二、レトリックはお上手?

 六月二十一日。

 陽が落ちると、にわかに湿った風がブリューテブルク城に吹きつけていた。

 湿気が、ロザリンデの桃色の金髪をしっとりとまとめる。

 彼女はわくわくして小さな椅子に座った。その体には、日頃身に着けていた豪奢なドレスではなく、煤けてくたびれた町娘風の服をまとっていた。彼女にとって大きめだったが、腰の部分を太いリボンで引き締めることで、スカートの丈を短くすることに成功していた。

「女王さま、本当にいいのですか? 大切に伸ばしてきたのに」

 ろうそくの灯る乳母の部屋で、ロゼは小さな椅子に腰かけてその時を待っていた。彼女の心情を思いやる言葉に、女王は決然と答えた。

「いいの。昨日までのわらわは、明日に連れて行かないの」

 ロザリンデは、一度こうと決めたら、それを揺るがさない芯の強さを持っていた。ジークフリートに恋い焦がれた自分から脱皮するのだ。そう、彼女は思っていた。

「ふふ、新たな門出の為に、新しい肖像画を描かせないといけませんね」

「リヒャルトは、もう十分仕事をしたじゃない。新しい人がくるはずよ」

 乳母のはさみが耳元で涼やかな音を立てる度、ロザリンデは肩が軽くなるのを感じた。

 女性の命とも言われる長い髪。ロザリンデにも、髪にまつわる甘い思い出くらいあった。

 それは、側近の魔術師がそっと手で梳いてくれたことだ。

 しかし今の彼女にとって、その思い出は苦いものでしかなかった。

 文字通り肩の重荷が下りて、首を回すのも楽になった女王が手鏡の中に見出したのは、足元まで伸ばしていた豊かなブロンドを、肩の上まで切りそろえた新たな姿だった。

 角度を変え、新しい自分を誇らしげに眺める。

「お気に入りの髪飾り、使えなくなっちゃった」

 生まれてこの方、彼女のおさげを支えていた二つの髪飾りは主人の髪からポケットへとその住まいを変えた。女王は恋しさから、それをポケットの上からそっと愛おしそうに撫でた。

 その様子を見て、ファイナも少し目を細める。

「それも御承知だったのでしょう?」

 ロザリンデは頷いた。そして切りそろえた髪の軽さを、首を振って堪能すると、女王は勢いよく立ちあがった。細かな髪のくずが小さな炎の光を受け、床にきらきらと舞い落ちる。

 女王が振り向いた先、乳母の足元には、長いまま切り落とされた髪が川のように、または夕焼けに染まる草原のように流れをつくっていた。

 つい先刻までそれらが自分の一部だったと思うと、彼女の心に感傷が波のように押し寄せてきた。しかしその口ぶりは、殊勝なままだった。

「これで、どんな糸が出来るかしらね、ファイナ?」

「そうですね、竪琴の絃に出来るかもしれませんよ」

 乳母が彼女に合わせ、おどけて見せると、ロゼも眉を上げて見せた。

「そんな、おとぎ話みたいなことを言って」

「女王さまは私のお話が大好きですからね」

 共犯者のようにくすくすと笑い合う二人に、そっと細長い影が近付いた。

 それは黒い髪を持つ女中だった。彼女は女王の荷物とマントを携えていた。

「陛下、そろそろお時間です」

 サナがそっと出発の時が迫ることを告げると、ロゼはしっかりと自身の体にくすんだ草色のマントを巻き付け、乳母を抱きしめた。

 ファイナは、ロザリンデの抱きしめる腕の力強さに、彼女の不安が予想以上に大きいことがわかった。

「一日だけ、冒険してくるわ。素敵なことがあるように、お祈りしていて」

「ええ、いってらっしゃい、女王さま」

 乳母がロザリンデの頬にくちづけると、彼女は照れくさそうに笑ってサナの手を取った。

 女中はそっと瞼を伏せ、空間を歪めるとその先へと女王を誘った。


 ロザリンデが気付くと、目の前には街灯がそっと照らす薄茶けた通りが左右に伸びていた。

 城内とは全く異なる埃っぽさに、彼女は少しだけ咳き込む。あたりを見回し、首をもたげても、背の高い建物に阻まれ、自身の居た城はどこにあるのか彼女にはさっぱり分からなかった。

