魔術師であるジークフリートことシュウが元老院に召喚されるのはもっともなことだった。

 だが彼は、その呼び出しよりもリュリとの約束を優先させた。

 それだけでなく、悠長に朝食まで共に過ごした。

「リュリ、まずは竪琴を君に預けておくよ。女王さまを見つけたら、すぐにでも御披露目を終わらせて、二人の時間を早く作れるようにするから……」

 名残惜しそうにリュリの頬にくちづけの嵐を降らせると、彼はスカーフを翻して塔から降りて行った。

 リュリは、彼の姿が見えなくなると胸を撫で下ろした。

 朝になる前に雨は上がっており、青空からはほんのりと潤いのある風が塔に吹きこむ。

 ここからは、リュリの冒険が始まるのだ。気分も新たに、こぶしを握ろうとした。

 だがその右手には竪琴、左手には青い本―『白金の小鳥』があり、それを握りしめただけになってしまった。彼女は両手に持った物を交互に見て、ため息をつく。

「ああは言ったけど……わたし、絃なんて張ったことないんだよね……」

 過去に居るであろうアルフレッドの兄に会おうと、急に思いついたは良いものの、肝心の竪琴を直さなければ、それは叶わない。

 彼女は日頃あまり捻らない思考を、彼女なりに回転させた。

「……絃……髪……糸……紡ぎ手……。もしかしたら!」

 竪琴も大事だが、読み終わった本もロザリンデに返さねばならないことを思い出す。そして、兄とリュリの過去の物語に出てきた紡ぎ手と同じ、ファイナという名前の女性。それについても確かめねばならないと思った。

「……逃げる前に、意外とすることが多いよ?」

 彼女はそっと独りごちると、婚礼衣装を着替える暇も惜しんでそそくさと塔を下りて行った。

 以前に転げ落ちて辿り着いたホールに、顔見知った赤毛の兵士は居なかった。彼だけでなく、全ての兵士が出払っているようだった。人気のないホールに、朝日が窓辺から何条も差し込む。

 だが、どこからか人々が声を掛け合っているのが聞こえる。

「ロゼちゃんてば……人気者なんだね?」

 あんなに小柄な少女なのに、こうも人を引き寄せ、動かすことが出来るのかと、リュリは感嘆しながら歩みを進めた。

〈ギフト〉が無いなんて、嘘みたい。

 彼女はホールを横切り、自身のいた塔と鏡合わせの設計になっているもう一つの塔へ登った。

 そこはつい最近、リュリが自室と間違った、女王の乳母の住まう部屋だ。

 乳母の部屋に向かう間、彼女の鼓動はその耳に大きな音を響かせていた。階段を上っているからだ、と彼女は思った。しかし、それにしては緊張もしている。その証拠に、足を上げるのがずいぶんと慎重だった。まるで、気配を消しているように。

 たどり着いた最上階で、なぜか息を殺して、リュリは扉の前に立ち尽くした。

 なんて、声をかけたらいいんだろう。

「……お入りなさいな、リュリ」

 リュリは、扉越しの乳母の声を聞いて、体を硬直させた。だが、穏やかな声音を信じ、そっと扉に手を伸ばした。扉はリュリに触れられまいとするように、すっと開いた。

 瞳を丸める少女を見て、妙齢の紡ぎ手はその口元を綻ばせた。

「あ、あの、えっと……その……」

 リュリには、彼女に言いたいことがたくさんあった。しかし、それらをいっぺんに話せるわけではない。彼女は何から言えば良いのやらと、しどろもどろになった。

 乳母の温かなまなざしを受けていることが、かえって彼女の気持ちを焦らせた。

 リュリの様子を見かねて、乳母がそっと助言を呈する。

「まずは入っていらっしゃいな。おかけなさい」

「は、はひ……」

「……何からでも、いいわ。落ち着いて話してごらんなさい」

 リュリは言われたとおりに行動した。乳母の座る糸紡ぎの前にあった椅子に、腰を下ろす。そして、両手に持った道具を机の上に置く。乳母の視線がそれらに注がれるが、リュリはそれに気付かなかった。