 きょろきょろと不審な動きを重ねる彼女の背後に、サナがそっと寄り添う。

「陛下、宿は左の通りを真っ直ぐ進んだところの、曲がり角にあります」

 サナはそう告げると、そのまま立ち去ってしまったようだった。その証拠に、サナの声のする方に首を向けたはずなのに、そこには誰も居なかった。

 ここからは一人なのだ、そう思うとロザリンデは急に暗がりに独り立ち尽くしているのが、たまらなく不安になった。

 とりあえず明るいところへ、そして宿へと思い、サナの言葉の通り左手を見る。

 すると、確かに明かりが多く灯されていて人々で賑わっているようだった。彼女はくすんだ萌黄色のマントを体にきつく巻き付け、左の方へ向かった。

 ロゼがずんずんと歩くと、その路を彩るように、ちょっとした露店が繰り広げられていた。

 街路地に立ち並ぶ屋台は、どれも彼女の視線を引き付けた。移り気なその様子をみて、商人たちも声をかけてくる。だが、そのどれも異国の言葉が混じってなまっていたため、彼女には全く理解が出来なかった。なので、彼女は困ったような愛想笑いを浮かべて、彼らの呼び声に対応し、その足を止めることは無かった。

 宵の口だからか、ロザリンデの向かいからもたくさんの人々が歩く。

 彼女は生まれて初めて、人をよけながら歩いた。それでも、うきうきと少し砂っぽい夜の雑踏を楽しめていた。世の中にまだ知らない人間や言葉があるということだけでも、彼女の好奇心はどんどんと膨らんでいく。それに加えて、何かを燃やす香り、嗅いだ事のない異国の布の持つ香り。それらさまざまな匂いが行き交う人々の多さを示しているようだった。

「お嬢ちゃん、寄ってかないかい?」

 ひときわ大きな露天商の声に、ロゼは体をびくつかせた。正確な発音のヴィスタの言葉が耳に飛び込んできたのだ。何処から呼ばれたのだろうかと、きょろきょろと首を回す。

「こっち、こっち。立ち止まったら、流されちゃうよ」

 そう言う露天商は、建物のすぐ前に不思議な色をした絨毯の上に座り、大小さまざまなガラス瓶を並べながらロゼを手招きした。どうやら店を広げている最中らしかった。

 たっぷりとした、いや、でっぷりとした腹周りは、ロザリンデの知る元老院の老人たちに匹敵する肥満具合で、彼女にある種の親しみやすさを与えた。

 彼女が訝りながら近寄り、彼の前にそっと屈むと、露天商は口元を覆っていたスカーフを右手で乱暴に下げ、ロザリンデに小瓶を見せた。

 街灯の明かりがきらきらと反射するガラスの瓶は、彼女の注意を簡単に引いた。

 屈んだ拍子に、顔に髪が掛かる。切りっぱなしの毛先が頬にちくちくとむず痒かったので、彼女はしきりに髪の毛をいじっていた。

「綺麗……」

「お嬢ちゃん。思い人が居るンだろう?」

 これでもかというほど抑揚の付けられた声に、ロザリンデは若干の不快感を覚えた。

 だがそれよりも、初対面の胡散臭い男に自身の心を読まれたということが信じられなかった。

 ロゼが口をあんぐりとあけ、彼にどうしてと尋ねようとすると、彼は小瓶を持っていない方の手を彼女につきだして彼女に話をさせなかった。

「いや、言わなくてもわかりますよ。その思い人には、他に好きな人が居るンでしょう。でも、この甘い惚れ薬さえあれば、彼の心はお嬢ちゃんだけのものになる!」

 高らかに宣言する露天商の男に、女王はその高いプライドをかなぐり捨てて詰め寄った。

「本当に?」

 ロゼは彼から小瓶をもぎ取ると、半信半疑といった様子で、露天商の小瓶をじっくりと見た。

中には、とろっとした黄金色の液体が入っているようだった。たしかに、その液体は薬に見えなくもなかった。

 だめで元々、そのつもりで一つ買うのもいいかもしれない、と女王は思った。

 嫌いと一言で片づけるには、彼女の恋心は重かった。彼女の摂政だった魔術師は、イグナートとファイナに次ぐほど、彼女の傍に居た人物だった。年月と共に重なった思いは、そう簡単に消えることは無かったのだ。たとえ、彼の思いがロゼに向いていなくとも。

 怪しい商人はいけると踏んだのか、ロゼの耳元に耳障りな声でささやいた。分厚い唇を震わせて、子音がこれでもかと強調される。

「あンまい香りが魔法の証拠。私の友達は皆、その薬で幸せになったンですよ」

 脂ぎった男の言葉に、ロザリンデが頷いて自身の鞄から財布を出そうとした瞬間、彼女の頭上からはつらつとした若い男の声が聞こえてきた。

「へえ。今ならたった金貨一枚でこれが買えて、お得なんだ?」

「そう、その通り……。はっ! なんだお前は!」

 城内では聞いたことのない、軽い言葉の調子に、ロザリンデの体は緊張した。そして、露天商の視線の先を辿る。そこには、革の鎧をまとった細身の青年が立っていた。

 彼の手には先程までロゼの手のひらにあった小瓶があり、彼はそれをしげしげと観察していた。ついでに軽く手首で振り、小さな湿った音を聴く。

「これ、はちみつか? しかも水で薄めてないか? せいぜい銅貨2枚くらいじゃねえ?」

 彼はつまらなそうに指摘した。彼が屈んだ拍子に、少女は彼の容貌を見ることが出来た。

 栗色の髪を短く刈り上げ、狭い額に眉根を歪めた表情。声音も大概だったが、その表情も、本当に疑っている顔をしていた。王宮ではマナー違反とされる、声と表情の一致を目の当たりにし、女王は感心した。

 青年に対し、話し方をがらりと変えて、露天商は怒鳴りちらした。

「五月蠅い、商売の邪魔をするンじゃあねえ!」

 その手のひらを返した野蛮さに、ロザリンデはすくみあがる。

 しかし、青年の態度は相変わらず堂々としていた。

「貴族相手なら、思う存分ふんだくればいいと思うけど、こんなちっちゃい子を引っ掛けるのは良くないと思うぞ。ほら、俺が一個買うから……さ!」

 青年はそう言って銅貨を二枚露天商に投げつけると、露天商の前から動けずにいたロザリンデを肩に担ぎ、驚くべき速さで走りだした。

 すると露天商の怒号に合わせ、同様の服装をして武装した商人たちが現れた。彼らは細身だったので足もそれなりに早かった。

 青年は女王の両足を左腕で抱え、走る。

「え、ちょっと、何、なんなのよう!」

「いきなりごめん、しっかりつかまってろよ、ちびちゃん!」

「ちびって言うなあ!」

 革鎧で覆われた青年の肩の上、ロザリンデは落ちないようにと、不本意だが彼にしがみ付き、小さく体を丸めた。

「後ろ! あいつら来てるか?」

 そう言われて、頭を庇っていた女王が走る青年の後ろを見ると、数名の商人たちが追いかけてきていた。暗がりで、何人が追いかけてきているかは数えられなかった。足音もほとんど聞こえない。しかし家々に灯されたランタンの明かりが、彼らの持つ武器をちらちらと照らして見せたため、追われているという事実に確信が持てた。