 落ち着いて。

 アルフレッドにも同じことを言われたっけ、とリュリの心にじんわりと彼の声が広がる。

 城を出て、すぐにでも彼の大きな屋敷に、彼に会いに行こう。

 刹那、美しい貴婦人と並ぶ彼の姿が脳裏をよぎる。貴婦人は、リュリを苦しめたあの翠のドレスを難なく着こなし、そっと彼の腕を引く。彼もそれを笑顔で受ける。アルフレッドは、リュリに不機嫌そうな一瞥をくれると、無情にも背を向けた。

 そんな嫌な想像をしてしまい、陰鬱な気分になって、リュリは頭を垂れた。乳母の部屋に響いていた、カタカタという紡ぎ車の廻る音が止んだ。その代わりに衣擦れの音が続き、食器のぶつかる涼しげな音が聞こえてきた。女王の乳母はリュリに、大きなマグカップを差し出す。

 リュリは、嗅ぎ慣れたお茶の香りにはっとし、受け取った。

 手のひらでそれを包むと、じんわりとした暖かさが伝わる。

「リュリ……あなたのお話し、聴かせてほしいわ……」

 そう言うと乳母はリュリの隣に椅子を引き寄せて、机の上に両の肘をつきながら、持っているマグカップに唇をあてがった。瞳の色は、水色がかったグレーだったが、その形にやはり見覚えがある、とリュリは思った。婦人につられて飲むと、のど越しに、ほんの少しぴりっとした味を感じる。

「生姜だ……」

「そう……。夏が来ても、体は冷えるから……」

 リュリはこくりと頷き、お茶をすする。

 城から突き出ている塔に、風が切られて轟々という音がする。

 二人はどちらともなく話し出すのを窺いながら、沈黙を破らずにいた。

 未だ緊張が解けきらぬリュリは、話す代わりにごくごくとお茶を飲んでいた。そのため、マグカップの底が見え始めるのに、そう時間はかからなかった。

 ごくりと最後の一口を飲み干してしまうと、リュリはカップを机に置き、代わりに竪琴を手にした。

「お願いがあるの。あなたがもし、紡ぎ手なら……。ファイナ、この竪琴を直してほしいの」

 少女の両腕と翠の瞳が真っ直ぐに乳母に向かって伸びる。彼女は差し出された竪琴を受け取ると、愛おしげにその枠を撫でた。彼女の伏せられた睫毛の長さに、リュリの視線が吸い寄せられる。

 ファイナは懐かしむように呟いた。

「また、これに糸を張る日が来るだなんて……」

「また?」

 小首を傾げるリュリに、乳母はにこやかだ。

「ええ、そうよ。それに丁度、面白い糸をよっていたところなのよ」

 ほら、と言ってリュリに差し出された糸巻には、淡く桃色がかった金色の糸が巻いてあった。

魔法めいて艶めくその色に、リュリは気付く。

「これ、ロゼちゃんの髪! 本当に、シファナ姫と同じことをしちゃったんだ……」

 夕陽の落ちる空の彼方、昼と夜の境にできる幻想的な色をそのまま受け継いだような、豪奢な色をして、女王が歩く度にたなびいた、足首まで伸びた美しい髪。大切にしてきたであろうそれを断ち切ってしまうほど、彼女の失意が深かったことに、リュリは改めて気付かされた。