「来てる! どうしよう、わらわ、殺されちゃうの?」

 命の危険を感じて怯え、青年にしがみ付く手を強める少女に、青年は自信たっぷりに言ってのけた。その声は走行中だからか、弾む呼吸のためにリズミカルだった。

「なあに、借金、取りみ、たいな、もんだ。捕まっ、ても金、を払わされ、るくらい」

 女王は安心して、張り詰めていた呼吸を元に戻す。その口調もついでに元通りになった。

「あら、そうなの。お金ならあるわ。どうして逃げるの?」

 会話をしながらも呼吸を乱さない青年は、へへっと一つ鼻で笑った。

「コップ、一杯、も無い、はちみつ、に金、かけて、どうすん、だよ!」

 そう言うと彼は更に走る足を速めた。

 間合いを詰めてきていた露天商が、一人、また一人と見えなくなってゆく。

 ロザリンデは馬に乗ったことは無いが、乗ってみたらこれくらい早いのだろうかと、青年の肩の上でそっと思った。


 二人は蛇のような大通の裏道を幾つも走り抜け、彼らを巻くことに成功した。

 ロザリンデには、ここが一体どこなのか、全く見当がつかなかった。

 サナがとったという宿からは大分離れてしまっただろう。

 では、今夜はどうすればよいのだろうか? 路地で野宿をするとか? そこまで考えたが、それはまっぴらごめんだと彼女は首を振った。

「はー、走った! ここまでは来れないだろ……。ちびちゃん、大丈夫か?」

 長距離を馬のような速さで走ったにもかかわらず息を荒げていない青年に、ロザリンデは驚嘆しながらも抗議した。

「大丈夫も何も無いわ! ここはどこなの?」

「こら、居住区で大きな声出すなよ、ちびちゃん!」

 人が二人並んで歩く分しか開いていない細い小道に、男女の声が反響する。

 ランタンは無く、住居から漏れるほんのわずかな明かりが、狭い通りを照らしていた。彼の顔は陰になってよく見えない。

 計画通りならば、もうすでに宿でのんびりと夜を過ごしていたはずだと思うと、ロザリンデは段々と腹が立ってきた。彼女はその八つ当たりを目の前の青年にすることに決めた。

 そう、元はと言えば、青年が露天商にケチをつけたのが悪いのだ。ロザリンデが金貨を一枚支払うのを彼が邪魔しなければ、こんな面倒な目には合わなかったのだ。

「ちょっと、ちびちゃんなんて呼ばないでくださる?」

「悪い。じゃあ名前を教えてくれよ、ちーびちゃん」

 栗色の髪を持つ青年は、腰に手を当て、身長差のあるロザリンデの顔を上から覗き込んだ。髪と同じ栗色の瞳が悪戯っぽく光る。初対面にもかかわらず馴れ馴れしい態度で上げ足をとる彼に対し、さらなる怒りが込み上げる。言い返してやろうと大きく息を吸い込んだ瞬間、彼女は自身がお忍びの身であることを思い出した。

「レディに名前を尋ねるときは自分から名乗るものでしょ? わら……わたしはローズよ」

 女王は、彼女なりに自身の素性を隠そうと精いっぱいになった。

 とっさに出てきた偽名が、全くの偽名ではなく、他国の言語での自身の名前になってしまったのが痛かった。

 しかし、彼はそこには気付かないのか、さらりと話を続けた。

「こんな夜中に独りで出歩くレディが居るかよ。俺はルロイ。お城を守る兵隊さんだ」

 彼のよく通るはつらつとした声は、自信に満ちていた。

 女王は丸い瞳をぱちくりさせる。

 なるほど、城に勤めている兵士なのかと思うと同時に、見覚えが無いことに少し引っかかった。同じ背格好の兵士と言えば、塔のあたりを守護する赤毛の青年が真っ先に思い出された。

 だが、それはファイナのところに行くのに彼の前を通るからであって、女王は普段から、兵士や女中の顔を覚える努力などしたことは無かった。

 ほんの少しだけ、雇用する側として罪悪感を覚えると、彼をそっけなく労った。

「あら、いつも御苦労さま」

「ちびちゃんが何を言ってんだか。さ、ローズ、家はどこだ? 連れてってやるよ」

「う……家は……その……」

 青年兵士ルロイに痛いところをつかれ、ロザリンデは口ごもった。

 彼の勤め先が己の住居であると言えるわけもなかった。ようやく城の外に出てきたばかりなのに、何の冒険もせずにとんぼ返りすることは何としても避けたかった。

 まごつく少女を目にし、ルロイは彼女の前にそっと屈み、その顔を突き合わせた。

 女王は真正面から青年に見つめられ、余計に言葉に詰まってしまう。近くで見ると悪くない顔だ、と彼女は思った。その心境とは裏腹に、彼女はたじろぐ。全くおめかしをしていない状態を間近で見られることは、彼女のプライドが許さなかったのだ。