「リュリ、糸をちょうだいな」

 少女はこくりと頷き、乳母に乞われるがまま糸巻を差し出した。

 乳母は慣れた手つきで糸に珠を通し、糸を穴にくぐらせると、ペグに巻き付けていった。

 作業を見守るリュリに、ファイナが問いかけた。

「リュリ、その本を読んだのね?」

 リュリは再び頷く。

 それを傍目に受け、ファイナは続ける。

「……あの終わり方に、あなたはどんな感想を持ったのか、聞かせてくれないかしら?」

 終わりという言葉に反応し、リュリは顔を上げた。乳母の言葉は、結末を知る者ではないと出てこない言葉だ。彼女はせきを切るように話し出した。

「実は、最後のページが無くて! どんな終わりか、わからないの。お話を知ってるの?」

 リュリの銀色の髪が窓からの日差しの中で光に溶けるのを、ファイナは眩しそうに見やった。

「知ってるも何も、それは私が書いたお話だから」

「そ、そうなの?」

 身を乗り出してくるリュリが、作業をする手元を陰らせたので、乳母はそっと体の向きを変えた。そして、少しおどけて言って見せた。

「なんだったら、今ここで、あなたの気に入る結末をつくってもいいのよ?」

 ファイナの、少女を喜ばせようとした言葉に、リュリは真面目そうな表情をつくった。それは喜んでいるとは言い難いものだった。

「……私の好きな終わり方じゃなくていいよ。あなたの、ファイナの望んだ結末が見たいの。だから……」

 そのとき、申し訳なさそうに話すリュリの後頭部に、ぴしりという衝撃が走った。

「ひゃっ!」

「大丈夫、リュリ!」

 患部を抑えながらうずくまるリュリの横に、丸くまとめられた麻縄が落ちる。すると、壁を擦る音が聞こえてきた。音が消えると同時に、窓辺から一つの影が部屋に侵入してきた。

「もう! どうしてわたし、いつも痛い思いをしなきゃいけないの?」

 リュリはすっくと立ち上がると、今までの理不尽な思いを言葉にして、影にぶつけた。

 原因のほとんどはリュリの鈍くささなのであるが、彼女はそうは思っていなかった。

 逆光で顔の見えない人影は、彼女の言葉を気にもとめず、リュリをひと思いに抱きしめた。

「ファイナ! やっと迎えに来られた……!」

「えっ? ちょっとまって!」

 突然の抱擁に慌てるリュリの肩を掴むと、人影は彼女の顔を覗き込んだ。

 そのおかげで、影の正体は男性だとわかった。年月が刻んだ皺で少しくたびれた雰囲気はあるが、精悍さは失われていない。無精ひげが日焼けした肌に白く目立っていた。

「綺麗だよ……! 昔と変わんねえ……! さすが俺のファイナだ!」

 ほれぼれとしながらリュリの顔を眺める男性と、何故か涙を浮かべ口元を押さえるファイナ本人を、リュリは忙しなく見比べた。

 癖の強い白い髪に、翠の瞳の男性。

 穏やかなアーモンド形の瞳に、細い鼻、そして抜けるような白い肌を持つ女性。

 リュリの頭の中で疑問が確信に変わってゆく。彼女はバラバラになっていたかけらが定位置にはまるのを感じ、ファイナを真っ直ぐに指さした。

「違うよ! ファイナ……、えーっと、お母さん、はあっち! 私はリュリ!」

 声を荒げる目の前の少女に倣って、男性は乳母の方を見やった。

 彼も目の前の女性と少女に深い血の繋がりを見出したようだった。

「ん? リュリ? ……ってことは……お前……」

 ファイナもリュリの言葉を受け、溜めていた涙をあふれさせた。

「リュリ、あなた……!」

 二人の視線を全身に集めたリュリは、自信が無さそうにはにかんだ。

「まちがってたらごめんなさい、だけど……。そう、だよね? ファイナは、お母さんで……あなたがアラム、お父さん、なんだよね?」

 勢いで言ってしまったことが、もし間違いだったらどうしよう。

 そう考え始めたリュリは羞恥で顔を上げられなくなってしまった。

 それを見て、二人はそっと言葉をかけた。

「何一つ、母親らしいことをしてやれていないわたしを、まだ母と呼んでくれるのなら……」

「家族を守れない、かっこ悪い親父で良いんなら……」

 未だにもじもじとしている少女を前に、男女は視線を交わした。男性はそっとファイナの腰に腕を回し抱き寄せた。女は彼の傍らでそっと涙をこぼしていた。しかし、その表情は喜びに満ちていた。母親は両腕を差し伸べ、娘に胸を開いた。

「おいで、リューリカ。私たちの、娘……」

 リュリは、日差しに包まれた両親の間に飛び込んでいった。

 彼女の頭を撫でる手のひらは武骨で大きく、彼女の体を包む両腕はしなやかで暖かかった。 言い知れぬ懐かしさを覚えたリュリに、何かが込み上げてくる。嗚咽と共に感情があふれる。

「やっぱり、お兄ちゃんは嘘つきだよ! お父さんもお母さんも生きてた……。だからこうやって会えたもん」

「シュウか! あいつに会ったのか、リューリカ?」

「うん」

 リュリはアラムの詰問に、涙を拭いながら頷く。

 ファイナは夫の語気が強すぎるのを視線で牽制し、穏やかな声音で娘に問うた。

「あの子のこと、知っているのね?」


「リューリカと結婚ねえ……。どこの馬の骨だ? 顔を見せにも来ないで……お父さんは認めないぞ!」

「お父さん、お兄ちゃんだよ……」

 これまでの経緯を娘から聞いた両親は、その手を繋ぎながらも別々の反応を見せていた。

 リュリはそれを見て多いに戸惑う。

「わたし……やっぱり、母親失格だわ……。あの子の顔すらわからなかったなんて……」

「仕方ないよ、だってお母さんの前では仮面を取らなかったんだし……」

 激高するアラムをなだめたと思ったら、落ち込むファイナ。そしてその母を励ますリュリ。と、彼女は父親が握りしめている紙片に気付いた。

「お父さん、それ、ぐしゃってしても、いいの?」

 リュリが指さすと、彼は慌ててファイナと繋いだ手を離し、紙片を広げた。

「……これが、たったひとつの道標だったんだ」

 アラムが妻に向けてその口の端をくいっと持ち上げると、彼女は何度目かその整った容貌に滴を零した。その紙片には、流麗な蔦模様で飾られたヴィスタの文字があった。


『親愛なる女王陛下、我が娘へ――ファイナ・オルロフスカヤ』

 リュリがその紙片の裏に、細かな文字を見つけている間、ファイナは再び夫の胸に寄り添っていた。言葉も出てこない妻を、夫が愛おしそうに抱きしめる。

「君の謎かけが優れていたことと、俺の推理が正しかったことに感謝してる。リューリカ、親父の名推理、聴いてくれねえか? それから、さっき会った――」

「ああっ!」

 リュリが提案に二つ返事をしようとしたとき、教会の鐘が鳴った。十一回目で鳴りやんだそれで、リュリは現在の時刻がわかった。

 驚くべき偶然で家族は再び顔を合わせることが出来た。しかし、今、リュリには目的があったのだ。それは、兄に見つかる前に遂行しなくてはならない。焦りが喉から弾ける。

「お母さん、お父さん、わたし、行かなきゃ! あのね、わたし、好きな人がいるの! でも、その人にも好きな人が居て、でも、わたしはその人が好きで、あと、お兄ちゃんはわたし以外に意地悪だし、そもそも、お兄ちゃんとわたしが結婚とか変だし……!」

 好きな人、という言葉に、再び全身の毛を逆立てようとするアラムを、ファイナが制する。

「いってらっしゃい、リューリカ」

 母の笑顔に、リュリは緊張にいからせていた肩をほっと降ろす。

 何かを言いたそうな夫のくちびるにそっと手のひらを宛がって、ファイナは続ける。

 その手には先程の紙片があった。母は娘へ、それを手渡すことはしなかった。

「待っているわ。物語の終焉と共に」

 リュリは母の手仕事に感嘆する時間も惜しんで、竪琴を受け取るなり、駆けだした。

 階段を照らすように開け放たれた窓から差し込む陽光に、新しくはられた絃が反射して、薄暗い影にきらりと魔法の虹を写す。

 息せき切ってホールに駆け下りたリュリの瞳に、まだらな金髪の房が飛び込む。

 それはまるで馬の尻尾のように躍動し、リュリの降りてきた塔と反対へ去っていった。

 双子の塔、彼女が住まっていた場所だ。

 駆け昇っていった青年は、少女が焦がれ続けた貴族の男だった。

「……アル、くん……? どうして……?」

 リュリの足は、自然と彼を追い始めた。

 心の速さに、全身が従っていた。

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