 彼は心配そうに眉を傾けた。口元からも、先程の快活な笑みが消えた。

「……家出か? もしそうなら、母ちゃんに素直に謝っとけ。なんなら俺も一緒に―」

「居ないわ。……居たとしても、逆に謝ってほしいくらい……」

 少女の冷たい言い草に、ルロイは言葉を詰まらせる。彼の傷ついたような様子を見て、ロザリンデははっとさせられる。

 女王は自身を置いて去った両親を未だに許せずにいた。病弱な父は、ロザリンデから母親の温もりを奪った。その父が崩御し、母がやっと彼女を見てくれる日が来た。そう思っていた矢先の母の出家。父はロザリンデから永久に母親と言う存在を奪ったのだ。彼女はロザリンデに父の面影しか見ようとしなかった。朝日のような金色の髪、金色の瞳、そのどちらも母親譲りだったから、彼女はそれらについて全くほめてはくれなかった。鼻の形、顔の形、父親に似たところだけを全て取り上げて褒める。お父さまにそっくりだと。決して彼女自身と言う存在を認め愛そうとすることは無かった。

 ロザリンデが気まずくなって青年の視線から金色の瞳を逸らすと、彼は沈んだ顔をした。

 湿った風が吹きつけ、二人の髪をかき乱す。

 極端に短く切りそろえられた毛先が、少女の首回りを擽った。

「……聞いちゃいけなかったか。悪い」

 沈黙を破ったルロイの声は、露天商に食ってかかっていた、あのおどけた調子から一転し、ぼそぼそと落ち込んだような響きをしていた。

「……べつに、あなたが謝る問題じゃないでしょ」

 口を尖らせる少女には、どうして彼が、あたかも自分のことのように表情を陰らせたのか、よくわからなかった。

 そのとき風がとどろいたかと思うと、いつの間にかヴィスタを覆っていた黒い雲の隙間から、雨粒が大きな音をたてて降ってきた。

 石畳に叩きつける粒は大きく跳ねかえり、上からも下からも二人を濡らし始める。

「やっべ! 雨降ってきた! 行くぞ!」

 ルロイは再び彼女をいざなおうと、手を引こうとした。その筋張った手を、彼女は振り払う。

「いやよ! 怖い目にあうし、雨は降るし……あなたといると、ろくなことが無いわ!」

「えい」

 激高する少女の鼻を、ルロイは人差指ではじいた。

「いたっ!」

「そんなこと言ってると、置いてくぞ?」

 彼はにんまりと白い歯を見せつけ、自身のマントをロザリンデの上に被せた。そして彼女を先程同様、担ぎあげて路地を駆けだした。

 桶をひっくり返したかのような激しい雨が、二人に降りかかる。

 夏とはいえ冷たさのある雨に降られながらも、女王陛下の頭は全く冷えなかった。彼女は夜だということも、自身がお忍びの身であるということも苛立ちの中に忘れ、叫んだ。

「手足が冷えるわ! 早く連れて行って頂戴!」

 ルロイは彼女の尊大な態度に少しだけほっとし、冗談めかして言った。

「はいはいお姫さま、今すぐ連れてってやるから小さくなってろ!」

「小さいっていうな!」

 ルロイのマントは少女を覆っていたが、大きな雨粒はそれをも通り越して彼女を濡らしていた。もちろんルロイの短髪もびしょ濡れになり、いつもは威勢良く跳ねた前髪も今は額に張り付いていた。

 厚い雨雲のせいで急激に暗くなったヴィスタの城下町を、軒下の小さなランタンたちが照らす。しかしそれらはほのかなものだったので濡れた石畳の小路をすっかり照らす力は無かった。

 降りしきる雨のカーテンで行く先が見えにくく、そして滑りやすい石畳の上をルロイはおっかなびっくりに駆けた。うっかり滑って転ぼうものなら、肩の上の少女をしたたかに地面に叩きつけてしまうだろう。彼は慎重にかつ素早く足を運んだ。

 しかし、少女は彼の苦労を想像もしていないのか、手足をじたばたさせて抗議した。

「どこにいくのよ? いいかげん屋内に入りたいわ!」

「宿屋だよ! お前を落とさないように大変なんだよ、こっちは! 大人しくしてろ!」

 ルロイは足を止めることなく反論した。口の中に容赦なく雨が入り込む。

「早くおろしてほしいわ! あなたの鎧がお腹に当たって痛いのよ!」

「まったく、五月蠅いちびちゃんだぜ」

 ずぶ濡れの男女が宿屋にたどり着いたのは、それから五分ほど経ってからだった。

 宿屋の女将は水の滴る二人にふっくらとしたタオルをくれ、すぐに部屋に案内してくれた。雨で冷え切った身体に、乾いたタオルは温かささえ感じさせてくれた。女将がいざなってくれた部屋には、大きな寝台がひとつと机が一つ、椅子が二脚と簡素なものだった。彼女は気を利かせてくれたのか、寝巻を二着と温かいスープを机に置き、あちこちのろうそくに火を灯すと、人を安心させる頬笑みを残し、そそくさと部屋を後にした。

 少女は、桃色の短い髪を大きなタオルで拭きながら部屋を見渡した。

 自身の住居に比べたら馬小屋に近いものだと彼女は思った。が、馬小屋がどういうものなのか、彼女は文字でしか知らなかった。この際、部屋の優劣は言っていられなかった。しかし、なぜ男と同じ部屋に通されたのかと、彼女は疑問符を頭の中に描いた。

「あら、あなたの部屋は別じゃないの?」

 一人に一部屋宛がうことが、まるで当たり前のことのように言う少女に、ルロイは少しだけ語気を強めた。

「女王さまの御披露目のせいで、部屋はここ一部屋しかないんだとさ! ……急だったし泊まれるだけでもありがたいと思わないと!」

 ルロイは、妹よりも小さいのに、ずいぶんと上からのもの言いが続く少女だと思いながら、濡れてすっかり重たくなった革の鎧を脱ぎ、答えた。鎧を扉のすぐ横に横たえ、自身のシャツも勢いよく脱ごうとする。だが、濡れて肌に張り付いたシャツはなかなか素直に体から離れてはくれない。その手に握っていた、銅貨二枚で買った怪しい小瓶を寝台の近くの机に置く。

「だからって、男の人と一緒の部屋なんて……」

 ロザリンデは不快感も露わに、ちらりとルロイの方を窺う。

 彼は濡れたシャツとの格闘を終えたばかりでその鍛えられた上半身を露にしていた。

 ずっとそばに居た魔術師の体さえも見たことのない彼女にとって、成人した男性の肉体を目にするのは初めてだった。引き締まった筋肉が体にしなやかに沿っていて、それらはろうそくの明かりに照らされ、くっきりとした影をつくっていた。

 見たことのない陰影に、男性らしさを意識させられる。不思議と鼓動が高鳴るのを抑えきれず、彼女は視線を彼のいない方向に向けた。その耳に、椅子の足が床をこする音が届く。

 緊張で体をこわばらせる彼女に対し、彼はあっけらかんと声をかけた。

「このスープ美味いぞ。ちびちゃんも冷めないうち貰っとけ」

 思わぬところで体力を消費したルロイの空っ腹に、スープが温かく染みわたる。茸と豆がすりつぶされたスープはとろりとしていて、塩もよく利いていた。あら引きの胡椒がその香りをきりっと引き締めている。母親の作る料理に似ている、と彼は思った。

 濡れた服を着たまま立ちつくす彼女は、窓に映るルロイに向かって口を尖らせた。

「……わたしは先に着替えたいんだけど……」

 ルロイはしまったという顔をして、スプーンを口に入れたまま、急に立ち上がった。スープがその衝撃で揺れる。彼はごくりと口の中の液体を飲み下し、スプーンを机に叩きつけた。木製のスプーンが乾いた音を立てた。

「ご、ごめん! 俺、あの、後ろ向いて……いや! 出る! 部屋の外、出るから!」

 彼はそう言うなり、ロザリンデの言葉も聞かずあわてて部屋の外へ出た。

「ちょっと、そのままの格好で? ……何て足が早いんでしょ」

 彼女は少し呆れつつも、彼の紳士的な行動をみて、彼のことを少し見直す気持ちになった。

そしてくすくすと笑い声を立てた。

 素直な気持ちで笑えるだなんて、と彼女は自虐的なことを思った。

 窓に映った、自身のふっくらと持ちあがった頬に、両の手のひらを添える。ひんやりとした硝子が、指先に心地よい。

「着替え位であんなに顔を真っ赤にするなんて……。なんてうぶなのかしら!」

 きざな誰かさんとは大違い。

 そう口の中で付け足すと、彼女は椅子に座り、水の溜ったブーツの紐を解き始めた。

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